高島秋帆の高島流砲術
高島秋帆(たかしましゅうはん)は寛政10年8月15日(1798年9月24日)に長崎で生まれました。秋帆の父は長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)で、文化11年(1814年)に父の跡を継いだ後に長崎会所調役頭取となりました。当時、日本で唯一開港していた長崎で育った秋帆は先進的な洋式砲術を見て驚愕し、出島のオランダ人からオランダ語や砲術を学びました。銃器などを私費で揃えながら洋式砲術の研究を重ね天保5年(1834年)に高島流砲術を大成、自作の青銅製モルチール砲を作り上げました。
アヘン戦争で清が劣勢になると、秋帆は幕府に火砲の近代化の必要性を説く意見書を提出し天保12年5月9日(1841年6月27日)に武蔵国徳丸ヶ原(東京都板橋区高島平)で日本初の洋式砲術と洋式銃陣の演習を行いました。この平地が後に高島平と呼ばれるようになったのは高島秋帆が行った演習に由来しています。
この演習を見ていた幕府老中の阿部正弘は秋帆を「火技中興洋兵開祖」と褒め称え砲術専門家として徴用しました。秋帆は下曽根信敦や江川英龍(36代江川太郎左衛門)に高島流砲術を伝授しました。英龍と信敦は高島流砲術の普及に務めました。英龍は江戸に江川塾を開き、ここで佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨などが学びました。信敦は浦賀奉行与力見習いの香山栄左衛門と中島三郎助に高島流砲術を伝授しました。
しかしながら翌天保13年(1842年)、長崎奉行は長崎会所のずさんな運営の責任者として秋帆を逮捕しました。秋帆は有罪となり投獄され、高島家は断絶させられました。この逮捕の背景には幕府に重用され活躍する秋帆への妬みがあったとされています。これによって秋帆は武蔵国岡部藩で幽閉されましたが、秋帆に洋式兵学を教わりにやってた藩士は少なくありませんでした。
嘉永6年(1853年)、秋帆に転機が訪れました。浦賀沖にマシュー・ペリー提督が率いる艦隊が現れたのです。この黒船来航により混乱した幕府は洋式兵学の知識や技術が必要となり秋帆を赦免しました。秋帆はもともと幕府の鎖国・海防の政策を支持していましたが、幽閉中に西洋の列強に対して開国・交易の政策を採るべきと考えるようになり幕府に意見書を提出しています。当時は開国・交易より攘夷論が優勢だったため
富士見宝蔵番兼講武所支配および師範として砲術訓練の指導に尽力しました。
秋帆が亡くなったのは 慶応2年1月14日(1866年2月28日)です。この年には薩長連合、第二次長州征伐、徳川家茂死去、徳川慶喜が将軍就任、孝明天皇崩御など目まぐるしい政変があり、日本は混乱の時代に入っていくことになるのです。函館の五稜郭が完成したのもこの年のことです。
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