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2024年1月24日 (水)

田島勝太郎とは何者か|田島金太郎と田島圭蔵

ココログ「夜明け前」公式サイト

ジュール・ブリュネのスケッチのフランス語通詞

 慶応2年12月8日(1867年1月12日)、幕府が陸軍の近代化を図る目的で招いたフランス軍事顧問団が来日しました。この軍事顧問団のメンバーだったフランス陸軍将校ジュール・ブリュネ大尉は戊辰戦争ではフランス軍を辞して榎本武揚率いる旧幕府軍に加わり箱館戦争に参戦しました。ブリュネは絵を描くのが上手でたくさんのスケッチを残しています。そのスケッチの中に通称アラミスと呼ばれたフランス語通詞のジッタロウという日本人が描かれています。この日本人はどうも女性のようにも見えます。

ジッタロウ(アラミス)ジュール・ブリュネのスケッチ
ジッタロウ(アラミス)ジュール・ブリュネのスケッチ

田島勝太郎こと田島勝

 江戸下谷(東京都台東区)に飾り職人の田島平助なる人物がいました。平助は装飾品の取り引きをしているうちにオランダ語やフランス語に堪能となり幕府の通詞として採用され長崎へ赴任しました。平助には勝という娘がいました。勝は天保17年もしくは18年(1846年もしくは1847年)に下谷で生まれました。勝は生活の中でオランダ語やフランス語の会話ができるようになったそうです。元治元年(1864年)に平助が暗殺されたことで勝は江戸の下谷に戻り、生活を支えるため勝奴という源氏名で芸者をして働くよりになりました。この頃、長崎で知り合った下谷出身の榎本武揚と偶然再会しました。武揚は長崎海軍伝習所に在学していたときに平助と勝に出会っいたのです。武揚が長崎海軍伝習所に入ったのは安政3年(1856年)ですから、このとき武陽は21歳、勝はまだ10歳ぐらいだったということになります。

 武陽は勝がオランダ語やフランス語に精通していることを知ると芸者を辞めさせて幕府海軍の通詞として採用することにしました。しかし、当時は通詞は男性しかなれなかったため武揚は勝に勝太郎と名乗らせ男装させたのです。勝太郎はフランス軍事顧問団の通詞を務めましたが大政奉還で江戸が無血開城すると職を失いました。慶応4年8月19日(1867年)、武揚が開陽丸をはじめとする艦隊で品川を出港、勝太郎は陸路で仙台に向かい武揚と合流することになりました。ところが仙台で勝太郎は武揚と会うことができず箱館に向かうことになりました。勝太郎が箱館に到着したのは箱館戦争開戦後でした。箱館に到着した勝太郎は旧知のフランス宣教師メルメ・デ・カションのいる箱館元町の天主公教を訪れようとしましたが、このとき新政府軍に捕らえられてしまいました。勝太郎は黒田清隆に助けられましたが箱館病院で軟禁されました。

 清孝は勝が武揚と旧知であることから函館病院長高松凌雲の使者として抜擢しました。箱館戦争終戦間近に武陽に降伏を促す使者として勝は五稜郭に赴きましたが、武揚は勝を追い返しました。その後、旧幕府軍の戦況は悪化、武揚らは新政府軍に降伏します。武揚は拘束されて身柄を東京に送られましたが、勝は東京に戻らず箱館病院で看護師として働くことにしました。

 以上が田島勝に関する伝承で「新撰組始末記」の著者の子母澤寛氏が「ふところ手帖」で「才女伝」として小説化しています。

"ふところ手帖(子母澤寛)

 また宇江佐真理氏は冒頭のジュール・ブリュネのスケッチの人物を田島勝太郎として小説「アラミスと呼ばれた女」を書いています。

アラミスと呼ばれた女(宇江佐真理)

アラミスと呼ばれた女(宇江佐真理)

 しかし、田島勝もしくは田島勝太郎という人物が実在したのかどうかわかっていません。

フランス語通詞を務めた田島金太郎

 箱館戦争で旧幕府軍でフランス人との通詞を務めた田島応親(ただちか)という人物がいます。応親は嘉永4年(1851年)生まれで幼名は金太郎、文久3年(1863年)に講武所で砲術を学びました。慶応2年(1866年)には横浜仏語伝習所に入所し、その後は幕府伝習隊の砲兵隊に所属しました。この伝習隊こそフランス軍事顧問団の指導を受けた幕府の西洋式軍隊です。応親は戊辰戦争が勃発すると武陽とともに開陽丸で箱館に向かいました。このとき応親は若干17歳です。

田島金太郎(田島応親)
田島金太郎(田島応親)

 キンタロウとジッタロウはちょっと似ているように思います。またフランス人がアラミスと呼んだ理由はわかりませんが、このアラミスとはフランスの小説家アレクサンドル・デュマ・ペールの作品「三銃士」に登場するアラミスでしょう。アラミスは男装の麗人というイメージがあるかもしれませんが、これは1987年の日本のテレビアニメ「アニメ三銃士」の独自の設定ですから、勝太郎が女性だったこととは関係ないでしょう。

追跡―一枚の幕末写真 長編ノンフィクション

追跡―一枚の幕末写真 長編ノンフィクション

榎本武揚に降伏を求めた田島圭蔵

 箱館戦争終戦間近になると新政府軍は攻撃を弱めて終戦交渉を進めます。高松凌雲から武陽に宛てたの帰順を促す書状が届けられましたが、この使者の中に勝がいたかどうかわかりません。黒田清隆の命で弁天台場や五稜郭に降伏勧告を出したのは新政府軍の元薩摩藩の田島圭蔵(敬蔵)です。圭蔵が五稜郭に赴いたとき武陽は五稜郭から出て圭蔵と話し合いをしています。武陽は降伏勧告を拒否しましたが実際には降伏の準備を始めていました。

 田島圭蔵は秋田藩所有の新政府軍軍艦「高雄丸」の艦長でしたが明治元年(1868年)10月に箱館が旧幕府軍に占領されていることを知らずに寄港し旧幕府軍に拿捕されました。「高雄丸」は旧幕府軍に接収され「第二回天」と名付けられました。圭蔵は約1ヶ月半投獄されていましたがイギリス商人アレキサンダー・ポーターの働きかけで旧幕府軍に助命されました。

 箱館戦争が終結すると、旧幕府軍の兵士の遺体が町中に放置されたままになっていました。人道的に賊軍の遺体を回収し実行寺などに埋葬したのが箱館の侠客柳川熊吉です。このとき明治政府官吏だった圭蔵は熊吉を捕まえなければならない立場でした。しかし、熊吉は逮捕されることをおそれず粛々と遺体の収容を進めていました。旧幕府軍に拿捕され助命されたことのある圭蔵は熊吉の行動を咎めることはせず黙認したのです。

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