マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)
アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が率いる艦隊が日本に対する開国と貿易を求めて浦賀沖に現れたのは嘉永6年6月3日(1853年7月8日)です。艦隊は蒸気船フリゲートの旗艦「サスケハナ」と「ミシシッピ」、帆走スループの「サラトガ」と「プリマス」の4隻でそれぞれ大砲を備えていました。この黒船来航において幕府はペリーに対して第12代征夷大将軍徳川家慶(いえよし)が病気療養中で決断することができる状態にはないことを伝え回答に1年間の猶予を求めました。ペリーは食糧や他国との諸事情で時間的な制限もあったことから幕府の申し入れを聞き入れ1年後に再来日すると香港に向かいました。江戸を離れたのは同年6月12日(同年7月17日)です。将軍家慶は回復することはなく10日後の同年6月22日(同年7月27日)に死去しました。
ペリーは香港滞在中に将軍家慶の死を知り幕政が混乱する中で交渉を有利に進めようと考え、幕府と約束した1年の猶予を棚上げし嘉永7年1月(1854年2月)に再び来航しました。同年1月14日(同年2月11日)に帆船の輸送艦「サザンプトン」が現れ、同年1月16日(同年2月13日)に蒸気フリゲートの旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」、帆船スループの「マセドニアン」「ヴァンダリア」、帆船補給艦「レキシントン」が到着し合計7隻となりました。さらに遅れて帆船スループの「サラトガ」、帆走補給艦の「サプライ」が到着しました。合計9隻の艦隊は江戸湾に侵入し横浜沖に停泊しました。幕府との外交を有利に進めるために圧倒的な軍事力を見せつけ威嚇などを行う砲艦外交を行ったのです。
幕府はペリーに艦隊を浦賀沖に停泊するよう求めましたがペリーは拒否しました。江戸での回答を求めるペリーに対して幕府は交渉を重ね最終的に横浜村で会見することになりました。同年3月3日(同年3月31日)、日米和親条約が締結され下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、難破船の乗組員の救助と保護でした。このとき幕府は米国との通商条約の締結は回避しましたが、日米和親条約の締結により初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスが幕府に対して通商条約の締結を求めました。ハリスの求めに対して幕府は米国との通商条約を締結せざるを得ないと考えるようになりましたが攘夷を主張して反対する勢力も多く幕政は混乱していったのです。
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