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2023年12月27日 (水)

幸若舞「敦盛」の話と人間五十年の意味

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 戦国武将の織田信長が好んで演じたと伝えられる幸若舞「敦盛」。信長が演じたのは中段後半の次の一節です。

  人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

  一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

  これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

 「信長公記」には信長は桶狭間の戦いに出陣するときに「敦盛」を舞い湯漬を食したあと甲冑を着て出陣したと記されています。また本能寺の変での最期でも「敦盛」を舞う描写があります。おそらくこれは小説や映画やテレビドラマなどの創作ですが信長の生涯に通じるものがあります。

 さて実際の「敦盛」の元暦元年(1184年)の源平合戦の「一ノ谷の戦い」を元に作られた話です。源氏軍の攻撃から敗走する平家軍の中に平清盛の甥で平経盛の子の平敦盛がいました。敦盛は笛の名手でしたが敗走するときに愛用の笛を置き忘れたことに気が付き取りに戻りました。そのため平家軍が退却する船に乗り遅れてしまいました。馬に乗って船を追いかけ、船も気が付き岸に向かいましたが風向きが悪く敦盛を救出することができずにいました。そこに現れたのが源氏軍の熊谷直実です。直実は敦盛を見て名のある武将と考えて一騎打ちを申し入れます。一騎打ちを受けざるを得なくなった敦盛は直実と戦いますが百戦錬磨の直実に敵うわけもなくあっという間に捕らえられてしまいました。

波際を敗走する平敦盛と呼び止める熊谷直実(一の谷合戦図屏風)
波際を敗走する平敦盛と呼び止める熊谷直実(一の谷合戦図屏風)

 直実が敦盛の首を取ろうとしたとき、直実は相手が元服して間もない若者であることを知ります。名を聞きいて若干16歳の平敦盛であることを知ると、直実は「一ノ谷の戦い」で同じ16歳で討ち死にした嫡男の直家(※)を思い出し首を取ることをためらいます。しかし、源氏の武士達がためらう直実を怪しいと批判し始めたので直実はやむを得ず敦盛を討ち取りました。直実が怪しまれたのは父の直貞が平家の出だったからとも言われています。「一ノ谷の戦い」は源氏の勝利でしたが直実は敦盛を打ち取ってしまった事を後悔しました。直実は同じ思いを二度としたくないと考えその後の戦には参戦せず出家を決意します。

 (※)直家の討ち死には物語上の脚色で史実ではありません。

 信長が好んで舞った一節の「人間五十年」とは人の世における五十年を意味します。「下天」とは仏教の六道の天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界のうち、一番上部の天道の中の最下部の世界である四大王衆天のことです。この四大王衆天の1日は人間界の五十年年に相当します。ですから「人間五十年」は人間の寿命が五十年という意味ではなく人間界の五十年間という意味になります。「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」は一度生まれてきたものに滅びないものなどあるはずがないという意味です。「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」はこれを菩薩の種(悟りのきっかけ)にしなければ悔やまれることだという意味です。

 従って「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は天界の時の流れに比べて人間界の時の流れの儚さを述べたものです。「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」は人生の儚さを悟りへとつなげるためにどのように生きるべきかを説くたものです。信長はこのような人生観で生き抜き最期を迎えたのでしょう。現代でも人生を問うのに示唆に富む一節と言えるでしょう。

 

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