プレイステーションの日(1994年12月3日)
任天堂のファミコンやスーパーファミコンの時代は本格的な3Dゲームを楽しむことはできませんでした。3Dゲームするにはパソコンが必要だったのです。そのような中で1990年代半ばに次世代ゲーム機として登場したのがソニーのプレイステーションでした。
ソニーのプレイステーションの開発のきっかけは任天堂のスーパーファミコンにソニーのCD-ROMドライブを搭載するというソニーと任天堂の協業でした。スーパーファミコンに拡張するCD-ROMユニットは任天堂が販売し、CD-ROM一体型スーパーファミコンはソニーが販売するという約束で協業を進めることになりました。この協業を進めていたのが後にプレイステーションの産みの親と呼ばれるようになる久夛良木健(くたらぎけん)氏です。ソニーがゲーム事業に参入することに反対意見が多い中で当時の大賀典雄社長がゴーサインを出しました。
ところが任天堂が、ソニーがスーパーファミコンと互換性のあるCD-ROM一体型ゲーム機を発売するのは構わないが、任天堂のスーパーファミコン用CD-ROMアダプタはソニーとは別規格のものを採用すると言い出しました。これはソニーの互換機では任天堂が販売するゲーム用CD-ROMがそのまま動かないということです。
この背景には任天堂とソニーの競争がありました。当時のゲーム機はカセットが主流で任天堂はCD-ROMを重視しておらずスーパーファミコン用CD-ROMゲームのライセンスはソニーが持つことになっていました。ところが米国でCD-ROMが流行しはじめると任天堂は危機感を抱きソニーとの協業をやめてオランダのフィリップス社のCD-iを採用することにしたのです。またソニーもハードウェアのみを開発する約束でしたが、自前のソフトを使って試作品を実演していたことも任天堂の危機感を高めソニーへの信頼を低下させる結果となりました。
1992年、任天堂はスーパーファミコンCD-ROMアダプタを発売延期とし、ソニーはスーパーファミコンと互換性のあるCD-ROM一体型ゲーム機の開発を中止しました。同年にソニーの経営会議でゲーム事業への参入が議論となり、反対の声が多い中で久夛良木がこのまま引き下がってはソニーは笑いものになると改めて開発の必要性を力説しました。そして試作品がほとんど出来上がっていることを明かしました。大賀社長が久夛良木氏に「そんなに言うならやってみろ!」と啖呵を切り机を叩いて「「Do it!」と叫んだエピソードは有名です。やってみろと言った大賀社長もプレステーションの開発には深く関わっており、スーパーファミコンのものとは異なるスティック付きの新型コントローラの開発を指示しています。ゲーム事業への参入はソニー創業者の1人で同社の会長を務めていた盛田昭夫氏も面白いビジネスと認めています。ただし盛田会長はプレイステーションという名前は気に入らなかったようで変更するように指示しました。盛田会長は翌1993年にテニスをプレーしていたときに脳内出血で倒れて会長職を辞任、プレイステーションの名称は変更されなかったのです。ソニーはプレイステーションの開発を進め1994年11月に価格39,800円、発売日1994年12月3日と発表しました。
プレイステーションの成功を後押ししたのはナムコでした。ナムコはアーケードゲームでは成功を収めていましたが家庭用ゲーム市場では他社に遅れていました。ナムコは自社で開発したゲームを家庭用ゲーム市場に持ち込むためにゲーム機の開発に着手していましたが、1993年にソニーを訪問したときにプレステーションを見て自社によるゲーム機開発を中止し、ソニーのプレイステーションに全面的に協力することを決めたのです。
【関連記事】プレイステーションの日(1994年12月3日)
・任天堂「ファミリーコンピュータ」を発売(1983年7月15日)
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