黒船来航から箱館戦争まで関わった中島三郎助
大政奉還と明治維新のきっかけとなった嘉永6年6月3日の浦賀沖の黒船来航。黒船艦隊は第13代大統領ミラード・フィルモアが日本に開港を求めるために派遣したマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ合衆国海軍の東インド艦隊です。このときペリーが乗船していた旗艦は蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」でした。このとき浦賀奉行が使者として送ったのが奉行所与力の中島三郎助でした。三郎助は通訳の堀達之助を連れて自らを副奉行と詐称し乗船しその後の応待で重要な役割を果たしました。この頃、榎本武揚こと釜次郎は昌平坂学問所修了、翌年箱館奉行堀利煕の従者として武田斐三郎らと箱館に赴いています。土方歳三は日野の佐藤彦五郎の道場で近藤勇と出会った頃です。
三郎助はペリー艦隊の記録にまるでスパイのようだと記されたほど黒船を詳細に調査しました。ペリーが離日すると軍艦の建造と蒸気船の艦隊の設置を進言する幕府老中阿部正弘宛の意見書を提出しました。幕府は浦賀奉行に西洋式の大型帆船の建造を命じ、中島らが中心となって嘉永7年(1854年)日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を完成させました。
安政2年(1855年)、三郎助は幕府の長崎海軍伝習所に第一期生として入所し特に洋式船に関する専門知識を学びました。この年に聴講生として釜次郎が訪れています(2年後に第二期生として入所)。また同年に造船学を学ぶため長州藩士の桂小五郎が訪れています。三郎助は小五郎を家族ぐるみで厚遇し自宅に1ヶ月半も宿泊させ造船学を学ばせました。小五郎は大政奉還後に明治府軍の重要人物となり木戸孝允と名乗るようになりますが、三郎助の恩義を一生忘れることはありませんでした。
時は流れて慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると三郎助は海軍副総裁となっていた榎本武揚とともに「開陽丸」で江戸を脱出、東北を経て箱館に向かいました。武揚らは箱館五稜郭を占拠し箱館政権を樹立、三郎助は箱館奉行並と砲兵頭並となりました。箱館戦争が始まると三郎助は五稜郭の前衛の千代ヶ岱陣屋の隊長となりここを終戦まで守備しました。
箱館が新政府軍に占領されると三郎助は軍議では降伏を主張しましが本人は陣屋で討死を覚悟。榎本武揚からの五稜郭撤退命令を拒否し、新政府軍の降伏勧告にも従いませんで。そして箱館戦争終結する2日前の明治2年5月16日午前3時頃、新政府軍は徹底抗戦している千代ヶ岡陣屋を夜襲しました。三郎助は大砲を指揮していましたが大砲が不発となったため台場の胸壁に登って戦いましたがそこで狙撃されました。恒太郎と英次郎は土塁の外に出て戦死。浦賀奉行時代からの部下達も最後まで降伏せず戦死しました。
箱館戦争で戦死というと土方歳三が有名ですが、中島三郎助は戊辰戦争のきっかけとなった黒船来航から戊辰戦争最後の箱館戦争まで関わりました。黒船来航時に三郎助の通訳を務めた堀は幕末は箱館奉行通詞、明治維新後は箱館裁判所参事席となりました。
千代ヶ岡陣屋跡は函館市千代台公園陸上競技場の教育大通りに面した歩道です。最後之地は箱館税務署前のグリーンベルト内に記念碑があります。このあたりは現在は三郎助に因んで中島町と名付けれてています。
木戸孝允は箱館戦争で三郎助が戦死したこと酒席で知りました。酒を飲めるような状況ではなくなり酒を下げさせ三郎助の死を嘆き悲しみました。孝允は江戸で剣術を学んだ師から「剣」でなく「心」で話し合いで勝つよう教えらたといいます。黒船を見て武力では敵わないことを確信し尊皇攘夷論で新政府づくり貢献することになり三郎助と袂を分かちました。後年に明治天皇の東北巡幸で箱館を訪れたとき千代ヶ岡陣屋付近を通りがかったときに感極まって号泣したそうです。 一方、榎本武揚については厳罰に処すよう主張しました。
中島三郎助は長男と次男とともに戦死しましたが慶弔4年(1866年)に生まれた三男の與曽八がいました。與曽八は三郎助の同僚によって2歳で静岡藩三等勤番士に取り立てられました。しかし一家の生活は苦しかったようです。木戸孝允は明治8年(1875年)に三郎助の妻と再開します。そして三郎助の遺族を支援し、榎本武揚に三郎助の遺族の面倒をみるよう頼みました。榎本は三男の與曽八を養育しました。こうして成長した與曽八は父と同様に船舶ついて学び、とりわけ機関の専門家となり海軍で蒸気タービンの国産化に尽力し海軍機関中将となりました。
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