長嶋茂雄引退「わが巨人軍は永久に不滅です」(1974年10月14日)
読売ジャイアンツで活躍した長嶋茂雄さんが同球団から新人選手としてデビューしたのは昭和33年(1958年)です。大学時代から注目されrていた持ち前の能力を発揮し同年8月にはジャイアンツの4番打者となりました。長嶋選手は同時代に活躍した王貞治選手と並んで読売ジャイアンツのスター選手となり川上哲治監督時代のV9に貢献しました。
1971年に通算2000本安打、1972年に400本塁打を達成するなど日本プロ野球界において数々の輝かしい成績を収めた長嶋選手も1973年には打率.269、20本塁打、76打点と成績が下降しました。敵チームのバッテリーも王選手を敬遠し、長嶋選手と勝負する試合が散見されるようになりました。同年9月のヤクルト線では4番の王選手が5打席連続で敬遠され、5番の長嶋選手と全打席勝負。長嶋選手は1安打に抑えられてしまいます。翌月10月の阪神戦で守備で右手薬指を骨折し残り試合はすべて欠場となりました。この数日前、川上監督は長嶋選手に現役引退し監督に就任するよう伝えていました。しかし、長嶋選手は現役続行を望み1974年も現役として活躍することになりました。
1974年のシーズンが始まると成績が振るわない長嶋選手はオールスター戦後に川上監督と球団に引退の意向を伝えました。球団はシーズン終了後の11月のファン感謝デーで引退を発表する予定でしたが、長嶋選手はファンに直接感謝の言葉を捧げたいという意向からジャイアンツの優勝が決定する試合もしくは最終戦終了後に引退式を行うことになりました。10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり、ジャイアンツはV10を果たせなくなりました。この日、長嶋選手と川上監督が記者会見し、翌日13日の最終戦で引退することを表明しました。13日は後楽園球場で中日とのダブルヘッダーが予定されていましたが雨のため14日に順延となりました。
14日の第1試合、長嶋選手は3番サードで出場しました。この試合で現役最後の本塁打となる15号を放ちました。4番の王選手も49号を放ち、これが最後の通算106回目のON砲となりました。試合終了後、長嶋選手は一塁ベンチを出て手を振りながらライト側から場内を一周し外野席のファンに挨拶をしました。この長嶋選手の場内一周は引退セレモニーとして予定されていたものではありませんでした。
第2試合は4番サードで出場しました。「4番サード長嶋」のアナウンスに観客が大歓声を送りました。5回裏に現役最後の安打を打ちました。8回裏の現役最後の打席は併殺打となりましたが、最終戦は10対0でジャイアンツが勝利しました。
10月14日の全試合終了後、長嶋茂雄選手の現役引退セレモニーが執り行われました。長嶋選手は挨拶の最後に「我が巨人軍は永久に不滅です」と球場のファンとテレビの前のファンに告げ現役17年間に終止符を打ちました。長嶋選手の現役成績は2186試合、9201打席、8094安打、本塁打444本、打率.305、出塁率 .379 で輝かしい成績を残しました。
【関連記事】長嶋茂雄引退「わが巨人軍は永久に不滅です」(1974年10月14日)
・ジャイアンツの日(1934年12月26日)
・日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーラン(1936年9月25日)
・ルーキーの長嶋茂雄選手が30本塁打を逃した幻の一発(1958年9月19日)
・王選手756号記念レコード 小学館「小学三年生」正月号ふろく ソノシート
・長嶋茂雄さん&松井秀喜さん 国民栄誉賞をダブル受賞(2013年5月5日)
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
| 固定リンク | 0
「スポーツ」カテゴリの記事
- ペルチェ冷却機能つきネッククーラー(2024.09.04)
- 金銀の日|1928年アムステルダムオリンピック(1928年8月2日)(2024.08.02)
- スケートの日(1861年12月25日)(2023.12.25)
- 東京競馬場が開場(1933年11月8日)(2023.11.08)
- 冒険オートバイ・チャンレンジマシーン(2023.11.06)
「今日は何の日」カテゴリの記事
- 幕末の混乱期に大地震|安政江戸地震(1855年10月2日)(2024.10.02)
- 昭和天皇とマッカーサ元帥の第1回会見(1945年9月27日)(2024.09.27)
- 西郷隆盛死す|西南戦争が終結(1877年9月24日)(2024.09.24)
- 村橋久成と中川清兵衛|開拓使麦酒醸造所が開業(1876年9月23日)(2024.09.23)
- 中秋の名月(2024年9月17日)(2024.09.17)
コメント