函館港と母船式北洋漁業
北洋漁業の歴史は江戸幕府が函館奉行所を置き北海道や千島列島での漁業や交易を始めたことに遡ります。安政元年に日露和親条約が締結されると北方での漁業の広域化が進み、明治時代に北海道開拓が進むと大型で近代的な漁船が導入されるようになりました。北洋で漁業を行う他国漁船はほとんどなく日本が独占状態でした。
明治38年(1905年)に日露戦争の終結すると、日本はポーツマス条約でロシア領沿岸での漁業権を得ます。明治40年(1907年)に日露漁業協約が締結されると北洋漁業がさらに広域化しました。日本の漁獲高は増加し北洋漁業の母港のひとつだった函館港も賑わいました。
大正6年(1917年)のロシア革命後も日本漁船の操業は続きましたが、大正11年(1922年)にソ連が成立するとソ連政府は日本に許可する漁業海域を狭めていきました。ソ連沿岸での操業ができなくなり、ソ連領内の加工工場も閉鎖せざるを得なくなりました。そのため漁船団が海域で漁業をしながら加工が可能な母船式漁業が行われるようになりました。第二次世界大戦後、日本の遠洋漁業は禁止となりましたが、昭和27年(1952年)に日本が主権を回復すると再開されました。
母船式漁業の漁期は5月~8月までで5月初めに漁船団は函館港に集結し、関係者や家族の万歳で賑やかに見送られるなか出向していきました。その様子は北海道の春の風物となり毎年ニュースで取り上げれました。次の写真は昭和37年5月に函館山ロープウェイから函館港に集結する北洋船団を撮影したものです。函館山麓から対面の上磯まで広がる函館湾にはたくさんの船を集結させることができました。
多くの漁獲物をもたらした北洋漁業でしたが200海里水域制限(排他的経済水域)など国際ルールの変化で北洋漁業を取り巻く状況は厳しくなり、昭和63年(1988年)に函館港は母船式北洋漁業の基地として役割を終えました。
【関連記事】函館港と母船式北洋漁業
・榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)
・天使の聖母トラピスチヌ修道院が設立(1898年4月30日)
・青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日
・函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)
| 固定リンク | 0
「函館の話」カテゴリの記事
- 箱館新選組の屯所の跡地(2024.09.06)
- 異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地(2024.08.22)
- 箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」(2024.08.19)
- 五稜郭の一本松の土饅頭(2024.08.16)
- 五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編(2024.07.28)
「船舶」カテゴリの記事
- オスマン帝国のエルトゥールル号遭難事件(1890年9月16日)(2024.09.16)
- 箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」(2024.08.19)
- フェートン号事件(1808年8月15日)(2024.08.15)
- 戦艦「武蔵」が竣工(1942年8月5日)(2024.08.05)
- 五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編(2024.07.28)
コメント