日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)
「橘花」は大日本帝国海軍が開発した国産初の双発ジェット戦闘攻撃機[です。
太平洋戦争の終戦一年前の昭和19年(1944年)8月、日本は戦況の悪化から燃料の入手が困難になり、高高度を高性能で飛行できるレシプロエンジンを搭載した戦闘機の開発に行き詰まりました。そこで低質の燃料や潤滑油で稼働し部品点数の少ない高性能なジェットエンジンを搭載した攻撃機「皇国二号兵器」の開発を決定しました。エンジンの開発は海軍航空技術廠が担当し、機体の開発は中島飛行機が担当しました。
当時の日本は諸外国に比べてジェットエンジンの開発に遅れを取っており、エンジンの取り付けを翼下懸架型としたジェット戦闘機を開発することにしました。同盟国のドイツが先行して開発していたジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262がを翼下懸架型であったことから、「橘花」の開発にあたってはMe 262を参考にすることにしました。そのため日本はドイツが必要としていた哨戒艇用ディーゼルエンジンの技術資料を提供するかわりにとドイツからメッサーシュミット Me 262 の技術資料を提供してもらう密約を結びました。日本とドイツはそれぞれ潜水艦で資料を日本占領下のインドネシアまで運び交換することにしました。情報交換は1944年末に行われましたが日本の潜水艦が米国潜水艦の攻撃を受けて沈没したため、ドイツから提供されたMe 262 機体やエンジンの詳細な設計図がほとんどが失われてしまいました。そのため日本はジェット戦闘機を独自に開発しなければなりませんでした。
「橘花」はMe 262に似ていますがほとんど独自の設計となりました。エンジンの推力が小さいため小型の機体となり、翼もMe 262とは異なる形状となりました。物資の不足により前輪は爆撃機「銀河」の尾輪、主輪は零戦のものが流用されました。また主エンジンのみでは離陸ができないため離陸用補助エンジンが搭載されまきた。機体はジュラルミン不足のため、ブリキやマンガン鋼が使われました。物資の不足から簡素化が図られ、生産工数も短縮され、零戦の半分の2工数で製造できるように設計されました。
完成した試作機「橘花」の試験飛行は広島原爆投下の翌日である昭和19年(1944年)8月7日に千葉県の木更津基地で行われました。燃料不足から航空機燃料の代替品として使われていた松根テレビン油を含む低質な燃料が使われましたが、12分間の飛行に成功し、これが国産ジェット機の初飛行となりました。8月12日に陸海軍幹部視察の飛行が行われましたが、離陸時にオーバーランして飛行することはできませんでした。原因はパイロットの判断ミスによる離陸中止でした。この事故で「橘花」の脚が壊れ再飛行は不可能となり、3日後に終戦を迎えました。
ファインモールド 1/48 日本陸海軍航空機シリーズ 帝国海軍 特殊攻撃機 試製橘花 プラモデル FC01
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