青函連絡船が運航終了(1988年3月13日)
昭和の時代、北海道から本州に行こうとすると飛行機を利用するか、フェリーを利用するか、青函連絡船を含む鉄道を利用するしかありませんでした。鉄道を利用すると言っても東北新幹線は存在していませんでしたから青森駅から上野駅までは寝台列車や特急や急行を利用したものです。
東北新幹線が盛岡まで開通したのは昭和57年(1982年)6月23日です。東北新幹線の開通によって青森駅と大宮駅の所要時間が大幅に短縮され便利になりました。しかし、盛岡から青森までは特急「はつかり」に乗り継ぐ必要があり、函館には青函連絡船を利用するしかありませんでした。
青森と函館を鉄道で結ぶ青函トンネルが完成したのは昭和62年(1987年)です。青函トンネルの開通により青函連絡船は役割を終了することになりました。昭和63年(1988年)3月1日に禁止されていた1964年の乗客転落事故以来禁止されていた「別れのテープ」が復活し、別れを惜しむ人々が桟橋を訪れるようになりました。
そして同年年3月13日、青函トンネルを含む海峡線(津軽海峡線)の開業に伴い青函連絡船は運航を終了しました。この日は青函トンネルと青函連絡船の両方が営業を行いました。青函連絡船の最終便は函館発の「羊蹄丸」、青森発の「八甲田丸」となり、1908年に始まった青函連絡船営業80年の歴史が幕を閉じました。
なお同年6月3日から9月18日まで青函博覧会と世界食の祭典の協賛で青函連絡船の1日2往復の暫定復活運航が行われました。9月19日 暫定運航を終えた十和田丸が函館に戻り、これをもって青函連絡船は津軽海峡から姿を消しました。
自分は現在はすっかり飛行機での移動ですが、当時は好んで鉄道と青函連絡船を利用していました。上野発の夜行列車「八甲田」で青森駅まで8時間以上かけて行き連絡線に乗り継いで約4時間の旅でした。天気の良い日は青函連絡船は客室には入らず甲板で寝転んで過ごしました。
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