ハワイ王国が終焉(1893年1月22日)
ハワイ王国は1795年から1893年にかけてハワイ諸島に存在していた王国です。
かつてハワイ諸島には太平洋を渡ってやってきたポリネシアの人々が住んでいました。島々を統一するような王国はなく複数の大族長が各島を統治していました。しかし、1778年に大英帝国海軍のジェームス・クックが第3回航海でハワイ諸島を訪れてから近代化が進み、やがて各族長の間で争いが起きるようになりました。
1794年、ハワイ島のカメハメハ1世(在位:1795年 - 1819年)がイギリスから武器を仕入れて銃火器の使用法を学びニイハウ島とカウアイ島を除く島々を平定、1795年にハワイ王国の建国を宣言しました。1810年には米国人の協力を得てハワイ諸島の全島を支配下に収めハワイ諸島を統一しました。
1819年にカメハメハ1世が亡くなると長男のカメハメハ2世(在位:1819年 - 1824年)が国王となりましたが、王国の政治は義母で摂政のカアフマヌと首相が行いました。カアフマヌは絶大な権力を有した神官たちの権威を失墜させ王政を維持しようと様々な伝統を打ち壊しました。また米国からキリスト教宣教師が訪れるようになり、布教の目的から英語による文字教育が行われるようになりました。これによって王国の教育水準は向上しましたがハワイ語は使われなくなり消滅危機言語となりました。
1823年11月、カメハメハ2世は王妃とともにイギリスを訪問しましたが、このとき免疫を持っていなかった麻疹に羅漢しました。闘病の末、1824年7月にイギリスで亡くなりました。国王は弟のカメハメハ3世(在位:1825年 - 1854年)が引き継ぎました。
当時のハワイは重要な捕鯨地域であり砂糖の産地としても重要視されていました。カメハメハ3世は王国の改革を進め1840年にハワイ語の憲法を制定しました。ハワイ王国はイギリス、フランス、アメリカに独立国として承認されました。しかし、カメハメハ3世によるハワイ王国の改革は白人の手によるところが多く、政府の要職の多くを白人が務めました。ハワイの人々が政治に主体的に参加することもなく、ハワイ王国の実権は白人が握るようになりました。
1855年にカメハメハ3世が亡くなるとカメハメハ1世の孫で弱冠二十歳のカメハメハ4世(在位:1854年 - 1863年)が即位しました。ハワイ王国の実権はますます白人が中心となり、アメリカによるハワイ王国の征服を恐れたカメハメハ4世はアメリカへの依存度を下げイギリスとの外交を深めようとしましたが十分な成果を得ることができずに1863年に29歳の若さで亡くなりました。
1863年、カメハメハ4世の兄のカメハメハ5世(在位:1863年 - 1872年)が即位しました。カメハメハ5世は王権の回復を目指し1864年に新憲法を制定しましたが、ハワイ王国がイギリスに近づくことを危惧したアメリカは秘密裏にハワイ王国の合併の計画を進めました。
1872年、カメハメハ5世が急逝すると事態は大きく変わりました。カメハメハ5世は独身で世継ぎがいなかったため、生前にカメハメハ大王の曾孫で直系最後の王女パウアヒに王位を譲ろうとしました。しかし家庭を築いていたバウアヒは即位を辞退しました。世継ぎが決まっていない中でカメハメハ5世の突然の死によりカメハメハ王朝は断然したのです。
その後、ハワイ王国の王権の後継者は議会によって決められることになり、1873年にルナリロ(在位:1873年 - 1874年)が即位しました。親米派のルナリロは閣僚にアメリカ人を選び、政治的・経済的にアメリカとの関係を深める政策を進めましたが、結核にかかり在位わずか1年で亡くなりました。王位は再び議会によって選ばれることになりカラカウア(在位:1874年 - 1891年)が即位しました。
カラカウアはアメリカとの外交を積極的に行う経済政策を進め、アメリカに砂糖や米の輸入自由化を認めさせています。またカラカウアは1881年に日本を訪問し明治天皇と会見し、日本とハワイの連邦化、日本主導のアジア共同体創設、カイウラニ王女と山階宮定麿王の結婚、日本人のハワイへの移民などを提案しています。このとき日本政府はアメリカと対立することを避けるため移民以外の提案は断りました。これをきっかけに日本から多くの人々がハワイに移民しました。
1887年、カラカウアはイギリス女王ヴィクトリアの在位50周年祝典へ出席しましたが、この間に共和制派の白人たちがクーデターを起こし国王の権限を大幅に制限した新憲法を成立させました。
1890年にカラカウア王は体調を崩し治療のためサンフランシスコに移りましたが1891年に逝去しました。カラカウアは議会による王位継承を避けるために弟を跡継ぎに指名していました。しかし、弟が亡くなったため後継者がいない状態となりました。同年、摂政としてハワイ王国の統治を務めた妹のリリウオカラニ(在位:1891年 - 1893年)が即位しました。
ハワイ王国最後の女王となったリリウオカラニは王政派とともに王権復活をめざして共和制派と対立するようになりました。1893年には国王の権限を強化する新憲法案を閣議に提出しましたが否決さました。同年1月16日に王政派と共和制派が対立する中で、共和制派はアメリカに軍隊の派遣を要請しました。すぐにアメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を取り囲みました。この結果、ハワイ革命が起こり、1893年1月17日に共和制派が王政廃止と臨時政府樹立を宣言しました。
多くの国が新政府を認めましたが王国の独立を支持していた日本政府は移民を保護するという理由でハワイに軍艦を派遣しました。日本政府はアメリカによるハワイ革命のクーデターに対し反対の意を表明しました。アメリカ政府はこのクーデターが不法であったと認めましたが、ハワイで樹立した臨時政府はこれを内政干渉として無視しました。
1894年、臨時政府はアメリカ独立記念日と同日の7月4日にサンフォード・ドール大統領のもとハワイ共和国の独立宣言を行いました。これに対して王政派が反乱を起こしましたが銃撃戦の末に鎮圧されました。リリウオカラニは反乱を首謀した容疑で逮捕されイオラニ宮殿に幽閉されたました。
1894年1月22日、リリウオカラニは捕らえられた王権派の約200人の命と引き換えに女王廃位の署名しハワイ王国は滅亡したのです。このときハワイ共和国リリウオカラニは2月27日に有罪の判決を受けていますが9月6日に釈放されました。ハワイ共和国は1898年に米国に併合されハワイ準州となり米国領化していきました。
ハワイの歌として親しまれている「アロハ・オエ」「女王の祈り」はリリウオカラニが作詞・作曲したものです。ハワイはリリウオカラニの死から42年後の1959年8月21日にアメリカ合衆国の50番目の州となり米国領となりました。
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