第1回中山グランプリ(有馬記念)が開催(1956年12月23日)
日本の中央競馬の総決算と呼ばれ毎年末に行われる有馬記念。有馬記念の第1回は中山グランプリという名称で1956年12月23日に中山競馬場で行われました。
日本中央競馬会の前進は昭和11年(1936年)に全国11の競馬倶楽部を統合して設立された日本競馬会という団体です。日本競馬会は第二次世界後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって独占禁止法に抵触する団体とされました。これによって日本競馬会は昭和23年(1948年)に解散しましたが、サンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復すると昭和29年(1954年)に日本中央競馬会が発足されました。
日本中央競馬会の初代理事長には戦前から競馬の発展に取り組み競馬翁とも呼ばれた安田伊左衛門が就任しました。日本中央競馬会が開催する競馬は国家財政への貢献を求められたことにより地方競馬などの公営競技よりも控除率が高く設定されたため売上目標を達成することができませんでした。安田伊左衛門は理事長を退くことになり、昭和30年(1955年)に第2代理事長に就任したのが元農林水産大臣の有馬頼寧です。
当時の日本中央競馬会の施設は老朽化しており特に中山競馬場の正面スタンドは危険な状態にありました。財政難だった日本中央競馬会は自ら改修費を捻出することができませんでした。そこで有馬頼寧は政府に働きかけ指定競走の収益を国庫に納付することを免除する法律を成立させました。「有馬特例法」とも呼ばれたこの法律の制定によって、中山競馬場は昭和31年(1956年)10月に改修されました。
当時、中山競馬場では年末に開催される中山大障害が名物競争でしたが東京優駿(日本ダービー)や天皇賞などに比べて見劣りしていました。そこで有馬頼寧は中山競馬場の改修をきっかけに東京優駿に匹敵するファンが出走馬を決める大レースの創設を考えました。有馬頼寧がこのレースを提案したのは中山競馬場の改修の前年の昭和30年(1955年)の年末に開催された競馬会の懇親会でした。
有馬頼寧は戦前にプロ野球の東京セネタース(翼軍)のオーナーをしていました。プロ野球のオールスターゲームにヒントを得てファンによる人気投票で出走馬を決めるレースを思い付いたのです。「中山グランプリ」と仮称されたこのレースは4歳クラッシック競争を勝利した4歳馬たちと天皇賞などを勝利した古馬たち、1年間のレースを見てきたファンが選んだ馬たちが年末に競争する日本一決定戦となったのです。
「中山グランプリ」が仮称とされた理由は当時日本で「グランプリ」という言葉が競馬のレース名にそぐわないと考えられていたからです。第1中山グランプリのファン投票では出走馬の他にレース名も募集されました。中山大賞典、中山王冠などいろいろなレース名が応募されましたが「中山グランプリ」のままで開催されることなりました。
第1回中山グランプリは昭和31年(1956年)12月23日に開催されました。蛯名武五郎騎手騎乗のメイヂヒカリが優勝を飾りました。2着はファン投票1位の勝尾竹男騎手騎乗のキタノオーでした。
中山グランプリを終えて年が明けた昭和32年(1957円)1月9日、有馬頼寧が急逝しました。cの在任期間はわずかでしたが中央競馬への多大なる貢献を讃え「中山グランプリ」は「有馬記念」と改称されることになったのです。
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