白虎士中二番隊の最期(1868年8月23日)
白虎隊は幕末の戊辰戦争において会津藩が組織した部隊です。未成年の武家男子からなる予備兵力の部隊で兵員数は士中隊、寄合隊、足軽隊を合わせて約340名でした。
会津戦争において会津藩は会津若松城(鶴ヶ城)を死守することが要でした。会津若松への街道に主力部隊を配置しましたが、新政府軍に対しては多勢に無勢となりました。そこで会津藩は城下町の防衛を担っていた白虎隊を前線へと送りました。白虎隊には旧式銃しか配備されておらず、兵員も若年だったため前線での活躍は期待されていませんでした。会津藩は新政府軍に対して玉砕覚悟で闘いを臨んだのです。
当然の結果として白虎隊は各所で苦戦し撤退を余儀なくされました。戸ノ口原の戦いに破れた士中隊の二番隊は42名の隊士の多くを失い、慶応4年(1868年)8月23日に負傷者を含む7名(20名説もある)が飯盛山へ落ち延びました。このとき会津若松城周辺から立ちのぼる煙を見て本拠地が落城したと誤認して自決しました。6名(19名説もある)が死亡、隊士の飯沼貞吉は自決したものの生き残りました。
さて白虎隊が会津若松城の落城を誤認したという話は昭和3年(1928年)の平石弁蔵著「会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘」に記載された伝承によるものです。ところがこの伝承は2010年頃に発見された飯沼貞吉が残した手記「白虎隊顛末略記」とは食い違っていました。手記には「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」と記されており、残された隊士の間で会津若松城に入城するか敵軍に攻撃を仕掛けるかで意見が割れて対立があったようです。しかしながら、負傷していることからこれ以上戦うことはできず、敵に捕まるより武士の本分を明らかにした方が良いと悟って自決したというのが史実だったようです。現在、飯盛山の現場には白虎隊の会によって落城誤認は誤りだったという説明が付け加えられています。
飯沼貞吉は新政府軍に捉えられましたが能力が認められ長州藩士に庇護されました。維新後には名前を貞雄と改め逓信省通信技師となりました。明治27年(1894年)から始まった日清戦争では陸軍歩兵大尉として出征しています。拳銃を所持するように命令されたときに「自分は白虎隊として死んだ身である」と拒んだそうです。飯沼貞吉の遺骨の一部は他の隊士とともに飯盛山に埋葬されています。
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