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2022年6月 2日 (木)

是非に及ばす(1582年6月2日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

 「是非に及ばす」。天正10年(1582年)6月2日(1582年6月21日)の未明、織田信長が京都本能寺で明智光秀の軍勢に襲われたときの言葉である。

 備中(現:岡山県)高松城の毛利軍を攻めにあたっている羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)から出陣の要請を受けた信長は、その先鋒として光秀に出陣するよう命じた。信長に対して憤りを感じていた光秀は謀反を決意しその矛先を毛利軍ではなく上洛していた信長に向けた。

 信長が本能寺に入ったのは5月30日、このとき信長はわずか二、三十騎あまりの供の者しか引き連れていなかった。天下布武を目前にした信長の余裕を見せた上洛であった。嫡男の織田信忠は信長の上洛に先立って京都入りしていた。信忠はおよそ2千の手兵を引き連れて本能寺からおよそ700メートル離れたところにある妙覚寺にいた。備中の戦の状況次第で父子ともども前線に向かう予定であった。

 6月1日、信長は本能寺で大掛かりな茶会を催した。京都の公家や町の中心的人物たちを集めての盛大な茶会だった。この茶会では信長所有のたくさんの名物茶器が披露された。茶会が終わったのが午前0時、名物茶器を堪能した参列者はそれぞれの寄宿舎に帰っていった。この中には信忠も含まれていた。

 6月2日未明、本能寺の周りがにわかにざわつき始めた。最初、信長は酒に酔いしれた者が喧嘩でもしているのだろうと思った。まもなく、ときの声があがりただ事ではない雰囲気が伝わってきた。

 信長は小姓(森蘭丸と言われている)をよぶと、「これは誰の手のものによるものか」とたずねた。小姓が明智光秀の名前を告げると、信長はただ一言「是非に及ばず」と言った。信長49才の初夏、桶狭間の戦いの前に「敦盛 」を舞った信長は下天の1日を生き抜く目前で生涯を閉じたのである。

錦絵 本能寺焼討之図(明治29年作・名古屋市所蔵)
錦絵 本能寺焼討之図(明治29年作・名古屋市所蔵)

 さて、明智光秀が織田信長を裏切った理由には諸説ありますが、もうひとつの謎は「是非に及ばす」の意味である。「是非に及ばず」とは「当否や善悪を論じるまでもなくそうするしかない。どうしようもない。しかたがない。やむを得ない。」とう意味である。

 信長はなぜ開口一番「是非に及ばず」と言ったのだろうか。光秀の手兵はおよそ1万3千にもなったが「是非に及ばず」という言葉が出たのは単に軍勢の差だけはないであろう。

 信長は桶狭間の合戦や浅井長政の裏切りなど何度も窮地に立ち、それを乗り越えてきた人間である。しかし、本能寺での裏切りが光秀の仕業であることを聞いて、信長は今回の窮地は逃れられないと思ったのであろう。これまで周到に何事も乗り越えてきた。やっと天下布武が目前になったところで隙が出た。これですべてが終わる。「是非に及ばず」とは、つまりこういう事態もやむを得ない、こんなこともあるだろうという信長の一瞬の覚悟を如実にあらわした言葉だったのだろうか。スペインの貿易商アビラ・ヒロンの「日本王国記」には信長は明智に包囲されていることを知ると「余は余自ら死を招いたな」と言ったとも書き記されている。

 しかし、信長は本能寺で最期まで戦っている。最初は弓で応戦していたがすべての弓の弦が切れてしまった後も諦めずに槍を持って応戦したという。しかし、肘に槍傷を受けて内に退き付き従った女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と指示して脱出させている。そして自らは日がかけられた御殿の殿中の奥深くに篭り内側から納戸を締めて切腹している。

 この一部始終を記録しているのが太田牛一の「信長公記」である。太田牛一は本能寺の信長の最期の様子を女房衆の女性から聞き取ったものであると書き記しておりこの記述の信憑性は高いと考えられる。

 「既に、信長公御座所、本能寺取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候とおぼしめされ候のところ、一向さはなくときの声を上げ御殿へ鉄砲を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに森乱申す様に明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと上意候。透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。」

 一般に「是非に及ばす」という言葉だけから信長がやむを得ないと考えたという解釈がある。ところが「信長公記」の記述は「是非に及ばずと上意候」で上意候とあるからこれは命令である。何を命令したかというと次の行動「透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」から戦うことを命令した考えることができる。そして直ちに御殿に入り戦闘態勢を取り信長自らも弓と槍で戦ったのである。もし、信長がこのときやむを得ない、諦めたと判断したのであれば御殿に入り自刃するはずで戦うわけがありません。

 そこでこの「是非に及ばずと上意候・・・」は敵が攻めてきたことに対して、これが光秀の謀反なのかどうか是非を問いている場合ではない直ちに戦闘態勢を取るという上意だったと解釈できます。

 さて、京都に本能寺の変の歴史を求めて旅をするときには、京都市役所近くの本能寺までまず行きましょう。ここには、信長の墓があり、資料館もあります。しかし、ここは本能寺の変が起こった場所ではありません。実は本能寺は5回も移転しています。本能寺の変があったのは、本能小学校があったところです。本能小学校には本能寺跡の碑がひっそりと立っています。現在の本能寺から約1 kmで歩いていける距離です。

 時間があれば信忠がいた妙覚寺にも行ってみましょう。このあたりを歩くときには方位磁石を持っていくことをおすすめします。光秀の軍勢がどちらの方角から来たのか、妙覚寺はどの方向にあったのかなどを考えながら歩くと面白いです。その後は、二条城などに行ってみるのも良いでしょう。

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