広南従四位白象のお話し|象の日(旧暦1729年4月28日)
ゾウの生息地と言えばアフリカかアジアですが古代の日本はユーラシア大陸と陸続きだったこともありナウマンゾウが生息していました。旧石器時代の人たちはナウマンゾウを狩猟していました。ナウマンゾウはおよそ2万年前に絶滅し、これによって日本列島からゾウは消えました。
日本人がゾウのことを知るのは中国との交流が始まり仏教が広まってからです。平安時代の今昔物語にはゾウに乗った普賢菩薩に化けたイノシシの話が記載されています。平安時代末期から鎌倉時代初期にまとめられたと考えられている鳥獣人物戯画には長い鼻に牙などが特徴的なゾウの絵が記載されています。このようにゾウの存在は古くから知られていましたが当時の日本にはゾウはいませんでした。
記録として残っているゾウが日本に初めてやってきた日は応永15年6月22日(1408年7月15日)です。華僑の頭目が派遣した南蛮船でゾウを運び足利義持への献上品として贈られたという記録が残っています。また天正3年(1575年)の大友宗麟、慶長2年(1597年)の豊臣秀吉、慶長7年(1602年)の徳川家康に献上されたゾウの記録が残っています。
享保年間、江戸幕府の徳川吉宗将軍は科学技術の発展のために海外からの文献を広く取り寄せることを許可しました。このとき幕府は長崎の清の商人にゾウを発注しました。これによって交趾国(現在のベトナム)からゾウの7歳のオスと5歳のメスが享保13年6月13日(1728年7月19日)に長崎に到着しました。到着後は長崎の多く人々がゾウを見物したいそう珍しがりました。残念ながらメスのゾウは長崎滞在中に死んでしまいました。
長崎で冬を過ごしたオスのゾウは享保14年3月13日(1729年4月10日)、江戸に向けて長崎を出発しました。当時はゾウを運ぶ手段がなかったため江戸までの陸路約1,500キロメートルを歩かせることになりました。ゾウは1日に12~20キロメートルほど歩いたそうです。江戸に向かう途中の享保14年4月28日(1729年5月25日)にで中御門(なかみかど)天皇に謁見しました。ゾウには官位「広南従四位白象(こうなんじゅしいはくぞう)」が与えられました。これを記念し、4月28日が「象の日」とされました。
天皇への謁見後、「広南従四位白象」は江戸に向かいました。長崎を出発してから74日かけて江戸に到着し、享保14年5月27日(1729年6月23日)に徳川吉宗将軍が嫡男家重らとゾウを見物しました。「広南従四位白象」は浜御殿で飼育されることになり、人にもよく慣れましたが飼育料が年間200両もかかることから享保15年6月30日(西暦1730年8月13日)に払い下げのお触れ書きが出されました。ところが買い手が付かず、継続して浜御殿で飼育されました。
その後「広南従四位白象」は健康状態も悪くなり気性が荒くなり寛保元年(1741年)飼育員をあやめる事故を起こしました。これを機会に中野村の百姓源助に払い下げられ見世物になりました。当初はたくさんの見物客が訪れゾウは大人気となり関連商品もたくさん売れましたが、やがて見物客は減少していきました。満足なエサも与えられないようになりましたがわずかな見物料で飼育は続けられました。翌年、「広南従四位白象」は病気で倒れ手厚い看護がなされましたが寛保2年12月13日(西暦1743年1月8日)に21歳で病死しました。
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