青函連絡船が就航(1908年3月7日)
青森と北海道を結ぶ定期航路は明治6年(1873年)2月に北海道開拓使によって開通されました。この青函航路は現在とは異なり青森県むつ市の大湊港と函館港を結び津軽海峡を渡る航路でした。
明治12年(1879年)6月、青函航路は郵便汽船三菱会社に引き継がれ民営化されました。当時、郵便汽船三菱会社は日本の海運業を独占しており他の航路と同様に青函航路の運賃を大幅に値上げしました。この郵便汽船三菱会社に対抗するため、反三菱系の三井財閥などが明治15年(1882年)7月に共同運輸会社を設立しました。共同運輸会社はすぐに青函航路に参入しましたが、これによって青函航路の運賃値下げ競争が始まりました。顧客獲得のためこの価格競争は採算性を度外視し激化し、やがて両社の経営が立ちゆかなくなるほどの懸念が生じました。そこで政府は両社に合併することを提案し、明治18年(1885年)9月に日本郵船会社が設立されました。この新会社が青函航路を引き継くことになり毎日1往復の定期運航が行われるようになりました。
明治24年(1891年)9月1日、日本鉄道の東北本線が上野駅ー青森駅まで全通すると人の往来や貨物の輸送量が増加しました。明治25年(1892年)8月1日に北海道炭礦鉄道の岩見沢駅ー室蘭駅が開通したことを受け、日本郵船は明治26年(1893年)2月に青函航路を室蘭港まで延伸しました。これによって函館と室蘭の間は海上輸送にはなるものの上野駅ー札幌駅が鉄道で結ばれることになりました。当初は毎日1往復の運航で間に合っていた輸送量も鉄道網の発展に伴い需要に追いつかなくなるようになりました。日本郵船は夜行便を増発したり、青森ー室蘭間の直通航路を開発したりすることで増加する輸送量に対応しました。
明治37年(1904年)10月、北海道鉄道の函館駅ー小樽駅が開通し、明治38年(1905年)8月1日に北海道炭礦鉄道の小樽駅ー南小樽が開通すると青函航路の輸送量の需要はさらに増加しました。日本鉄道および北海道鉄道は日本郵船に増便を要望しましたが、当時は日露戦争中で船舶が不足していたことから定期運航を増便することができませんでした。そのため港に取り残される乗客や貨物が発生するようになりました。
輸送の需要を満たすことがでいない日本郵船にしびれを切らした日本鉄道は青函航路への参入を検討し、明治38年(1905年)に高速で大型の連絡船の導入を決定し、明治39年(1906年)にイギリスの造船所に蒸気タービン船を発注しました。日本鉄道は国有化されることになりましたが連絡船の発注は継続され、2隻の蒸気タービン船「比羅夫丸」と「田村丸」を建造することになりました。
明治40年(1907年)末、「比羅夫丸」が横浜港に到着し翌1908年(明治41年)初めから試験運転が行われました。同年2月29日に青森港に到着し、3月7日に青森港10:00発、函館港14:00着の青函連絡船として就航しました。「田村丸」は同年4月2日に就航し、青函連絡船は1日2往復運航となり函館と青森を4時間(夜行便は5時間)で結びました。
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