当ブログのカメラマン生誕88周年(1934年2月19日)
本日2月19日は本ブログに掲載しているカテゴリ「昭和の思い出」記事に掲載されている写真の多く(※)を撮影したカメラマンの生誕88周年です。カメラマンは昭和9年(1934年)2月19日に北海道の十勝地方の農家の末っ子として生まれました。
年の離れた長男がカメラと写真が大好きだったようで子どもの頃に長男から写真の撮影や現像をするところ見せられてカメラに興味を持ったそうです。その後、長男は戦地の東南アジアに赴くことになります。戦地では一〇〇式司令部偵察機の偵察員として写真を撮影したそうです。長男は末っ子に戦争が終わったら本格的にカメラの使い方を教える約束をしていたそうですが帰らぬ人となってしまったそうです。
やがてカメラマンの母親は農家の末っ子では家を継がせるわけにもいかないということで釧路に住んでいた母親の妹夫婦に息子を預けます。息子はずいぶん勉強したそうで両親の兄弟に医者が多くいたことから高校卒業後は医学部に進学するように勧められたようです。ところが長男から教えてもらったカメラのことが頭から離れなかったようで息子が選んだのは日大芸術学部写真学科でした。母親は長男がカメラなどとんでもないものを教えたから息子が写真屋になると言い出したと嘆いたそうです。まだ職業カメラマンや写真家が一般的ではない時代のことですから、医者になれるかもしれないのに写真屋を選んだ息子に呆れて心配する母親の気持ちも理解できます。
大学の卒業が近づいた息子は職業としての写真屋になるためにはどんな仕事に就いたら良いのかを考え始めます。ジャンルを問わずにいろいな写真をいろいろな場所で撮りたい。彼が選んだ仕事は新聞社の報道カメラマンでした。ジャンルスを問わずにいろいろなところに赴き決定的な写真を撮れる。彼にとって願ったり叶ったりの仕事だったのです。
しかしながら報道カメラマンの仕事は当初は大変だったようです。若い頃は事件が起きればあちこに派遣され、またある年には大相撲やプロ野球の報道写真を撮影することになり繁忙期は当日中に家に帰れない日々もあったようです。
ジャンルを問わずに良い写真を撮るというのも大変だったようです。たとえば彼は野球のルールを知らなかったそうですが、野球の試合の流れを理解しなければ決定的な写真を撮ることできないと考えルールを猛勉強したそうです。彼の甥っ子が野球をまったく知らなかったおじさんが1ヶ月も立たないうちに普段では出てこないような非常に細かいルールまで理解していてびっくりしたと話をしています。こういうことですから彼はあらゆるスポートのルールを熟知していました。これはスポーツ以外も同じことで取材に赴くときには事前の情報収集と勉強にはことかかなかったようです。やがてあらゆることに精通するようになっていたのです。
彼は新聞社で60歳まで働きその後は再雇用や再就職の道を選ばずに報道カメラマンを引退しました。引退後は学生時代から調べていた写真史の研究を行い日本に写真技術がどのように伝来しどのように写真が発展してきたかなどについて論文や著書を残しています。そして2019年3月に他界しました。
本ブログの一部の記事はこのカメラマンが残したアルバムやネガフィルムの写真を利用しています。
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(※)「昭和の思い出」記事の全ての写真を撮影したわけではありません。
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