ジョン万次郎が帰国(1851年1月3日)
ジョン万次郎こと中濱萬次郎は土佐の国中濱村の貧しい漁村の家に生まれました。1841年、14際のときに漁船に炊事係として乗船しましたが嵐で遭難し太平洋の無人島(現在の鳥島)に漂着しました。仲間とともに5ヶ月近く無人島暮らしをしていたところ食糧補給のために島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に発見されました。
当時、日本は鎖国状態にありアメリカの船が日本に立ち寄ることはできませんでした。そのため萬次郎と仲間たちはジョン・ハラウンド号でアメリカに向かうことになりました。仲間たちは寄港先のハワイのホノルルで降ろされましたが、萬次郎は船長のウィリアム・ホィットフィールドに気に入られ、また本人が希望したこともあってアメリカに一緒に行くことになりました。ホィットフィールド船長は船の名前にちなんで萬次郎にジョン・マンという名前をつけました。以降、米国人からジョン・マンと呼ばれ親しまれました。
萬次郎はアメリカで英語や航海術などをはじめとする知識を身につけ同時に民主主義社会を経験しました。その後、別の捕鯨船に副船長として乗り込み世界各地を航海しました。
約3年の航海を終えて、萬次郎は日本に帰国することを決意しました。カリフォルニアで金鉱を探す仕事で作った金でホノルルに渡り、仲間を迎えに行きました。そしてホノルルで購入した小舟アドベンチャー号とともに上海行きのサラ・ボイド号に乗り込み日本へ向かいました。
沖縄本島南西端の喜屋武岬の沖合でサラ・ボイド号からアドベンチャラー号を降ろし、1851年1月3日に大度浜海岸に上陸し日本への帰国を果たしました。萬次郎が14歳のときに遭難してから既に10年が経過していました。
鎖国中にアメリカから帰国した萬次郎は薩摩藩の取り調べを受け、さらに長崎で長期間にわたる幕府による尋問を受けました。萬次郎が故郷の土佐に帰ることができたのは帰国から約1年半も経った1852年7月11日でした。帰郷後は土佐藩の武士として採用されました。
1853年7月8日、マシュー・ペリーの艦隊が江戸を訪れ幕府に対して開国の要求をしました。この要求に対して幕府は1年間の猶予を求めました。幕府はアメリカに関する知識を得るため萬次郎を江戸に呼び直参の旗本として取り立てました。そして生まれ故郷の地名から中濱の姓を与えました。萬次郎は幕府に助言や進言をし、日米和親条約の平和的な締結に貢献しました。
1860年には日米修好通商条約の締結のため勝海舟や福澤諭吉とともに咸臨丸でアメリカを訪れ通訳として活躍しました。萬次郎は坂本龍馬など幕末の志士に世界観や海外の文化を伝えました。明治維新後も外交で活躍しました。
さて、中濱萬次郎は通称「ジョン万次郎」と呼ばれますが、本人は本名「中濱萬次郎」を名乗り、ジョン万次郎と名乗ったことはありません。アメリカでの名前はジョン・マンです。一般にジョン万次郎と呼ばれるようになったのは1938年の井伏鱒二の直木賞受賞作品「ジョン萬次郎漂流記」で有名になったからです。
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