冬季オリンピックで日本人が初めてメダル獲得(1956年1月31日)
1956年1月31日、イタリアで開催されたコルチナ・ダンペッツォ冬季オリンピックのスキー回転競技で猪谷千春選手が日本人として初めて銀メダルを獲得しました。これは同時に日本人初の冬季オリンピックのメダル獲得にもなりました。
猪谷千春選手は1931年に日本スキー界の草分け的存在の猪谷六合雄と日本人初の女性スキージャンパーの猪谷定子選手の長男として北海道国後島で産まれ、2歳の頃から両親にスキーの手ほどきを受けました。猪谷夫妻は国後島は雪質が良くないと判断し群馬県、長野県、青森県などに移住しながら猪谷選手にスキーの厳しい英才教育を施しました。
猪谷選手がスキー選手として注目を受けたのは1943年11歳のときです。この年、栃木県で開催された明治神宮国民体育大会スキー競技会で前走し、優勝した大人の選手よりも6秒も早い記録を出し天才スキー少年と呼ばれるようになりました。その後も実力を発揮し1948年には長野県で開催された国民体育大会で優勝、1952年オスロ・オリンピックの出場が決まりました。しかし、当時の日本は戦後の占領下にありスキーも大衆化しておらずオリンピックへの参加は非常に厳しい状況だったのです。
オスロ・オリンピックは1952年2月開幕。この約2ヶ月前に銀座ミズノスポーツで1人の米国人がスキー板の反りを確認していたところスキー板を折ってしまいました。米国人は店に弁償を申し出ましたが、支配人はスキー板の品質が悪かったことを認めました。このことがきっけで米国人は支配人と意気投合しました。そこにやって来たのが支配人の家に下宿していた猪谷選手でした。
支配人が猪谷千春選手のことを日本スキー界の有力選手でオスロ・オリンピック出場予定であると紹介したところ、米国人はオリンピック開幕間近なのに日本人選手が十分な練習もできていない状況に驚きました。そしてオリンピック出場予定の猪谷選手と水上久選手を支援することを申し出たのです。米国人は2人のためにパスポートとビザを特別に手配し、オリンピックに向けた練習のためオーストリアのスキー場に連れて行き合板スキー板など最新のスキー用具まで提供したのです。これらの費用はすべて米国人のポケットマネーで賄われました。アメリカ人はAIG保険会社の創業者コーネリアス・バンダー・スター社長だったのです。
1952年2月にオスロ・オリンピックが開幕し猪谷選手は滑降・回転・大回転に出場しました。成績は振るわずそれぞれ24位、11位、20位となりましたが、親子で研究した滑り方が欧州の有力選手のスキー技術と遜色がないことに気が付きました。回転競技では旗門にスキーを引っかけるミスもあり、この大会への出場が自信につながり1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックでのメダル獲得を目標に掲げました。また猪谷選手は真っ黒なユニフォームを着ていたため「ブラック・キャット」と呼ばれようになりその存在を印象づけました。
スター社長はオスロ・オリンピック終了後も猪谷選手を支援し続けました。猪谷選手は全米アルペン競技選手権で2位となり、1953年に米国ダートマス大学に留学し、勉学と良質な環境でのスキー練習に励みました。これらの費用もスター社長が賄いました。米国での経験で猪谷選手は英語が堪能になりました。欧州の大会にも優秀な成績を収めるようになり注目される人気選手となりました。
そして迎えた1956年1月コルチナ・ダンペッツォオリンピック。猪谷選手は米国に留学していたため日本のスキー競技会に出場していなかっためオリンピック代表選出が危ぶまれました。しかし、関係者の尽力と猪谷選手の実力によって日本代表選手に選出されました。猪谷選手は滑降、回転、大回転に出場ました。滑降は失格、大回転では12位とんりましたが、1956年1月31日に回転で自信が目標としていた銀メダルを獲得しました。冬季オリンピックで日本代表選手が始めて獲得したメダルとなりました。
このとき猪谷選手が競ったのがオーストリアのトニー・ザイラー選手です。ザイラー選手はこのオリンピックでアルペンスキー回転・大回転・滑降で金メダルを獲得し世界で初めて三冠を達成しました。ザイラー選手はその後も輝かしい成績を残しましたが1957年に映画に出演したためアマチュア資格を失い1960年スコーバレーオリンピックには出場できなくなりました。
猪谷選手は選手生活を続けていましたが1959年にスター社長の誘いでAIU保険会社に就職しました。そして1960年スコーバレーオリンピックでスキー選手を引退することを決意しました。ザイラー選手が不在だったこともあり金メダル獲得を期待されましたが、金メダルを狙いすぎて自分の滑りができず滑降で34位、回転で12位、大回転で23位となりました。
猪谷選手は引退後は保険会社で働き続けました。ダートマス大学での勉学が功を奏し業績をアップし、1978年には47歳の若さでアメリカンホーム保険会社の社長に就任しました。1980年、国際オリンピック委員会(IOC)委員就任の打診を受け1982年にIOC委員に就任しました。英語が堪能であったこともあり国際的にも活躍しオリンピックの開催や運営に尽力、2005年にはIOC副会長に就任しました。
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