ナリタブライアンが三冠馬に(1994年11月6日)
1993年の競馬クラシックレースの皐月賞を制したのはナリタタイシン、東京優駿を制したはウイニングチケットでした。この2つのレースで2着と惜敗したのがビワハヤヒデでした。ビワハヤヒデは1994年10月の天皇賞秋で5着となるまでは連帯率100%で16戦中1着10回うちレコードタイム4回、2着5回、5着1回で抜群に安定した優秀な成績を収めています。
ビワハヤヒデの父はシャルード、母はパシフィカスです。両親は十分な結果を出すことはできませんでした。パシフィカスの父はノーザンダンサーで血統は良いのですが、ビワハヤヒデはデビュー前の評価では優秀な成績を収めるような馬になるとは考えられていませんでした。ただし、相手に食らいついていく根性は抜群でした。1993年の菊花賞に向けた神戸新聞杯以降で1着となり、菊花賞を優勝してからビワハヤヒデの確固たる実力が証明されていくことになりました。
1993年、ビワハヤヒデの弟としてデビューしたのが父ブライアンズタイム・母パシフィカスのナリタブライアンでした。ナリタブライアンの素質はデビュー前から高く評価されていましたが、デビュー戦(8月)は2着、函館3歳S(9月)では6着、デイリー杯3歳S(11g津)では3着とビワハヤヒデに比べると安定した成績ではりませんでした。この3歳の時期にレース前に興奮しやすい気性や競争中に自分の影に驚いしてしまう臆病な気性であることがわかりました。気性への対策としてレース間隔を詰めることやシャドーロールを装着させることが図られました。
ナリタブライアンが初めてシャドーロールを装着したのは京都3歳S(11月)でした。シャドーロールでナリタブライアンの集中力は大きく改善されました。このレースをレコード勝ちするとG1朝日杯3歳S(12月)は優勝、ここからナリタブライアンの伝説が始まりました。
この頃、自分はじほぼ毎週東京競馬場に通っていました。1993年11月7日菊花賞のビワハヤヒデの優勝を見た後の21日の京都3歳Sのナリタブライアンの走りを見てこの馬は強いと思いました。G1朝日杯3歳S(12月)で優勝した後は共同通信杯4歳S(1994年2月)1着、スプリングS(3月)1着となり、G1皐月賞(4月)、G1東京優駿(5月)を快勝し、あっさりと二冠馬となりました。
東京優駿の後、ナリタブライアンは札幌競馬場と函館競馬場で夏場を過ごしました。このとき体調を崩し、菊花賞への出場が危ぶまれ、復調するも菊花賞に向けての調整スケジュールが大幅に狂いました。
菊花賞に向けての秋の初戦はGII京都新聞杯(10月)に出走することになりました。このレースでは最後の直線で先頭に立ちましたが、後続の馬と競い負け2着となりました。実は調教が十分に行えず、関係者にとっても、この負けは想定内だったようです。しかし、この一叩きでナリタブライアンの体調が改善され、菊花賞優勝の三冠達成の期待が高まりました。
1994年11月6日、迎えた菊花賞。馬場は芝稍重。ナリタブライアンは単勝1.7倍の1番人気に支持されました。レースがスタートすると早めに馬郡から抜け出して後続を突き放し、前年にビワハヤヒデが記録したレーズレコードを破って優勝しました。そしてナリタブライアンは日本競馬史上で5頭目となるクラッシック三冠馬となったのです。
1994年末の有馬記念。単勝1.2倍の1番人気となったナリタブライアンは4コーナーで先頭に立ち、そのまま直線コースを突き抜けて優勝しました。ナリタブライアンの1994年の通算成績は7戦6勝、GI4勝となり、この年のJRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬に選ばれた。年度の賞金は史上最高の7億1,280万2,000円になりました。
ナリタブライアンとビワハヤヒデの兄弟対決が期待されていましたが、ビワハヤヒデはナリタブライアンが優勝した1994年菊花賞の前週に行われた天皇賞(秋)で屈腱炎を発症し引退したため実現されませんでした。もし2頭が有馬記念で戦っていたら世紀の大レースになっていたことでしょう。
1995年、5歳となったナリタブライアンは初戦のGII阪神大賞典(3月)で優勝しましたが、その後は以前のような力強さはなく1着どころか2着に入ることもありませんでした。
1996年の初戦もGII阪神大賞典(3月)を選びました。このレースでは前年の年度代表馬のマヤノトップガンとのマッチレースを制して優勝しました。このレースは現在も語り継がれる名レースとなりました。このレースで復調が期待され、4月の天皇賞(春)では2着となりました。
ナリタブライアンは次レースとして宝塚記念(7月)を目指しますが、期間が空くことからGI高松宮杯(5月)に出走しました。ナリタブライアンのスプリント戦への挑戦は話題を呼びましたが4着に敗退すると出走させたことを疑問視する声も多数あがりました。
高松宮杯の一ヶ月後、ナリタブライアンは兄のビワハヤヒデが患った屈腱炎を発症しました。治療が行われましたが復帰はかなわず、11月9日に京都競馬場、11月16日に東京競馬場で引退式が行われファンに別れを告げました。
ナリタブライアンの成績
21戦12勝 [12-3-1-5] G1 5勝、GII 3勝、GIII 1勝
獲得賞金 10億2,691万6,000円 (本賞金8億9,510万円 付加賞金1億3,181万6000円)
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