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2021年9月23日 (木)

王選手が年間55本塁打を記録(1964年9月23日)

 通算本塁打868本の世界記録にはじめ数々の記録を打ち立てた元プロ野球選手・監督の王貞治さん。早稲田実業高校時代は投打で活躍し、1959年に当時としては破格の契約条件(契約金1,800万円、年俸144万円)で読売ジャイアンツに入団しました。

一本足打法
一本足打法

 入団後1959年2月のキャンプに参加し、ここでプロ野球選手としての投打の能力を見極められます。結果は投手としてプロとしては不十分、打者としては極めて優秀ということで打者をめざすことになりました。守備についてはちょうど川上哲治選手が引退したこともあり1塁に起用されることになりました。

 同年のオープン戦では本塁打5本を放ち、期待の新人として4月1日の国鉄スワローズ戦で開幕デビューしましたが、金田正一投手に3打席2三振1四球と封じられました。オープン戦では様子見で甘い球を投げていた対戦投手も公式戦では厳しく攻めてきました。結局、デビューから10試合26打席無安打となりオープン戦のような快音は聞かれませんでした。

 4月26日の国鉄スワローズ戦、7回表ツーアウト・ランナー1塁で打順8番の王選手の打席が回ってきました。王選手の成績を考えると代打の判断でしたが、次の打者が投手のためそのまま打席に立ちました。2ストライク1ボールと追い込まれたましたが、王選手のバットは4球目を捉え、打球はライトスタンドに入りました。デビュー11戦目にして決勝2ラン本塁打の初安打となりました。

 6月25日の阪神タイガース戦の天覧試合では阪神の先発小山正明投手から4号同点2ラン本塁打を放ち巨人が4-4の同点に追いつきます。阪神は投手を村山実に交代します。9回裏、長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打を放ち、巨人が5-4で勝利を収めました。これが王・長嶋の初のON砲となりました。しかしながら、これ以降は入団3年目になっても当初の期待に応えるような活躍はありませんでした。

 1961年のシーズン後に荒川博打撃コーチが就任し、王選手の打撃の問題は練習不足とフォームにあり改善すれば成績が向上すると判断しました。1962年のキャンプで様々なフォームを試しました。一本足打法は上半身と下半身の動きのタイミングを合わせるためのフォームでしたが、様々なフォームの中のひとつでしかありませんでした。

  1962年のシーズンでは打順4番に起用されましたが、成績は振るいませんでした。巨人の成績も振るわず首位を他チームに明け渡していました。7月1日、試合前の会議でチームが勝てないのは王選手が打てないからだとの指摘があり、荒川コーチは王選手に三冠王を取らせる、ホームランだけならいつでも打たせると豪語し、王選手に一本足打法で打つことを指示しました。そして王選手は公式戦で初めて一本足打法で打席に立ちました。この日の打撃成績は5打数3安打4打点本塁打1本で一本足打法で大きく改善されました。開幕から6月まで本塁打9本でしたが、7月の1ヶ月間で本塁打を10本も放ったのです。王選手は一本足打法の特訓を始め、1962年の成績は497打数135安打、打率.272、本塁打38本、打点85を収め、本塁打王と打点王を獲得しました。

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 1963年のシーズンでは一本足打法で打ちまくり打率.305、本塁打40本の成績を収め、長嶋選手とのON砲でチームを優勝へと導きました。1963年のシーズン終了後は改めて二本足打法の練習に取り組みました。一本足打法でこれだけの成績を収めているのだから、二本足打法のフォームを改善すればもっと成績は上がるという指摘が川上哲治監督からあったからです。オープン戦まで二本足打法を試しましたが、一本足打法に勝る結果は出すことはできず、王選手は一本足打法を採用することを決断し、荒川コーチもこれに了承し、川上監督も一本足打法を認めました。

 1964年のシーズンは東京オリンピック開幕のため、ペナントレースは前倒しのスケジュールで行われました。3月20日の開幕戦では王選手は国鉄スワローズの金田投手から飛距離151メートルの城外ホームランを放ちました。以降の試合でも王選手は一本足打法で本塁打を打ちまくります。3月末までの10日間で本塁打7本を放ちました。5月3日の阪神戦では4打席連続ホームランで14〜17号を放ちました。

 5月5日の広島カープ戦、王選手が打席に立つと、広島の内野と外野のすべての選手が守備位置を右側に移動し、左側を手薄にする「王シフト」を取ります。広島の白石勝巳監督は王選手に対する心理作戦としてこのシフトを取り、王選手もこの日は4打席無安打の成績に終わりました。このシフトに対して王選手は守備選手の頭を超えれば良いと考え、ますますホームランを狙うようになりました。

 王選手のシーズン本塁打は5月末23本、6月末31本、7月末39本、8月末51本となりました。そして、9月6日の大洋線で52号を放ち、1963年に南海ホークスの野村克也選手が樹立した前人未到の日本記録に並びます。野村選手が記録を樹立したとき、この記録は簡単に破ることはできないと言われいましたが、王選手は同じ試合で53号を放ち、日本記録をあっさりと塗り替えてしまいました。

 例年より早い最終戦9月23日、大洋戦の第5回裏、王選手はシーズン55号の本塁打を放ちこのシーズンを終えました。このシーズンの成績は472打数151安打、本塁打55本、打点119、打率.320を収め本塁打と打点で再び2冠を達成しました。

 王選手がこのシーズンに放った55本の本塁打のうち24本は飛距離が120メートルを超えています。大リーグの球場でも大きなホームランとなる飛距離です。

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