日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーラン(1936年9月25日)
ノーヒット・ノーランは1試合を通じて投手が1本も安打を許さなかった場合の記録ですが、日本プロ野球と米国メジャーリーグでは定義が異なります。
メジャーリーグでは9回以上を1人または複数の投手が無安打に抑えた場合で安打以外で失点した場合もノーヒット・ノーランと記録されます。日本プロ野球では9回以上を1人または複数の投手が無安打に抑えた場合で安打以外の失点も許さなかった場合にノーヒット・ノーランと記録されます。つまりメジャーリーグは無安打試合(注1)、日本プロ野球では無安打無得点試合の違いがあります。先発投手がノーヒットノーランを達成した場合は個人の記録となり、複数の投手の継投で達成した場合はチームの記録となります。完全試合(注2)もノーヒット・ノーランになります。
日本プロ野球でノーヒット・ノーランの個人記録を達成した選手はたくさんいますが、日本プロ野球史上初となるノーヒット・ノーランは1936年9月25日に読売ジャイアンツの沢村栄治投手によって成し遂げられました。
沢村投手は小学生の頃から速球投手として注目され、1933年の春、1934年の春・夏の選抜中等学校野球大会で京都商業学校から甲子園に出場しました。甲子園で活躍した沢村栄治投手は慶応大学への進学を希望しましたが、1934年の夏の甲子園終了後に京都商業学校を中退しました(注3)。
1934年11月に読売新聞社主催の日米野球が開催されることになり、沢村投手は日本選抜チームの投手として選ばれました。沢村投手は函館太洋倶楽部から選抜された久慈次郎捕手とバッテリーを組み、大リーグの強豪選手たちを相手に良く戦いました。特に同年11月20日に静岡草薙球場で行われた試合で、沢村投手は6回まで2安打7三振の無失点に抑えました。7回にルーゲー・リッグ選手の本塁打で1失点を許しチームは0対1で負けてしまいましたが、8回9三振、5安打1失点の成績を収めました。
この日本選抜チームのメンバーが中心となって職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)」が結成されることになり、沢村投手は読売新聞社の正力松太郎社主から「一生面倒を見る」と入団を誘われました。沢村投手は家庭の状況を考えて大学進学、職業野球、どちらの道を進んでも構わないと判断しました。父親は慶応大学の進学を勧めましたが、正力社主からの度重なる誘いで職業野球への道を認め、沢村投手は大日本東京野球倶楽部に入団することになりました。
1935年に大日本東京野球倶楽部(後に東京ジャイアンツと改名)のメンバーとしてアメリカに遠征し、21勝8敗1分けの記録を残しました。国内の試合では22勝1敗の記録を残しています。
1936年の第2回全日本野球選手権(秋季)の職業野球リーグでは、9月25日に行われた大阪タイガース戦で日本プロ野球史上初となるノーヒット・ノーランを達成しました。通算で13勝2敗で最多勝利を獲得し、12月の優勝決定戦では3連投して大阪タイガースの打線を抑えて東京ジャイアンツに初優勝をもたらしました。沢村投手は1937年春季リーグで2度目のノーヒット・ノーランを達成し、24勝4敗、防御率0.81、7完封、勝率.857、196奪三振の投手五冠の記録を残し、初代MVPに選ばれました。
1938年1月、沢村投手は徴兵によって陸軍に入隊し、職業野球から離れることになりました。同年日中戦争に出征しますが、戦地での手榴弾投げ大会に何度も駆り出され右肩を痛め、戦場では左手を撃ち抜かれ重症を負ってしまいました。
1940年の春に除隊となり東京ジャイアンツに復帰した沢村投手は兵役の影響で速球を投げられなくなっていましたが、変化球と制球力を磨き同年7月に3度目のノーヒット・ノーランを達成しました。しかし、1941年10月に2度目の徴兵で職業野球選手としての活躍が再び絶たれてしまいました。
戦地から命からがら帰還した沢村投手は1943年1月に東京ジャイアンツに復帰しましたが、オーバースローで投球するはできなくなっていました。サイドスローに転向するもののほとんど活躍することはできませんでした。シーズン終了後、東京ジャイアンツから解雇を通告されました。他球団への移籍も考えましたが有終の美を飾るため東京ジャイアンツの沢村栄治として通算成績63勝22敗、防御率1.74を残し現役を引退しました。
沢村投手は引退後は兵庫県の川西飛行場で働いていましたが、1944年10月に3度目の徴兵で入隊することになりました。同年12月2日、フィリピンへ向かうため輸送船に乗船していたところ、屋久島沖西方で米軍の潜水艦に撃沈され戦死しました。
もし、沢村投手が慶応大学に進学していれば3度も徴兵されることはなかったと考えれています。沢村投手は正力社主に一生面倒を見ると言われて大学に進学せず職業野球の道を選んだ自分の判断を悔やんだそうですが、他人への恨み節はなかったそうです。
終戦後の1947年7月、東京ジャイアンツは沢村投手の背番号14を日本プロ野球初の永久欠番としました。同年、先発投手を対象とした最優秀投手に贈る特別賞「沢村栄治賞(沢村賞)」が設立されました。1959年には野球殿堂入りし、沢村栄治の活躍が語り継がれるようになりました。
(注1)メジャー・リーグでは1996年9月17日に野茂英雄投手が日本人として初めてノーヒット・ノーランを達成しました。野茂投手は2001年4月4日にも達成しています。野茂投手以外では岩隈久志投手が2015年8月15日に達成しています
(注2)安打を許さなかっただけなく走者を出さずに完封勝利を収めた場合は完全試合ですが、プロ野球史上初の完全試合は読売ジャイアンツの藤本英雄投手が1950年6月28日に達成しました。
(注3)当時、野球統制令により学生野球とプロ野球の試合が禁じられており、学生のままでは日米野球に出場できなかったと考えられています。
【関連記事】
・ジャイアンツの日(1934年12月26日)
・函館の野球の球聖 久慈次郎
・プロ野球ナイター記念日(1948年8月17日)
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