YS-11国内定期路線ラストフライト(2006年9月30日)
第二次世界大戦終了後、連合国軍の占領下にあった日本はGHQの航空禁止令の布告により航空機産業に関わる活動が制限されました。1951年にGHQの意向で日本航空が設立されましたが、航空産業の制限はサンフランシスコ講和条約による日本の独立の1952年まで続きました。
日本は航空機開発および製造の技術をもっていましたが、戦後の日本では主に米国製やイギリス製の航空機が使用されていました。制限が解除されると、国産の航空機の開発の機運が高まりました。
1956年に東京大学に財団法人・輸送機設計研究協会が設立され、小型旅客輸送機の開発が始まりました。この開発には零戦、隼、紫電改、飛燕、航研機の開発に関わった5人の技術者が参加しました。輸送機設計研究協会は双発ターボプロップエンジンの構想を発表し、1958年12月にYS-11のモックアップを発表しました。1959年、輸送機設計研究協会が解散となり、日本航空機製造株式会社が設立され戦後初の国産旅客機YS-11の本格的な開発と製造が開始されました。
YS-11の試作1号機は1962年7月11日に公開され、8月30日に初飛行しました。試作機で判明した問題点を解決し、1965年4月から民間航空会社に納入されました。一番最初の定期路線の就航は4月1日の日本国内航空(後の東亜国内航空、日本エアシステム)によるものです。1965年の就航以来、YS-11は日本の空を飛び続け多くの旅客を運びました。YS-11は1973年3月に生産終了となりましたが、その後も現役として活躍を続けました。主要路線の旅客機の主流がジェット機になると、離島への路線など短距離路線を支える航空機として重要な役割を果たしました。
2005年1月、航空法が改正され「客席数が19 または最大離陸重量が5,700kgを超えかつタービン発動機を装備した飛行機」に空中衝突防止装置(TCAS II)の装備が義務付けられましたが、改修に要する費用の関係でYS-11への装備は見送られました。これによって、YS-11は旅客機としては使用できなくなりました。
2006年年9月30日、日本エアコミュターの運行する15:55発の沖永良部空港-鹿児島空港のYS-11がラストフライトとなりました。出発の沖永良部空港ではエイサー踊りが披露され、到着した鹿児島空港では空港消防隊によるウォーターアーチで迎えられました。その後、引退記念セレモニーが行われ、YS-11は就航以来41年に渡る旅客機としての役割を終えました。
【関連記事】
・YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)
・YS-11が機械遺産に認定
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