青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)
北海道と本州を結んでいた青函連絡船は1908年に就航が始まりました。昭和20年(1945年)7月に米軍による空襲で就航していた12隻の青函連絡船は全船が失われました。終戦後、国内の船舶を転用したり、修復された連絡船が使用されたりしまたが、航路の需要を十分に賄うことができませんでした。そこで、GHQの許可を得て大型連絡船が4隻建造されました。そのひとつが洞爺丸で昭和22年(1947年)11月27日に就航しました。
洞爺丸は昭和29年(1954年)9月26日に6時30分に青森港を出港し11時5分に函館港に到着しました。14時40分に函館港を出港する予定でしたが11時30分に暴風警報が出ました。10時50分に出港していた別の連絡船が暴風の影響で難航となり、以降の連絡船は引き返したり、欠航したりしました。
洞爺丸は大型の連絡船で堪航性も優れていたため午後3時に出港の準備が進められていましたが、引き返してきた連絡船からの乗客や貨物の乗り換えに時間がかかり、また停電が重なって予定通り出港することができなくなりました。台風が来る前に本州側の陸奥湾内に入るためには早めに出港する必要がありましたが洞爺丸は欠航とはならず、出港見合わせになりました。
16時に台風は17時頃に渡島半島を通り夜間に北海道を通過するとの台風情報が発表されました。そして17時頃には風が弱まり晴れ間が見えるようになり台風の目に入ったと判断されました。洞爺丸の船長は出港時間を18時30分と決めました。18時頃から再び天候が悪化しましたが、洞爺丸は18時39分に函館港を出港しました。しかし、強風のため洞爺丸は防波堤外で両舷の錨を下ろし船首を風上に向けて姿勢を保ちながら海上で待機しました。
通常はこの待機で波浪をやり過ごすことができますが、波が高く波長が洞爺丸の全長よりやや長かったため船尾の車両甲板に大量の海水が流入し始めました。十分な排水を行うことができず、22時過ぎには左舷および右舷の機械が停止し、操船が不能な状態に陥りました。船内では七重浜に座礁することが伝えられ、乗員・乗客に救命胴衣着用の指示が出されました。
洞爺丸は右舷方向に傾きその傾斜は40度にまで達しました。そして海底に座礁し22時39分にSOSを発します。通常は座礁で船体が安定して沈没を免れることが多いのすが、洞爺丸の船体は不運にも海底の状況により左舷の下部が海面に出るほど傾斜し22時45分に転覆しました。この事故により乗客や乗組員など1,155名が死亡または行方不明となり救助されたのは159名でした。
洞爺丸沈没事故は1912年のタイタニック号の沈没事故に次ぐ著名な船舶の海難事故として知られるようになりました。この事故によって青函トンネル建設の機運が高まりました。
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