黒いジェット機事件(1959年9月24日)
1959年9月24日午後3時15分、神奈川県の藤沢飛行場に真っ黒なジェット機が胴体着陸のうえオーバーランする事件が発生しました。黒いジェット機には国籍を示す表記はなく正体がわかりませんでした。
まもなくヘリコプターやセスナ機が飛来し、拳銃を持った複数の外国人が降りてきました。黒いジェット機からも拳銃を携行したパイロットが降りてきました。当日、藤沢飛行場ではグライダーの訓練が行われており多数の観客がいました。あたりは騒然として緊張感が走りました。
胴体着陸を行った航空機はロッキード社のU-2偵察機でした。NASAの前身であるNACA(アメリカ航空諮問委員会)所属の高層の気象観測機とされ、当日、藤沢飛行場に駆けつけた外国人は米軍関係者でした。事故の捜査にやってきた藤沢警察署員は現場検証をすることができませんでした。この事件は全国紙で取り上げられることはありませんでした。
11月に小学館がこの事件を少年サンデーで特集、12月には衆議院本会議で「黒いジェット機事件」として取り上げられました。NACAから黒いジェット機の目的は伊勢湾台風の上層の大気観測と説明がありましたが、その真偽について議論されましたが結論は出ませんでした。
後に黒いジェット機はCIA(米国中央情報局)所属で厚木基地に配属されているソビエトをはじめとする対東側諸国の偵察機であることがわかりました。同機は改良新エンジンが搭載されたばかりでした。パイロットがその性能向上に感激し飛び続けたために燃料切れになったのが胴体着陸に至った原因でした。
同機はその後、トルコ中南部の都市アナダのインジルリク空軍基地に配属されましたが、1960年5月1日にソ連領空を偵察していたところ、ソ連の対空ミサイルで撃墜されました。米国はこの撃墜された航空機の目的を高高度での気象観測と説明しましたが、脱出したパイロットが偵察目的であることを自白しました。米国は真珠湾攻撃の二の舞を避けるためにも偵察は必要な行為と声明を出し、ソ連が指摘したスパイ行為を認めました。パイロットはスパイ容疑でソ連で有罪となりましたが、後に米ソ間のスパイ交換により釈放されました。このU-2撃墜事件は2016年に「ブリッジ・オブ・スパイ」として映画化されました。
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