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2021年8月25日 (水)

羽田空港が開港(1931年8月25日)

 日本のライト兄弟と言われた玉井清太郎と玉井藤一郎。2人は三重県四日市市の出身で母校の浜田尋常小学校で、兄18歳、弟16歳の明治43年(1910年)にフランスの飛行機ブレリオ XIの模型を参考に玉井式単葉機を製作しました。何度か滑走を試みましたが、玉井式単葉機が空を飛ぶことはありませんでした。玉井兄弟はその後も飛行機の試作と飛行実験を行いましたが失敗の繰り返しでした。

 大正元年(1912年)、清太郎は徴兵で軍隊へ入隊しました。藤一郎は兄が不在の間、飛行機の製作や飛行技術について学びましたが、1914年に軍隊に入隊しました。2年の兵役を経て除隊した清太郎は千葉の稲毛飛行場で飛行機の製造技術を学び、大正5年(1916年)に故郷の四日市市で水上飛行機による伊勢湾横断飛行に挑戦しましたが、エンジンの不調で失敗に終わりました。

 同じ頃、雑紙「飛行会」の記者で強度の近視で飛行家になる夢を絶たれた相羽有(あいばたもつ)は自作飛行機の飛行に挑戦している清太郎と出会い、意気投合した2人は大正6年(1917年)1月に東京府荏原郡羽田町羽田穴守町に日本飛行学校を開校しました。日本飛行学校の第一期生には特撮監督で円谷プロダクションの創業者の円谷英二も名を連ねています。

 日本飛行学校の初代校長に就任した清太郎は大正6年(1917年)に玉井式3号機(日本初3人乗りプロペラ機)を製作し、同年5月に公開飛行を行い東京都上空を飛行しましたが着陸寸前の高度50メートルで主翼が壊れて墜落し24歳の若さで帰らなぬ人となりました。日本飛行学校は同年9月東京湾台風による「大正6年の大津波」(高潮災害)の影響を受け、相羽有はやむなく閉校しました。

 その後、相羽有は日本初の自動車学校を開校し大成功を収めましたていましたが、航空事業が発展していく様子を見ていました。大正10年(1921年)に自動車学校に飛行科を設置し、大正13年(1924年)に日本飛行学校を再び開校しています。1928年には東京航空輸送社を設立しました。

 玉井兄弟の弟・藤一郎は大正7年(1918年)に兄の意志を継いで羽田飛行機研究所を設立し、名前を玉井照高と改めています。大正8年(1919年)に故郷の四日市市で兄の追善飛行に成功、その後は羽田で飛行学校、整備場、飛行練習所を発展させました。

 大正12年(1923年)に関東大震災で鉄道が壊滅的な被害を受けると、航空貨物輸送の必要性が高まりました。当時、民間の航空事業は立川陸軍飛行場が使用されていましたが利用上の制約も多かったため東京の中心から近い羽田に民間の空港を建設する機運が高まりました。

 羽田空港の建設は現在の羽田整備場あたりで1930年1月に始まり、翌1931年8月25日に開港しました。開港当時の羽田空港は草地の中に一本のコンクリートの滑走路という粗末なものでした。施設も簡素なもので管制塔もありませんでした。しかし、当初から税関が設置されており国際線の運行が見込まれていました。1933年には立川飛行場の民間航空事業はすべて羽田空港へと移転しました。

開港当時の羽田空港(1933年)
開港当時の羽田空港(1933年)

 羽田に空港が建設された背景には相羽有や玉井兄弟の尽力があったことは言うまでもありません。特に玉井藤一郎はその貢献度から「日本航空界の父」とされています。

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