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2021年6月 3日 (木)

トキノミノル日本ダービー優勝で10戦10勝(1951年6月3日)

 1951年6月3日、競走馬「トキノミノル」は東京優駿(日本ダービー)をコースレコードで優勝し、デビュー以来10戦10勝を果たしました。

 「トキノミノル」は1950年7月2日、函館競馬場の芝800メートルの新馬戦でデビューしました。馬主だった大映社長の永田雅一はこの馬に肩入れしておらず、馬名も決まっていませんでした。そこで生産者の笠木政彦と調教師の田中和一郎がパーフェクトという名前をつけました。レース前の発馬の練習で、気性が荒く、レース直前にも主戦騎手は岩下密政を振り落としました。1番人気にはなりませんでしたが、レースが始まるとスタートは順調で、あっといい間に先頭に立ち、二着馬に8馬身差の48.1秒で優勝しました。馬主の永田はパーフェクトのことをすっかり忘れていましたが、この勝利でダービーが取れることを確信し、馬名を「トキノミノル」に変更しました。

 「トキノミノル」はその後、朝日盃三歳ステークスなど7戦7勝をあげ、1951年5月13日の皐月賞を迎えました。「トキノミノル」の名声は広く伝わり、ふだん競馬をやらない人々にも注目の一戦となりました。トキノミノルの人気は圧倒的で73.3%の単勝支持率となりました。レースではスタートから先頭に立ち2分3秒で優勝しました(単勝の配当は110円)。

 皐月賞の後、「トキノミノル」は歩行に異常が出て、その後、右前脚が裂蹄となりました。右前脚が思うように動かせないなかでの調教の結果、左前脚の腱に負担がかかり腫れ上がりました。日本優駿(日本ダービー)が迫るなか一時は出走辞退を考えざるを得ない状況になりましたが、競争の前日には両脚ともに不安が消え、出走できる状態となりました。調教も不十分であり、脚の故障も伝えられていたことから、皐月賞ほどの単勝支持率とはなりませんでしたがダントツの一番人気となりました。レースではスタートで出遅れ、先頭に立つことはできませんでしたが、向正面で次々と先行勢をかわして先頭に立ち一馬身1/4差で2分31.1秒で優勝しました。岩下密政騎手は脚に不安があったため十分に追うことはできなかったそうですが、その状態での快勝ですから誰もが「トキノミノル」は三冠馬は間違いなしと考えました。

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トキノミノル(日本ダービー)

 しかしながら、レース終了後の6月8日に「トキノミノル」の体調が悪化しはじめました。結膜炎などにかかり治療が施されましたが、破傷風にかかっていることがわかりペニシリンが投与されました。懸命の治療で一時は快方に向かっているという獣医師の判断も出ましたが、20日に再び体調を崩し、同日午後10時34分に旅立ちました。

 作家の吉屋信子が「ダービーに勝つために生まれてきた幻の馬」という追悼文を毎日新聞に寄稿すると、「トキノミノル」は「幻の馬」と呼ばれるようになりました。馬主の永田は1955年に映画「幻の馬」を制作しています。

 戦前のクリフジ(11戦11勝)についで戦後の馬で10戦以上出走して全勝優勝している馬は「トキノミノル」だけです。また10戦中7戦をレコード勝ちしています。本当に強い馬だったのです。

記:ニフティ・サーブ競馬フォーラム 「時野実」(ハンドル名)

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