1964年 東京オリンピックの模擬開・閉会式の入場券
先日、1964年に開催された東京オリンピックの模擬の開会式と閉会式の入場券です。東京オリンピックの開会式は10月10日に国立競技場で行われましたが、模擬の開会式と閉会式は1週間前の10月3日に行われました。この入賞権は新聞社のカメラマンが保存していたものです。
先日、1964年に開催された東京オリンピックの模擬の開会式と閉会式の入場券です。東京オリンピックの開会式は10月10日に国立競技場で行われましたが、模擬の開会式と閉会式は1週間前の10月3日に行われました。この入賞権は新聞社のカメラマンが保存していたものです。
ビートルズの日本公演は1966年6月30日から7月2日まで武道館で行われました。ビートルズは日本公演の一週間前にこの年のツアーを開始し、ドイツのミュンヘン、エッセン、ハンブルグの3都市で公演を行いました。その後、日本航空JL412便(ダグラスDC-8-53型機JA8008、松島号)でロンドン、アンカレッジ経由で羽田空港に向かいました。しかしながら、台風の影響で到着が遅れ、ビートルズが羽田に到着したのは6月29日午前3時39分でした。当初の予定よりおよそ11時間遅れたということですから、本来であれば6月28日の夕方に到着していたはずです。
到着が午前4時だったにも関わらず、羽田空港には多くのファンや報道陣が駆けつけました。多くの人が見守る中、ハッピを来た4人がタラップを降りてきました。キャデラックに乗り込んだビートルズはパトカーに先導されて東京ヒルトンホテルに向かい、同日の午後に記者会見を行いました。
日本公演は6月30日は夜の部、7月1日と2日は昼の部と夜の部と合計5回行われました。俳優の岡田真澄さんの兄E.H.エリックが司会、尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、ザ・ドリフターズが前座を務め、ビートルズの日本公演を歓待しました。ビートルズもこの歓迎には感激していたそうです。
ウェルカム・ビートルズ ~ のっぽのサリー 内田裕也、ドリフターズ他
コンサートは厳重の警備の中で行われ、暴動や事故などは生じませんでした。他の国でのコンサートに比べて日本の観客は静かにビートルズの演奏を聴き、アリーナにも観客席がなかったため、ビートルズは自分たちの演奏がよく聞こえたそうです。このときビートルズは自分たちの演奏が音が合っていなくて雑になっていることに気がつき、演奏の改善を行いました。
ビートルズの日本公演の観客動員数は約5万人で、日本武道館で初めて開催された盛大なロック・コンサートとなりました。公演を終えた翌日7月3日午前10時44分、大勢の見送りに見守れる中でビートルズは羽田空港から日本を後にしました。
日本のプロ野球で完全試合を達成した投手は15人います。現時点で最後に完全試合を記録した投手は読売ジャイアンツの槙原寛己選手で、1994年5月18日の巨人x広島戦(福岡ドーム)で成し遂げました。
日本のプロ野球で初めて完全試合を達成した投手は読売ジャイアンツの藤本英雄選手です。藤本選手は1935年と1937年に春の甲子園に出場し、その後は明治大学に進学しました。藤本投手は普段の投球練習でもキャッチャーがプロテクターをつけるほど剛腕で、1940年秋季リーグ、1942年春季リーグの明治大学の優勝に多大な貢献をしました。大学での通算成績は34勝を記録しています。
大学を卒業した藤本選手は1942年に東京巨人軍に入団しました。プロ野球選手になって初の試合は巨人x大洋戦でした。試合前から高い前評判で多くの観客を集めましたが、本塁打を打たれるなどして7回で3失点となり降板しました。しかし、8回から登板したスタルヒンのリリーフによって初勝利を収めることができました。実は藤本選手は初戦に向けて練習不足で調子が悪かったそうです。当時の藤本定義監督は藤本選手を高く評価しており、藤本選手にプロ野球の厳しさを経験させるため、あえて調子が上がらないうちに登板させたようです。藤本投手はその後10連勝を果たしています。
デビュー2年目の1943年には34勝、防御率0.73、奪三振253、勝率.756、完封19と投手五冠を達成しました。戦時中の人材不足から1944年から1946年の途中まで日本プロ野球史上最年少記録となる25歳で監督と主将を兼任しました。
藤本選手は1947年に中部日本ドラゴンズに移籍しますが、シーズン後半に肩を故障してしまいます。1948年、読売ジャイアンツに復帰し、外野手として活躍しましたが、足を痛めて走ることができなくなりました。幸い肩の故障も回復し、再び投手として活躍するため投球練習を始めました。このとき藤本選手の投じたボールが右へ大きく曲がり、これをきっかけに投球方法を学んでスライダーを投げられるようになりました。藤本投手のスライダーは打者の手前で直角に曲がるような高速スライダーでした。ヤクルト・スワローズの伊藤智仁選手の高速スライダーのようだったそうですから魔球だったに違いありません。
そして1950年6月28日に青森で行われた巨人x西日本パイレーツ戦。この試合は藤本選手は登板する予定はありませんでしたが、先発を予定していた投手が急病で登板できなくなり、藤本選手が先発することになりました。実は藤本選手は青森での登板はないと考え、函館から青森への青函連絡船での移動中に徹夜マージャンをしていてほとんど寝ていなかったようです。寝不足でマウンドに上がった藤本選手は打者を次々と打ち取り、あっと言う間に完全試合を達成しました。これが日本プロ野球史上初の完全試合の記録となりました。
1955年、37歳となった藤本投手は戦列を離れていましたが、同年10月11日に和歌山で行われた巨人x広島戦で200勝を達成し、現役を引退しました。
昭和39年に静岡市内で撮影した写真です。新幹線開通や東京オリンピックの懸垂幕と横断幕で賑わう街の様子です。
この写真が撮影された場所がどのあたりかをGoogle Mapで調べてみました。ヒントは「江崎書店」です。検索してみると静岡駅前の「呉服町通り」に「(株)江崎書店 本部 外相部」が見つかります。そのあたりをストリートビュで見てみました。上の写真にも下のストリートビューにも右側に角が曲面になった特徴的な形をした建物がありますので、ここで間違いないと思います。
昔はいろいろなお店の店頭に子ども向けの乗り物が置いてありました。10円を入れると動き出すやつです。この写真は昭和42年に撮影されたものです。昭和39年に新幹線が開通したばかりで、超特急ひかり号は人気の乗り物だったのです。奥の子どもは上手に白バイにまたがっています。10円を入れて動き出し、わずかな時間ですが楽しむことができます。
今ではほとんど見かけなくなりまいしたが、いろいろな種類の乗り物がありました。たとえば薬局の前には製薬メーカーのマスコットの乗り物がありました。仮面ライダーやウルトラマンなどのヒーローの背中に乗るタイプのものもありました。
オスプレイが飛んでくると「バラバラバラ」というプロペラの低周波音が聞こえます。このオスプレイは横田基地に向かう米空軍のCV-22です。このあたりは横田基地からそれほど離れていないので、エンジンナセルを傾斜した変換モードで飛行していることが多いです。
オスプレイの全高は6.73メートル、それに対してプロップローターの直径は11.61 mもあります。ですから飛行モードのままでは着陸することができません。エンジンナセルの駆動部が故障して、飛行モードが固定翼モードから垂直離着陸モードに切り替わらなくなったらどうするのだろうとついつい心配してしまいます。
1947年6月24日午後2時59分アメリカのケネス・アーノルドは墜落して行方不明となった米海兵隊C-46輸送機の発見にかけられた5,000ドルの賞金稼ぎのため自家用飛行機でワシントン州カスケード山脈の上空9,200フィート(2,800メートル)を飛行していました。
このときアーノルドはレーニア山の上空を北から南に超高速で直線上に連なって移動する9個の飛行体を目撃しました。アーノルドは最初これらの飛行物体をジェット機と考えましたが、飛行物体には尾翼がなく平な形をしていました。
アーノルドの計測によると飛行物体の速度は時速1,700マイル(時速2735キロメートル、マッハ2.2)にも達していました。この速度は当時のジェット機の約3倍でした。人類初の超音速飛行が成し遂げられたのは同年10月のことですから、アーノルドの目撃した飛行物体は人智を超えたものだったのです。
この事件はマスコミに盛大に取り上げられました。謎の飛行物体はアーノルドの記者会見での証言をもとに「空飛ぶ円盤(Flying Saucers, Flying Disc)」と名づけらました。
その後、数百件を超える同様な目撃例が米国や世界各国で空飛ぶ円盤が報告されるようになりました。多くの目撃例は見間違いやフェークでしたが、アーノルドが見た飛行物体の正体は不明とされました。しかし、20年以上も経過した1969年になって米軍はアーノルドが目撃した飛行物体を目の錯覚だったと報告しています。
現在、6月24日は空飛ぶ円盤が初めて目撃された日として「空飛ぶ円盤記念日」「UFO記念日」とされています。
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トトロのように大きな猫が住んでいる家です。猫の習性を考えると、人間はネコジャラシのようにもてあそばれそうです。
アルゼンチンのArlistanというコーヒーのコマーシャルの映像のようです。
こういう猫の家をミニチュアセットで作るのも面白そうです。
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米国に行ったときにバーでアメリカ人のおじさんに出されたクイズを紹介します。手品かなと思いましたがクイズでした。写真の瓶は焼酎「伊佐美」の一升瓶なのですが、たたたま手元にあったものを写しただけで、とりあえず関係ありません。実際におじさんがクイズを出したときに使ったガラス瓶はワインボトルでした。
ここにリングと瓶があります。リングは金属でできていて伸び縮みしません。瓶は普通のガラス瓶です。
おじさんの本題は
Can you push this bottle through this ring ?
でした。リングの直径はガラス瓶より小さく、どうしても通りません。
しょうがないので、
No, I can't.
と答えました
すると、おじさんは
Yes, I can !
と言って、実に簡単にやってのけて見せたのです。
そして、次の瞬間には、自分もできるようになりました。
いったい、どのようにすれば、
I can push this bottle through this ring.
これができるようになるのでしょう。
ちなみに、知人のアメリカ人にこのクイズを出したところ、できませんでした。
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手を後ろに組んで、少し前かがみになって歩くと、何か考え事をしているのか、ちょっと困っているように見えます。漫画家の手塚治虫さんがブラック・ジャックなどでそのようなキャラクターをよく描いていたように思います。
それで、このカラスです。川の中洲の岩場を歩いています。
「う~む、あの件はどうしたものかなぁ」と・・・
考えているわけはないですね(^^ゞ
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YouTubeのBBCのチャンネルに「Flying Penguins | World Penguin Day | BBC」というタイトルの映像がありました。
空飛ぶペンギン。
よくある水族館の映像でしょう。
泳いでいるペンギンを下から撮影した映像でしょ。
いやいや空を飛ぶんです。
またまた。
「えっ!」
BBCもやるなぁ(笑)
Flying Penguins | World Penguin Day | BBC
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下の絵はココログ 夜明け前「ウルトラマンの空気ビニール人形(昭和42年 1967年4月2日)」の記事の男の子が4歳の時に描いたウルトラセブンです。左下には我らがヒーロー「ウルトラセブン」、そして左上には「悪者の宇宙船」と書いてあります。おそらく本人に聞いて書き記したのでしょう。
この男の子は同年にウルトラマンの絵も描いています(ココログ 夜明け前「あの子が描いたウルトラマン(昭和42年 1967年8月)」)。そのウルトラマンの絵はすぐにウルトラマンとわかるのですが、ウルトラセブンの絵は何だかよくわかりません。これはウルトラセブンがウルトラマンより複雑な顔の形をしているからではないかと思います。
この絵はウルトラセブンと聞けば、アイスラッガーはわかります。ビームランプのようなものがアイスラッガーについています。これはウルトラマンの絵にも見られました。
頭の右側がとがっていますが、これはウルトラセブンの目のまわりの特徴をつかんだものではないでしょうか。目の間にあるのはなんでしょう。これもビームランプ?よくわかりませんが、ウルトラセブンが緑色なのはビームランプのイメージかもしれません。
そしてウルトラセブンの身体が自動車みたいになっています。おいおいこれでは恐竜戦車ではなくてセブン自動車だよ。
ウルトラマンもウルトラセブンも記憶だけで描いたようですが、4歳の子どもにとっては、ウルトラマンとウルトラセブンの形を認識して絵を描く難易度には大きな差があるようです。
一方で面白い認識にも気がつきました。ウルトラマンは怪獣と戦っており、ウルトラセブンは宇宙船と戦っています。ウルトラマンは自然現象として出現する怪獣との戦いが主たるテーマでしたが、ウルトラセブンは地球を侵略しようとする宇宙人との戦いが主たるテーマでした。ウルトラセブンが宇宙船と戦っている絵を描いたのは、ウルトラマンとウルトラセブンのテーマの違いを認識できていたからではないでしょうか。
また、ウルトラマンが光線で怪獣を攻撃しているのに対して、ウルトラセブンは宇宙船に光線でやられているように見えます。ウルトラセブンの顔が赤く傷ついています。ウルトラセブンが反撃しているのかどうかは不明です。ウルトラセブンはピンチになる描写が多かったからかもしれません。
いろいろな食べ物に「○○の日」が制定されていますが、日本の食文化を代表する「おにぎり」にも「おにぎりの日」が制定されています。
「おにぎりの日」を制定したのは石川県鹿西町(現 中能登町)で、昭和62年(1987年)11月12日に同町にある弥生時代の遺跡「杉谷チャノバタケ遺跡」(石川県鹿島郡中能登町金丸)から「おにぎりの化石」が発見されたことに由来します。
この「おにぎりの化石」は建物は炭化した米の塊で人間の指の跡が残っており、およそ2000年前に握られた日本最古のおにぎりと考えられています。ただし、普段私たちが食べている米を炊いた後に握ったおにぎりではなく、蒸した後に焼いたもので現在の粽(ちまき)のようなものでした。そのため、この「おのぎりの化石」は考古学的には「粽状炭化米塊(チマキ状炭化米塊)」と呼ばれています。
さて、「おにぎりの化石」が発見されたのが11月12日なのに「おにぎりの日」が6月18日となったのはどうしてでしょうか。「おいぎりの化石」が発見された遺跡のある旧「鹿西町」は「ろくせいまち」と読みます。18日は「米」の字を分解すると「十」と「八」になることから「米食の日」とされています。「鹿西町」の6と「米食の日」の18を組み合わせた6月18日が「おにぎりの日」と定められました。
昭和38年(1963年)に撮影された品川区二葉町のある通りの写真です。ボンネット型のバスの後ろに同じくボンネット型のダンプカーが並んでいます。狭くなった通りでその様子を見ているいる人たち。
写真には次の説明が書いてあります。
(38.6)二葉町交番前で。この通りはバスが一台通ると、車が交差できない程狭い。向こうのガードは貨物船の引き込み線だが、近々東海道新幹線が通る。来年10月に間に合わせようと突貫工事中だ。
さて、この場所はどこだろうと思って探してみました。ヒントになったのは「二葉町交番前」。これは警視庁荏原警察署の二葉町交番のことです。Googleで検索すると交番が出てきました。ストリートビューで覗いてみると、そこには当時と同じような風景がありました。
電柱の位置は異なるようですが、バスとダンプの後ろにある建物の窓の配置は同じような感じです。当時の建物を元に改築したのでしょうか。
もしもダース・ベーダーがゴルフをしたら。
Funny Darth Vader Golf Commercial
仲間が見守る中、グリーンでパターのロングショット。
思いっきり打ち損じてもフォースを使ってカップイン。
文句を言う奴はフォースで黙らせる!
ゴルフクラブで攻撃する奴にはライトサーベルだ。
ところでベーダー卿。
なぜティーショットでフォースを使わないのか。
ホールインワンできるのに。
途中まで真面目にやっていたけれども、最後に悔しくてダークサイドに落ちたのだろう
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雷の正体が電気であることを証明したのはアメリカのベンジャミン・フランクリンとされています。フランクリンは雷が電気であることを証明するために、雷雨になりそうな雲をめがけて凧を飛ばす実験を1750年に発案しました。
1752年5月10日、フランスの物理学者トマ・フランソワ・ダリバールはフランクリンの論文を参考に凧の代わりに高さ12メートルの金属の棒を使って実験を行いました。ワインボトルで棒を接地し、高度の低いところにできた雲から電気を取り出すことに成功したとされています。
つまり、雷の正体が電気であることに最初に気がついたのはベンジャミン・フランクリンですが、実際に実験で確認したのはトマ・フランソワ・ダリバールだったということになります。
フランクリンがフィラデルフィアで有名な凧揚げの実験を行ったのは1752年6月15日とされています。フランクリンは同年10月19日にこの実験を「ペンシルバニア・ガゼット」紙に報告していますが、実際に実験を自分で行ったとは記していませんでした。
プランクリンの凧揚げの実験を詳細に伝えたのはイギリスのジョゼフ・プリーストリーです。1767年にプリーストリーはフランクリンが金属の棒は危険なため凧の麻ひもを利用して電気を取り出す実験を行うことにしたなど、実験の背景まで説明してます。プリーストリーはフランクリンから詳細な説明を受けていたと考えられています。
フランクリンの凧揚げの実験についてはココログ 光と色と「雷の正体見たり静電気」に解説がありますので、興味のある方はご一読いただければ幸いです。
昭和40年代の小中学生は夏休みになると昆虫採集を始めたりします。捕まえてきた昆虫はそのまま虫かごで飼う場合と研究の対象(-_-:)になったりするわけです。
その研究に必須のアイテムが次の写真のような「昆虫採集セット」でした。
現代では「昆虫採集セット」と聞けば「虫取り網」や「虫かご」や「虫めがね」が入った次のような昆虫を捕まえるための本格的なセットを思い浮かべるかもしれません。
しかし、昭和の子どもたちが使っていた「昆虫採集セット」はまったく違うものでした。どんなものだったのかなと検索してみたら、amazon.co.jpで当時のものが販売されていました。レトロ品なので高音がつけられています。
当時の子どもたちが使っていた「昆虫採集セット」は次の写真のような駄菓子屋さんで銀玉鉄砲などの横に並んでいた玩具です。値段によっていろいろありますが、虫眼鏡、ピンセット、虫ピン、注射器、殺虫液(赤色)、保存液(緑色)、メスなどが入ってるものもありました。
子どもたちはこの「昆虫採集セット」を使って昆虫の研究(-_-;)に取り組むのです。緑色の液体は昆虫を生き返らせる薬だと言い張っている子もいました。この昆虫採集セット、いつの頃か入手できなくなりました。見るからに危険な玩具ですが、大人たちは子どもたちの遊びを黙認していたように思います。PTAの反対が全国的に起こったため製造販売中止に至ったようです。
【追記】
本記事の写真が2022年1月1日放送の「おしょうバズTV」の「いつの間にか消えた&変わったモノ捜索昆虫採集セットの薬品は水だった」で引用されました。
パイオニア10号は米国航空宇宙局NASAがパイオニア計画で1972年3月2日に打ち上げた木星探査機です。パイオニア10号はおよそ1年9ヶ月かけて木星に向かい、1973年11月から木星や衛生の写真を撮影し、それらの画像データを地球に送信してきました。同年12月4日には木星まで20万キロメートルのところまで接近し、高解像度の写真を撮影することができました。
パイオニア10号は木星の重力を利用して太陽系を脱出する軌道に入り、太陽系の外側に向かい始めました。パイオニア10号から信号を受信できる距離は地球から木星までの距離(7億5千万キロメートル)の2倍ぐらいを想定していました。しかし、地上基地の受信設備の改良によって、遠く離れたパイオニア10号からの信号を受信し続けることができるようになりました。そのため、NASAはパイオニア10号の捕捉と観測のミッションを続けました。
1983年6月13日、パイオニア10号は海王星の軌道を越え、太陽系を脱出した初の人工物となりました。NASAは1997年までミッションを続け、その後は断続的にパイオニア10号からの信号を受信し、2003年1月23日に信号が途絶えまでパイオニア10号の位置を確認しました。最後に確認されたパイオニア10号の位置は地球から約123億キロメートル離れたところでした。そして、打ち上げから34年後の2006年3月にパイオニア10号の最後の捕捉が試みられましたが、パイオニア10号を確認することができず、このときをもってパイオニア10号の運用は終了とされました。
現在、パイオニア10号は地球から180億キロメートル以上離れたところを、アルデバランに向けて進んでいると考えられています。パイオニア10号には太陽系や人類が描かれた金属板が取り付けられています。これはアメリカの天文学者のカール・セーガン博士の発案によるもので、異星人とのコンタクトを想定して取り付けられたものです。人類は知るよしはありませんが、いつかパイオニア10号が異星人に発見されるかもしれません。
小説「雪国」は昭和43年(1968年)にノーベル文学賞を受賞した川端康成の長編小説です。川端康成は昭和10年(1935年)1月からいくつかの雑誌で雪国の物語を書き始め、昭和12年(1937年)6月12日に「雪国」として刊行しました。川端康成はその後も執筆に取り組み、「雪国」の完結本が刊行されたのは昭和23年(1948年)12月25日です。「雪国」の完成に13年もかけたのです。
湯沢温泉を舞台とした「雪国」の冒頭は有目な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で始まります。国境は「くにざかい」と読むか「こっきょう」と読むのか意見が分かれていますが、国境の長いトンネルとは群馬県と新潟県の境い目にある清水トンネルのことです。清水トンネルが開通したのは昭和6年(1931年)で、川端康成は1934年から1937年まで湯沢温泉に滞在しています。
小説では汽車に乗って長いトンネルを抜けたことになっていますが、清水トンネルを挟む水上駅と石打駅の路線は最初から直流電化されており、ここを汽車が通ることはありませんでした。長いトンネルに蒸気機関車を通すと煤煙による人的被害が生じるため、この区間は電気機関車が客車を牽引していたのです。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と蒸気機関車が走る映像がありますが、蒸気機関車が長いトンネルを抜けることはなかったのです。
さて、清水トンネルの路線を複線化する際に、新清水トンネルが作られました。昭和42年(1967年)に清水トンネルは上り専用となり、新清水トンネルが下専用となりました。川端康成がノーベル文学賞を受賞したときには「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を体験しようと上越線に乗っても、当時の国境の長いトンネル(清水トンネル)を通り抜けた主人公の島村の体験は再現できなくなっていたのです。
明治6年(1873年)6月11日、渋沢栄一により日本で最古の銀行となる第一国立銀行(現、みずほ銀行)が設立されました。その後の5年間で153の国立銀行が設立されました。
国立銀行は明治5年(1872年)の国立銀行条例に基づいて設立された民間の銀行で、国立銀行という名称は米国のNational Bankと訳したものです。国立銀行の名称には「第○」と数字を入れることが定められていました。つまり設立の順番に番号がつけられたのです。
第一国立銀行に続いて設立された銀行は、第二国立銀行(横浜銀行の前身)、第四銀行(現 第四北越銀行)、第五銀行(現 三井住友銀行)でした。第三国立銀行は発起人の意見対立により設立に至らず、後年に別の発起人によって設立されました。
このように名称に番号が入った国立銀行はナンバー銀行と呼ばれました。2021年現在において当時の数字を名称に含んでいる銀行は十六銀行、七十七銀行、百五銀行、百十四銀行、第四北越銀行、十八親和銀行があります。ですから十六銀行が当時の数字だけを名称に含む最古の銀行で、第四北越銀行が当時の数字を含む最古の銀行ということになります。
八十二銀行は第十九国立銀行と六十三国立銀行が合併したもので、当時の八十二銀行とは異なります。また、三十三銀行も三重銀行と第三国立銀行が合併したもので当時の三十三国立銀行ととは異なります。
毎年6月10日は「時の記念日」です。大正時代、日本の博物館の父と呼ばれた棚橋源太郎が館長を勤める東京教育博物館(現 国立科学博物館)において一般大衆向けの教育(通俗教育)を目的とした様々な展覧会が行われました。
そのような背景のなかで、1919年に文部省主催の生活改善展覧会が開催されると、1920年に文部省社会局に生活改善同盟会が開設されました。生活改善同盟会は国民一人一人の生活意識を向上させ、衣食住にわたる生活の改善と合理化をすることによって、国の利益と産業を発展させることを目的としました。そのなかの第一の項目として「時間を正確に守る」が掲げらました。
同年5月19日に文部省が「時」の展覧会を開催すると、連日多数の来場者で賑わい大盛況となりました。この展覧会において「時の記念日」が提案され、生活改善同盟会が制定する運びとなりました。
「時の記念日」が6月10日と決まったのは、日本で初めて時を知らせたことを記した日本書紀に由来します。天智天皇が671年6月10日(天智天皇10年4月25日)に漏刻と呼ばれる水時計で時を知らせたことが記録(置漏尅於新臺。始打候時動鐘鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。云々。)として残っています。
日本で初めての「時の記念日」は1920年6月10日でした。当日は「時間を尊重し定時を遵行」と記載された5万枚のビラが都内10ヶ所で配布されました。また都内5カ所で天文台の標準時計が設置され、通行人に時計を合わせるよう促しました。正午には、大砲を鳴らし、工場などの施設がサイレンを鳴らし、ニコライ堂が鐘を打ちました。東京は正午を知らせる響きでいっぱいになりました。このようなイベントが日本の各地で行われました。
現在、日本は時間に正確と海外から高い評価を得ています。たとえば電車の発着の時間がこれほど正確な国は他にありません。しかし、日本人が最初から時間に正確だったわけではありません。明治時代には「列車が時間通りに発着するは稀で、遅れるのが当たり前のことで、駅員ですら遅れるのが当たり前と考えている」という記事が残っています。
いずれにしろ、日本人はもともと時間に無頓着であり、欧米からも批判されていたのです。「時の記念日」の制定の背景には、時間にルーズは国民に時間に対する意識を高めて時間を遵守させることによって国を発展させようという狙いがあったようです。
ところで6月は国民の祝日がないことから「時の記念日」を祝日にしてはどうかという意見が昔からあります。「時の流れを体感して時間を尊重しつつ機運を高める日」などと定義して祝日になるといいなぁ。
1928年6月9日、オーストラリアの飛行家チャールズ・エドワード・キングスフォード・スミスはアメリカからオーストラリアまで初の太平洋横断飛行を成し遂げました。
1928年に西回りの太平洋横断を行うため米国を訪れたスミスとオーストラリアの飛行家チャールズ・ウルムはオーストラリアの極地探検家ヒューバート・ウィルキンスからフォッカーF.VII/3m単葉機を購入し、「南十字星」という名前をつけました。太平洋横断飛行には機長チャールズ、副機長ウルムに加え、米国人の無線士ジェームズ・ワーナーと航法士兼機関士ハリー・ライオンが加わりました。
1928年5月31日午前8時54分、「南十字星」は米国カリフォルニア州オークランドを離陸しました。この飛行は無着陸ではなく、「南十字星」は3,870キロメートル離れたのハワイに向かい27時間25分かけて到着しました。次にハワイから5,077キロメートル離れたフィジーに34時間30分で到着しました。この区間は雷雨に見舞われて困難な飛行となりました。最後にフィジーから目的地のブリスベンまでの2,709キロメートルを飛行し、同年6月9日午前10時50分に到着しました。総飛行距離11,556キロメートルの太平洋横断飛行を成し遂げた瞬間でした。
チャールズ・エドワード・キングスフォード・スミスはオーストラリア本土を横断するの初の無着陸飛行、オーストラリア-ニュージーランドの初飛行、オーストラリアからアメリカへの東回りの太平洋横断など、航空史に様々な輝かしい記録を残しています。
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1892年から1896年までフランスの国立気象管理センターを所長を務めていたレオン・ティスラン・ド・ボールは退職後に個人の気象観測所を設立しました。その観測所で温度計をつけた気球を飛ばして上空の温度を計測しました。
ド・ボールは日射の影響を避けるため、この観測を夜間に行いました。すると、上空の気温は地上から約11 kmまでは、気球が上昇するに従って低下しました。ところが11 kmを超えると、温度が一定になることがわかりました。
ド・ボールはこの観測を200回以上も行い、この観測結果が間違いではないことを確認しました。そして、1902年6月8日に大気の層は性質の異なる2つの層から成るということを発表し、この2つの層をそれぞれ対流圏と成層圏と名付けました。
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昭和37年(1962年)6月某日に撮影された北海道函館市の五稜郭公園の航空写真です。公園の北側上空から撮影したもので、よく見る五稜郭の写真とは上下逆さまになっています。写真の右上が半月堡と一の橋と二の橋で、下側が裏門橋です。
撮影当時は有名なシンボルがありません。五稜郭タワーです。初代の五稜郭タワーは昭和40年(1964年)12月開業です。写真の右上の右斜め上方に向かう道路の左側に建設されました。また、昔は公園内は広場になっていて箱館奉行所(復元)はありませんでした。
落ちものゲームの先駆けとなったソビエトのコンピュータゲーム「テトリス」は1984年6月6日に登場しました。自分がテトリスを初めて知ったのは1988年です。当時、ゲームセンターのアーケードゲームで流行しましたが、自分はプレイしたことはありませんでした。自分が初めてプレイしたテトリスは同年11月にビー・ピー・エス社(BPS)が発売したNEC PC-9801版のものです。
BPSのテトリスはフロッピーディスクから立ち上がると、いかにもソビエトというかロシアというBGMがかかります。上から落ちてくる種々の形のブロックを回転させて落としブロック同士を組み合わせて消していくというルールは画期的でした。ブロックが下に落ち切る前に答えを出さなければならにハラハラ感、どうして大流行したのかすぐに理解でき、同時に自分もはまってしまいました。平日の夜遅くまでテトリスで遊んでいたことを思い出します。
下記の映像はビー・ピー・エス社(BPS)が発売したNEC PC-9801版のものです
テトリスを参考にたくさんの「落ちものゲーム」が開発されました。現在、スマホで遊べる落ちものゲームアプリはたくさんありますが、そのルーツとなったテトリスのゲームアプリもあります。PS版もあるようです。久しぶりにプレイしてみようか。
グラスを使った手品です。小さなグラスに入った白い液体を、ひとまわり大きなグラスに注ぎます。すると、ひとまわり大きいグラスがいっぱいになるまで液体が注がれたのです。この操作を繰り返すことにより、白い液体の量が増えていくのです。
途中まで「グラスの中に透明なものが仕込んであり、グラスのサイズに応じた底上げがされているのだろう」と思って見ていたのですが、後半になってびっくりです。一番大きなグラスから他の全てのグラスに液体をいっぱいになるまで注いで見せます。
いったいグラスにはどんな仕掛けが・・・
このマジックのキットが販売されています。従来品とは仕掛けが違うと書いてありますので上記の映像のトリックとは異なるかもしれません。
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下の絵はココログ 夜明け前「ウルトラマンの空気ビニール人形(昭和42年 1967年4月2日)」の記事の男の子が4歳の誕生日を迎えたすぐ後に描いたウルトラマンです。
絵のタイトルは「ウルトラマンと怪獣」です。右側のウルトラマンはわかりますが、左側の怪獣は何を描いたのかよくわかりません。怪獣の造形は複雑なので幼い子どもには描くのは難しいのでしょう。それに対してウルトラマンのデザインはシンプルなのでそれなりに描くことができるのでしょう。ウルトラマンが人気になった理由のひとつかもしれません。
さて、このウルトラマンと怪獣の戦いの絵は何か勘違いをして描かれています。ウルトラマンの頭にビームランプのついたアイスラッガーのようなものがあり、そこから光線が出て怪獣に命中しています。
1967年8月というと、まだウルトラセブンは始まっていませんので、ウルトラセブンと混同したとは考えられません。つまり、ウルトラマンの頭の上に描かれているのなアイスラッガーやビームランプではないということです。
この謎の物体はいったい何か。描いた本人に聞いてみないとわからないでしょうが、もう54年も前のことですから本人に会えても覚えていないでしょう。
当時、放送されていた特撮番組はキャプテンウルトラです。キャプテンウルトラがヘルメットの上部から発射するミラクル光線と混同したのではないかというのが筆者の見解です。
1951年6月3日、競走馬「トキノミノル」は東京優駿(日本ダービー)をコースレコードで優勝し、デビュー以来10戦10勝を果たしました。
「トキノミノル」は1950年7月2日、函館競馬場の芝800メートルの新馬戦でデビューしました。馬主だった大映社長の永田雅一はこの馬に肩入れしておらず、馬名も決まっていませんでした。そこで生産者の笠木政彦と調教師の田中和一郎がパーフェクトという名前をつけました。レース前の発馬の練習で、気性が荒く、レース直前にも主戦騎手は岩下密政を振り落としました。1番人気にはなりませんでしたが、レースが始まるとスタートは順調で、あっといい間に先頭に立ち、二着馬に8馬身差の48.1秒で優勝しました。馬主の永田はパーフェクトのことをすっかり忘れていましたが、この勝利でダービーが取れることを確信し、馬名を「トキノミノル」に変更しました。
「トキノミノル」はその後、朝日盃三歳ステークスなど7戦7勝をあげ、1951年5月13日の皐月賞を迎えました。「トキノミノル」の名声は広く伝わり、ふだん競馬をやらない人々にも注目の一戦となりました。トキノミノルの人気は圧倒的で73.3%の単勝支持率となりました。レースではスタートから先頭に立ち2分3秒で優勝しました(単勝の配当は110円)。
皐月賞の後、「トキノミノル」は歩行に異常が出て、その後、右前脚が裂蹄となりました。右前脚が思うように動かせないなかでの調教の結果、左前脚の腱に負担がかかり腫れ上がりました。日本優駿(日本ダービー)が迫るなか一時は出走辞退を考えざるを得ない状況になりましたが、競争の前日には両脚ともに不安が消え、出走できる状態となりました。調教も不十分であり、脚の故障も伝えられていたことから、皐月賞ほどの単勝支持率とはなりませんでしたがダントツの一番人気となりました。レースではスタートで出遅れ、先頭に立つことはできませんでしたが、向正面で次々と先行勢をかわして先頭に立ち一馬身1/4差で2分31.1秒で優勝しました。岩下密政騎手は脚に不安があったため十分に追うことはできなかったそうですが、その状態での快勝ですから誰もが「トキノミノル」は三冠馬は間違いなしと考えました。
しかしながら、レース終了後の6月8日に「トキノミノル」の体調が悪化しはじめました。結膜炎などにかかり治療が施されましたが、破傷風にかかっていることがわかりペニシリンが投与されました。懸命の治療で一時は快方に向かっているという獣医師の判断も出ましたが、20日に再び体調を崩し、同日午後10時34分に旅立ちました。
作家の吉屋信子が「ダービーに勝つために生まれてきた幻の馬」という追悼文を毎日新聞に寄稿すると、「トキノミノル」は「幻の馬」と呼ばれるようになりました。馬主の永田は1955年に映画「幻の馬」を制作しています。
戦前のクリフジ(11戦11勝)についで戦後の馬で10戦以上出走して全勝優勝している馬は「トキノミノル」だけです。また10戦中7戦をレコード勝ちしています。本当に強い馬だったのです。
記:ニフティ・サーブ競馬フォーラム 「時野実」(ハンドル名)
2021年5月26日はスーパームーンの皆既月食でしたが、残念ながら悪天候で見られなかった人も多かったと思います。自分もこの日は早めに帰宅して写真撮影の準備をしていたのですが、ご覧のとおり曇り空の下に雨雲がかかる状況で、月の姿を見ることができませんでした。
次にスーパームーンと皆既月食が重なるのは12年後の2033年10月8日ですが、今後も日本で部分月食や通常の皆既月食が見える機会は何度もあります。たとえば、今年の冬(2021年11月19日)には部分月食、来年の冬(2022年11月8日)には再び皆既月食を見ることができます。
日本から見える月食の日付
2021年11月19日 部分月食
2022年11月08日 皆既月食
2023年10月29日 部分月食(一部の地域)
2025年03月14日 部分月食(一部の地域)
2025年09月08日 皆既月食
2026年03月03日 皆既月食
2028年07月07日 部分月食
2029年01月01日 皆既月食
2029年12月21日 皆既月食
2030年06月16日 部分月食
6月1日は昭和26年(1951年)に日本写真協会「写真の日制定委員会」が設定した「写真の日」です。その由来は天保12年(1841年)6月1日に薩摩藩11代藩主で島津氏28代当主の島津斉彬の写真が撮影され、これが日本人による初めての写真撮影であることを記念したものとされています。
しかしながら、その後の調査によって「写真の日」の制定の根拠となった資料(東京日の出新聞、日本写真の起源)の記述が誤りであることが判明し、島津斉彬の写真が撮影されたのは安政4年(1857年)9月17日であることがわかりました。
「写真の日」は昭和26年に設定されて以来、慣れ親しまれています。そこで、日本写真協会は「写真の日」の由来が誤りと認めつつ「写真の日」を6月1日とし、この日に写真に関するイベントを開催しています。
日本写真学会誌
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