ベートーヴェン「交響曲第9番」の初演(1824年5月7日)
交響曲第9番 ニ短調 作品125はベートーヴェンが1824年に発表した交響曲です。独唱と合唱を伴うことから「合唱」や「合唱付き」とも呼ばれますが、日本では「第九」として親しまれ、年末に演奏会が行われるのが恒例となっています。
第四楽章の「歓喜の歌」が有名ですが、歌詞はドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラー「歓喜に寄す」が採用されています。ベートーヴェンはシラーの「歓喜に寄す」の詩が大のお気に入りで、22歳の時にこの詩に曲をつけたいと考えるようになりました。交響曲第1番の作曲に手掛けた1799年より7年も遡ること1792年のことでした。当時から「歓喜の歌」の構想を抱いていたと考えられますが、交響曲に仕上げることになるとは本人も考えていなかったようです。
1817年にロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の依頼があり、ベートーヴェンは交響曲第9番の作曲を本格的に始めました。当初は2曲の交響曲を作曲する予定でしたが、最終的には構想していた2つの交響曲を統合することにしました。有名な「歓喜の歌」のメロディは1822年頃に考えられ、1824年に全体ができあがり、数回の改訂を経て同年5月7日にウィーンのケルントナートーア劇場で初演されました。
この初演にはベートーヴェン本人も立ち合いました。ベートーヴェンはすでに聴覚を失っていましたが、指揮台に立ってメトロノームでテンポを指示し、その後ろでミヒャエル・ウムラウフが実際の指揮を行いました。演奏はリハーサル不足で出来栄えは良くなかったようですが、観客は歓喜に満ちた拍手喝采しました。
ベートーヴェン本人は初演は失敗したと考え、演奏後に観客の方を振り返ることができなかったようです。歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方を振り向かせました。ベートーヴェンは観客に深々と一礼して降壇したそうです。
その後、ベートーヴェンは第十交響曲の作曲の構想を開始しましたが、ベートーヴェンの作曲活動は交響曲から弦楽四重奏曲に移っていきました。ベートーヴェンは1827年3月26日に57歳で亡くなり、第十交響曲は断片的なアイデアが残るのみで楽章はありませんでした。かくして第9番がベートーヴェンの最後の交響曲となったのです。
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