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2021年5月21日 (金)

リンドバーグが世界初の単独大西洋無着陸飛行に成功(1927年5月21日)

  アメリカの飛行機乗りだったチャールズ・リンドバーグは子どもの頃から機械に興味をもち、1922年4月にネブラスカ・エアクラフト社の飛行学校に入学しました。リンドバーグはここで飛行訓練を受けましたが事故が起きた時の保証金を支払うことができなかっため、単独での飛行は許可されませんでした。そこで、リンドバーグはさらなる飛行経験を積むために、飛行機の翼の上に立って曲芸をするウィングウォーカーやパラシュート降下などの巡業をしたり、飛行場で整備士の仕事をしたりすることで資金を稼ぎました。

 リンドバーグは冬の到来とともにいったんミネソタの実家に戻りましたが、半年後の1923年5月にジョージア州アメリカスのサウザー・フィールド飛行場(元陸軍飛行訓練場)で第一次世界大戦で余剰となったカーチスJN-4「ジェニー」複葉機を購入し、初めての単独飛行を行いました。飛行場で約1週間ほど飛行訓練を行った後、ジョージア州アメリカスからアラバマ州モンゴメリーに向けて140マイルの単独横断飛行を行いました。1924年3月からアメリカ陸軍航空隊で軍事飛行訓練を1年間受け首席で卒業しましたが、陸軍がパイロットの募集をしなかったため、パートタイムで軍用飛行を行いながら民間のパイロットとして働きました。1925年10月から郵便物の輸送機のパイロットとして活躍しました。

 世界で初めての大西洋無着陸横断飛行は1919年6月にイギリスの飛行家ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンによって成し遂げられました。ヴィッカーズ社ヴィミーIV爆撃機を改造した機体で、1919年6月14日午後1時45分にカナダのニューファンドランドのセントジョンズを離陸し、16時間かけて翌日にアイルランドに着陸、1,890マイル(3,040 km)の飛行を成し遂げました。

 1919年5月にニューヨークのホテル経営者レイモンド・オルティーグはニューヨークーパリ間を無着陸で飛んだ最初の飛行士に対して賞金を出すオルティーグ賞を5年間の期限付きで設立しました。5年経過しても挑戦者が現れなかったため、1924年にオルティーグ賞の期間が5年間延長されました。この頃までに航空技術が発展し、多くの有名な飛行機乗りがオルティーグ賞に挑戦するようになりましたが、誰もこの大西洋無着陸飛行を成し遂げることはできませんでした。

 リンドバーグはこの飛行に挑戦することを決めましたが、無名だったため資金調達に苦労しました。2名の協力者と勤務先から援助を得ることができ、それに自己資金を加えて18,000ドルを確保することができました。他の飛行士の資金に比べるとわずかな額でしたが、リンドバーグはやり繰りをして、ライアン・エアクラフト社と共同で設計した単座・単発のスピリット・オブ・セントルイス号(ライアンNYP高翼単葉機)を手に入れました。オルティーグ賞はパイロットの人数に制限はありませんでしたが、リンドバーグはあえて単独飛行に挑戦することにしました。そのため、30時間を超える操縦を単独で続ける必要がありました。

 1927年5月20日午前5時52分、リンドバーグはロングアイランドのルーズベルト飛行場でサンドイッチ4つと水筒2本を持ってスピリット・オブ・セントルイス号に乗り込みました。飛行機には450ガロン(1,704リットル)の燃料が搭載され、総重量は5,135ポンド(2,329kg)に達していました。この日は滑走路が雨でぬかるんでいたため離陸に難儀しましたが、午前7時52分に離陸に成功しました。

 リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号は高度3,000メートルで嵐の雲に見舞われたり、高度数メートルの海上を飛行するなど、さまざまな困難に直面しながらパリをめざしました。リンドバーグが目指していた目的地はパリ北部のル・ブルジェ飛行場でしたが、リンドバーグが持っていた地図には飛行場が記載されておらず、有視界飛行でル・ブルジェ飛行場をめざしました。飛行場に近づくと、眼下に明るい光が広範囲に見えたため、リンドバーグは工業地帯と思いましたが、実際にはリンドバーグの着陸を見物しようと集まった自動車のヘッドライトだったのです。

 そして、5月21日22時21分、リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号はル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功しました。リンドバーグの飛行距離は5,810 kmで飛行時間は33時間半に及びました。リンドバーグはオルティーグ賞と賞金25,000ドルを獲得しました。また、世界初の単独大西洋無着陸飛行となり、リンドバーグは世界的な注目を受け、一躍有名人となりました。この時、リンドバーグは25歳でした。

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リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号(左)
1927年6月14日のニューヨーク市の祝宴プログラムの表紙(右)

 リンドバーグがパリ上空に達したとき「翼よ、あれがパリの灯だ!」と言ったという説がありますが、これは後世の作り話のようです。その後のリンドバーグの人生は波瀾万丈でしたが、第二次世界大戦には反対し、戦争の無惨さや愚かさについて手記を残しています。

 1931年にはニューヨークから日本を経て中国まで飛行していますが、このときに使用した水上飛行機シリウス号が1970年に開催された大阪万博で展示されリンドバーグも来日しました。リンドバーグは当時10歳の浩宮徳仁親王(第126代天皇)をシリウス号の操縦席に案内しました。徳仁天皇はドナルド・トランプ大統領が来日したときの宮中晩餐会で米国との最初の思い出は大阪万博であり、月の石を見たことや、チャールズ・リンドバーグ飛行士にシリウス号の操縦席に乗せていただいたことと仰られています。

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