開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)
江戸幕府の海軍が幕末に所有していた「開陽丸」。
「開陽丸」は江戸幕府が最新鋭の主力艦として外国の軍艦に対応する目的で文久2年(1862年)にオランダに発注した木造シップ型フリゲート艦です。このとき、江戸幕府は操船や海戦、国際法や医学などを学ぶ目的として留学生を15人派遣しました。その中には、榎本武揚、澤太郎左衛門などの面々が含まれていました。
製造された「開陽丸」は全長72.08メートル、排水量2590トンの船体に400馬力の2気筒横置トランクピストン型蒸気機関と大砲26門(後に35門となる)を備え、速さ10ノット(時速18.5kメートル)で走ることができました。クルップ砲の射程距離は3,900メートルもありました「開陽丸」をオランダから日本へ移送した際の艦長オランダ海軍大尉ジュール・アーサー・エミール・ディノー(Jules Arthur Emile Dinaux)はオランダには開陽丸に勝てる軍艦はないと、その能力の高さを絶賛しました。
1866年12月1日、「開陽丸」はオランダのブリッシンゲンを出航し、アフリカ南端を経てインド洋を渡り、半年後の1867年4月30日に横浜港に到着しました。幕府軍艦奉行の勝海舟が開陽丸を出迎え、榎本武揚は軍艦頭並、澤太郎左衛門は軍艦役並に就任することになりました。
しかし、その半年後には大政奉還が行なわれました。慶應4年(1868年)8月19日、江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は無血開城の条件であった旧幕府艦隊の引渡に応じず、開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊で品川沖から脱走し蝦夷地に向かいました。
さて「開陽丸」の名前は江戸幕府が留学生たちに命名するよう命じました。榎本武揚が考案した夜明け前という意味の「Voor lichter(開陽)」が選ばれたと言われています。Voorが前でlichterが陽や灯という意味です。
この「Voor lichter」はこのブログの名前の由来にもなっています。しかし、ココログを登録するときにブログのフォルダ「voorlichter」とすべきところを「voorlihter」としてしまったため、「c」が抜けた誤字となってしまいました。気がついたのはずいぶん後のことでしたから、恥ずかしながら、そのまま「voorlihter」とすることにしました。
最終的には開陽丸は函館戦争の際に北海道で沈没してしまいますが、この先の話についてはココログ 夜明け前「榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)」をご覧ください。
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