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2021年2月 6日 (土)

日の丸飛行隊がメダル独占(1972年2月6日)

 1972年2月3日に開幕した1972年札幌オリンピック(ココログ 夜明け前札幌オリンピック開幕(1972年2月3日)」)。当時、冬季オリンピックの日本人メダリストは1956年コルチナ・ダンペッツオ・オリンピック(イタリア)のアルペンスキー回転で銀メダルを獲得した猪谷千春選手だけでした。

 1972年札幌オリンピックではスキージャンプでのメダル獲得が期待されていました。そして、宮の森ジャンプ競技場で行われた70メートル級で笠谷幸生選手、金野昭次選手、青地清二がそれぞれ金メダル・銀メダル・銅メダルを獲得しました。日本人がメダルを独占したことから「日の丸飛行隊」と呼ばれまいた。3人の記録は次の通りです。

=金メダル 笠谷幸生(ニッカウヰスキー)

1本目126.6 84.0 m 2本目117.6 79.0 m 総合得点244.2

=銀メダル 金野昭次(北海道拓殖銀行)

1本目120.2 82.5 m 2本目114.6 79.0 m 総合得点234.8

=銅メダル 青地清二(雪印乳業)

1本目123.3 83.5 m 2本目106.2 77.5 m 総合得点229.5

 日本人として一番最初に飛んだのが金野昭次でした。今野選手は前年の調子が悪く、オリンピック出場も危うかったのですが、関係者の強い推挙もあり、何とか出場することができました。踏切のキレが非常に良く「カミソリジャンプ」と呼ばれていた今野選手は82.5 mの記録を出し、いきなりトップに立ちました。2本目は1本目の結果から助走路が下げられましたが、79 mまで飛距離を伸ばしました。スキージャンプでは記録の悪い選手から先に飛ぶのが慣例でしたが、金野選手のジャンプは日本人選手のレベルの高さを海外勢に見せつけることになり「切り込み隊長」と呼ばれました。

 青地選手は1967年に開催された全日本スキー選手権大会ジャンプ90m級で優勝し、1970年にはノーマルヒルの宮の森ジャンプ競技場のバッケンレコード85.5 mを記録していました。札幌オリンピックでのメダル獲得が期待されていました。1本目は期待通り、83.5 mまで飛距離を伸ばしました。2本目のジャンプではバランスを大きく崩して失速してしまいました。明らかに失敗ジャンプでしたが、何とか粘り強く体勢を持ち直して77.5mまで記録を伸ばし、銅メダルを獲得しました。もし、このジャンプが失敗していなければ銀メダルは確実だったかもしれません。

 笠谷選手は国内大会では圧勝を続けていましたが、1964年インスブルックオリンピック(70 m級23位、90 m級11位)や1968年グルノーブルオリンピック(70 m級22位、90 m級20位)では結果を出すことはできませんでした。しかし、1970年のチェコスロバキアで開催されたノルディックスキー世界選手権では70m級で銀メダルを獲得、1971年に札幌で開催されたプレオリンピック大会では70 m級で優勝し、世界大会でも頭角を現すようになりました。1972年の欧州ジャンプ週間では当時としては史上初の4戦全勝を成し遂げることが確実視されていましたが、札幌オリンピックの選考試合参加によって帰国したため最終戦を欠場し、総合優勝を果たすことはできませんでした。笠谷選手は選考大会を免除されていたそうですが、あえて選考大会に出場したうえで、オリンピックに出場したそうです。笠谷選手の1本目は踏切のタイミングも良く、バネのように飛び上がり、前傾姿勢を深く取って滑空し、84 mの最長記録を出しました。2本目は踏切がややうまくいきませんでしたが、金野選手と同じ79 mまで飛距離を伸ばし、金メダルを獲得しました。

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笠谷幸生選手のジャンプ

 ところで1972年札幌オリンピックのスキージャンプ70メートル級の日本人選手と言えば上記3人が有名ですが、もう一人の日本人選手が参加していました。国土計画の藤沢隆選手です。藤沢選手は1本目81 mで4位につけていました。つまり1本目終了時点では日本人が第4位までを独占していたのです。しかしながら、藤沢選手の2本目は残念ながら失敗ジャンプとなり記録は68m、総合23位となりました。4位のノルウェーのインゴルフ・モルク選手は1本目も2本目も記録は78 mでしたから、藤沢選手が2本目のジャンプを失敗していなければ、おそらく日本人が第4位まで独占できたはずです。

=23位 藤沢隆(国土計画)

1本目117.8 81.0 m 2本目90.0 68.0 m 総合得点207.8

 2月11日に大倉山ジャンプ競技場で行われた90メートル級でも日本人選手のメダルの獲得が期待されていましたが、1本目で笠谷選手が106 mで2位につけたものの、2本目は横風にあおられて距離を伸ばすことができず85 mとなり、総合7位となりました。他の日本人選手も記録を伸ばすことができず、90メートル級でのメダル獲得は実現しませんでした。なお、90 m級には青地選手は出場せず、国土計画の板垣宏志選手が出場しました。

=7位 笠谷幸生(ニッカウヰスキー)

1本目124.9 106.0 m 2本目84.5 85.0 m 総合得点209.4

=12位 金野昭次(北海道拓殖銀行)

1本目109.7 98.0 m 2本目89.4 88.5 m 総合得点199.1

=14位 藤沢隆(国土計画)

1本目107.2 95.5 m 2本目89.9 86.0 m 総合得点197.1

=19位 板垣宏志(国土計画)

1本目96.0 90.0 m 2本目871.1 84.0 m 総合得点183.1

 現在のジャンプの選手は飛距離を伸ばすためスキー板を大きく開いて飛びますが、当時は飛距離に加えて飛行姿勢や着地姿勢が重視されていました。スキー板を閉じて深い前傾姿勢で滑空し、綺麗なテレマークで着地する笠谷選手のジャンプは本当に綺麗でした。

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