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2021年2月28日 (日)

ビスケットの日(2月28日)

 2月28日は「ビスケットの日」です。昭和55年(1980年)に全国ビスケット協会が、ビスケットのゆかりの人物「柴田方庵」の業績から制定しました。

 江戸時代の蘭学者・医師の柴田方庵は寛政12年(1800年)に常陸国で生まれ、14才に江戸に出て儒学と医学を学びました。天保2年(1831年)に長崎へ出て、シーボルトの門弟やオランダ軍医オットー・モーニッケのもとで西洋医学を学びます。モーニッケは牛痘の接種を方庵に指導しました。方庵は日本で初めて牛痘の接種を行った1人となり、各地で牛痘の接種を行い普及に努めました。

 方庵は長崎で医業を行う傍で御目見得格として長崎や海外の情報を水戸藩に伝えていました。水戸藩の萩信之助は西洋の「パン・ビスコイト」の製造方法を習得して報告するよう方庵に依頼しました。「ビスコイト」はオランダ語でビスケットのことです。

 方庵はオランダ人の職人から「パン・ビスコイト」の製法を学びました。そして、安政2年(1855年)2月28日(旧暦)に「パン・ビスコイト」の製法を書いた手紙を水戸藩に送りました。この日を記念してビスケットの日は2月8日とされました。

 また、ビスケットの語源はラテン語で2度焼かれたものを意味することから、二(2)度、焼(8)かれたものという語呂合わせも記念日制定の由来に加えられました。旧暦の2月28日は新暦では4月14日ですので、語呂合わせから旧暦2月8日を選んだのではないかと思います。

 なぜ水戸藩は「パン・ビスコイト」の製法が必要だったのでしょうか。「パン・ビスコイト」は西欧の保存食で兵糧になると考えたようです。当時の水戸藩は第九代藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)の時代でした。父の徳川斉昭(とくがわ なりあき)は将軍徳川慶喜の実父ですが、軍事訓練を進め鉄砲の一斉射撃を行ったり、仏教弾圧の罪を行ったりしたことを幕府に問われて1844年に隠居させられ家督を慶篤に譲ります。

 その後、斉昭は藩政に復帰しますが、嘉永6年(1853年)にペリーの艦隊が浦賀に来航すると、開国に反対する攘夷論を主張します。後年、開国論を主張する井伊直弼と対立し、政争で負けてしまいます。

 安政5年(1858年)、大老となった直弼は日米修好通商条約を勅許することなく独断に調印しました。また、このとき斉昭は第十四代将軍として実子の慶喜を推挙していましたが、直弼は自分が推挙していた徳川家茂を第十四代将軍に就任させました。このことに対して斉昭は同年に賛同する尾張藩主と福井藩主と共に直弼を詰問しましたが、逆に江戸城に無断で登城した責任を追求され水戸屋敷での謹慎を命じられます。

 直弼の日米修好通商条約の調印は無勅許だったため、孝明天皇は水戸藩に幕政改革を命じる勅書を下賜しました。これを「戊午の密勅」と言いますが、直弼は将軍と江戸幕府が蔑ろにされたとして「安政の大獄」の弾圧を開始し、これにより斉昭は水戸での永久蟄居を命じられました。このとき、慶篤も登城停止とされてしまいます。その後、尊王攘夷派が幕府の実験を握ったため、水戸藩は復権しますが、このように水戸藩は波乱万丈だったのです。

 こうした経緯がビスケットの製法を入手するきっかけになったのかどうかはわかりませんが、当初は開国を迫る米国との戦争、その後は内乱への対応のため保存できる兵糧を探し始め、ビスケットにたどりついたのではないでしょうか。薩摩藩は戊辰戦争の前に東京の風月堂へ乾パンを5000人分発注したそうです。水戸藩のビスケットの製法取得にも軍事的な理由があったことはあながち否定できません。
 
 ところで、ビスケットとクッキーはよく似ていますが、消費者への混乱を避けるため、不当景品類及び不当表示防止法でその違いが定義されています。詳しくはココログ 夜明け前 「クッキーとビスケットの違い」をご一読ください。

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