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2021年2月 2日 (火)

バスガールの日(1920年2月2日)

 関東大地震の影響により運行が困難となった東京市電の代替輸送手段として東京市営バスの運行が開始したのは大正12年(1923年)1月18日です(ココログ 夜明け前円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)」。

 実は東京市営バスの運行に遡ること約5年前の1918年(大正7年)10月、民営のバス会社である東京市街自動車が設立され、1919年(大正8年)3月1日からバスの営業運行を開始しています。東京市街自動車のバスは車体が深緑色であったため、都民から「青バス」と呼ばれ親しまれました。

 〜余談になりますが、緑色のバスが青色と呼ぶれたは日本人が緑色と青色を明確に区別する文化をもっていなかったからです。ご興味をもたれた方はココログ 光と色と青は進めの真実|交通信号の色」をご一読ください〜

 東京市街自動車は関東大震災後のバスの活躍により、営業路線を拡大していきました。東京市街自動車のバスには少年の車掌が常務していましたが、運賃の横領が多いため、女性の車掌を採用することにしました。大正9年(1919年)12月に女性車掌募集の新聞広告を出し、女性車掌を採用、大正10年(1920年)2月2日に女性車掌が登場しました。

東京乗合自動車のバスと女性車掌(白襟嬢)
東京乗合自動車のバスと女性車掌(1934年、撮影:石川光陽)

 東京市街自動車の女性車掌は白襟の洋服にベレー帽の制服を着ていたことから、都民から「白襟嬢」と呼ばれ大人気となりました。

 東京市街自動車と競争していた東京市営バスは1924年から女性車掌を乗務させるようになりました。東京市営バスの女性車掌は赤襟の制服を着ていたため都民から「赤襟嬢」と呼ばれました。

 昭和40年代、子どもの頃にバスに乗ったときには、女性の車掌が必ず乗務していました。顔見知りになった車掌さんもいて、バスに乗ると名前で呼んでくれた車掌さんもいました。昭和40年代後半になると「ワンマン」と書かれた車掌さんの乗っていないバスが走るようになりました。当時は「ワンマン」の意味がわからず、「このバスには犬が何か関係しているのか?」などと思ったりしたものです。

 バスの停留所で待っているときに「ワンマン」のバスがやってくると、とてもがっかりしたものです。やがて、顔を覚えていた車掌さんの姿も見えなくなり、すべてのバスが「ワンマン」になりました。ドア付近には車掌さんがいた場所が残っており、その場所を見ると何か寂しい気持ちになりました。時は流れて、整理券、降車ボタン、運賃表、テープによるアナウンスが当たり前になりました。

 科学と技術が発展し、世の中便利になってくると、競争も激しくなり、効率を重視する必要が出てきます。バスの車掌さんのような仕事が消えていくわけですが、便利になっていく反面で、精神文化的な何かが失われていくような気もします。

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