函館カール・レイモンのショルダーハム
函館に行くと必ずお土産で買ってくるのが「函館カール・レイモン」のハムやソーセージです。どれも美味しいのですが、自分はよくハムを買います。
函館カール・レイモンはドイツ製法のハム・ソーセージを製造・販売している会社で、創業者はオーストリア=ハンガリー帝国出身のマイスター、カール・ワイデル・レーモンさんです。
レイモンは1894年にカルルスバード(現チェコのカルロヴィ・ヴァリ)の食肉加工のマイスター、アントン・レイモンの息子として生まれ、14歳のときに家業を継ぎました。その後、修行のため各国を訪れ、1915年に缶詰の大量生産の技術習得のためアメリカで3年間研修します。1919年、アメリカからヨーロッパへ戻る途中に来日しました。レイモンは直ちにヨーロッパに戻らず、日本でハム・ソーセージの技術指導をすることになり、1920年に北の地での缶詰工場の統括する拠点のあった函館に赴きました。
レイモンは函館の滞在先の勝田旅館の娘、勝田コウと恋仲になりましたが、コウの両親は2人の結婚に大反対しました。函館は外国人の多い街でしたが、当時は外国人と結婚が許さることはほとんどなかったのです。レイモンとコウは駆け落ちすることを決意し、中国経由でカルルスバートに向かいました。2人はレイモンの家族の協力のもと、カルルスバードでハム・ソーセージの製造・販売を始めました。
カルルスバードでの2人の生活が3年を経過したとき、レイモンは海外で暮らすコウの苦労を配慮し、函館に戻ることを決意しました。1924年、2人は函館に戻り、日本での正式の結婚、1925年に函館駅前にハム・ソーセージの工場と店を開きました。しかし、当時の日本人にはハム・ソーセージはあまり受け入れられませんでした。函館港には外国船が寄港することがあり、ドイツの軍艦からの受注をきっかけに、業績が向上し、五稜郭工場、大野工場が完成します。1933年に畜産指導のため満洲を訪れ、このときの功績により、満洲鉄道の総裁から「礼門」という日本名を授かりました。しかし、その後は大野工場が没収され、ハム・ソーセージの製造・販売が不可能となり、函館山の麓の元町に移住しました。
第二次世界大戦終了後の1948年、レイモンは元町の自宅の隣にハム・ソーセージの工場と店を開き、1980年代初めまでこの地でハム・ソーセージの製造・販売ならびに弟子の育成を精力的に行いました。1983年、日本ハムが函館カール・レイモン社として事業を継続しました。レイモンは現役を引退し、その後も弟子の育成を続けました。レイモンはその功績により数々の章を受賞し、1987年に享年93才で亡くなりました。
自分はレイモンさんがまだ現役だった元町のお店を何度か訪れたことがあります。また、ハムやソーセージもよく食べていました。カール・レイモンのハム・ソーセージは、あのときと今も変わらない味です。弟子の方々がドイツの製法をしっかりと受け継いできているからでしょう。
次の写真はショルダーハムです。これ見ただけで美味そうですが、美食の知人に御馳走したら喜んで食べていました。そして、自分は上述の話を延々と語り、まるで自分の自慢話をしているようだと言われました。
レイモンさんの伝記が出版されています。あと、amazonでハム・ソーセージが売っているか確認してみましたが、常温保存が可能なソーセージやサラミは買えるようですが、ショルダーハムはありませんでした。そういえば空港で買ったときには保冷パックで包んでもらいました。
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