八王子中町と芸妓衆の思い出|八王子芸妓衆がクラファン
古くから織物の街として栄えてきた東京都八王子。その商いの場として、大正時代から繁栄してきたのが中町です。中町はJR八王子駅から北西の位置にあり、西放射線ユーロードを歩いていくとたどりつきます。
八王子市中町には多摩地域で唯一の花街があります。戦後の昭和27年には、料亭が45軒もあり、215人の芸妓が活躍していたそうです。昭和30年代に織物業が衰退し始めると、商談や接待が減り始め、賑わいを見せていた花街にも陰りが見え始めました。
自分が就職のため八王子に移り住んだのは昭和63年(1988年)4月のことです。さっそく上司や先輩に酒席に誘われ、八王子の街中を歩いたものです。50代の上司の行きつけのバーやスナックが中町にあり、よく連れていってもらいました。黒塀に挟まれた路地が張り巡り、見るからに高級なお店がたくさん佇んでいました。
当時の中町には芸妓衆を呼ぶことができる料亭が10件ぐらいはあったと思います。もちろん、若輩者がそのような料亭で御座敷をあげることなどできません。中町を歩く芸妓を時々見かけるぐらいでした。綺麗な着物を来て、路地をもの静かに歩く姿を楽しませてもらいました。芸妓は十数人しかいなかったはずですから、街中で芸妓を見かけるのはとても幸運なことだったのです。
年が開けて昭和64年になると、昭和天皇が崩御し、平成の時代がやってきました(ココログ 夜明け前「「平成」の世が始まる(1989年1月8日)」)。気がついてみると、自分は昭和最期の新入社員になっていたのです。さて、4月になると新入社員が入社しました。彼らが平成最初の新入社員ということになります。当時はバブル景気のど真ん中で、例年よりも多くの新入社員が入社してきたのです。
当時、入社2年目と3年目の社員が新入社員の歓迎会を行うというしきたりがありました。入社2年目の社員が幹事を担当することになり、自分が任されることになりました。自分の同期は5名、3年目の先輩たちは7名、そこに30名近くの新入社員です。どう考えても2年目と3年目の社員だけで歓迎会の費用を賄えるはずがありません。そこで、新入社員の歓迎会の参加者を誘い始めました。すると、あっという間に50名を超える参加者となり大宴会を行うことになってしまったのです。
さて、当時は大きな居酒屋チェーン店もそれほど多くありませんでした。ホームページで店を探して予約なんてことができる時代ではありませんでしたから、駅近くのお店を巡っては予約の確認をする日々が続きました。ところが大人数を収容できる座敷のあるお店はあまりなく、あっても予約がいっぱいでした。京王プラザホテルもまだなかった頃です。
八王子にわずか1年しか過ごしていない幹事は店を探すのに途方に暮れて、やってきたのが中町でした。広い座敷のある料亭があることは知っていましたが、予約の仕組みもよくわからないまま、ある古い料亭に入りました。そこは料亭ではなく置屋さんだったのではないかと思います。時代劇で番頭さんがいるような雰囲気の入り口で、そこには女将さんがいました。宴会をやりたいと事情を話すと、本当は芸妓を呼ぶ宴会をするところなのだけど、お兄さんの宴会を請負いましょうとお座敷の予約を快諾してくれたのです。料理は御膳を出してもらうことになりました。ちょうど予約が空いていたのだと思いますが、「粋なまち」と聞いていた中町で「粋なはからい」をしてもらうことができました。おかげさまで大宴会は宴も酣のうちに終えることができたのです。それから、しばらくして再び宴会の幹事を担当する機会があり、同料亭の御座敷を使わせて頂くことになりました。その頃になると、女将さんとも顔見知りになっていました。宴会が終わったときに「お兄さんたち偉くなったら芸妓さん呼んで御座敷開いてね」の言葉を今でも覚えています。
それから数年後、中町のとあるカラオケのできるお店に行くようになりました。そのお店も上司に紹介してもらったのですが、ママさんは元芸妓でした。お客さんの年齢層は50代以上がほとんどで、お店で働いている女性も40代以上でした。20代でこの店に行っていたのは、おそらく自分たちだけでした。他のおじさんたちがいくら払っているかはわかりませんが、自分たちは歌い放題で3,000円ぐらいで飲ませてもらったのです。しかも常連のおじさんたちが御馳走してくれるものだから、ボトルを入れたのも最初のうちだけでした。
この常連のおじさんたちは、よく芸妓さんを連れてきていました。ある日、美空ひばりの「車屋さん」や坂本冬美の「夜桜お七」を上手に歌う20代の芸妓さんがいました。常連のおじさんたちは自分たちを席に呼んくれました。こうして幸運なことに芸妓さんとも何度かご一緒することができたのです。一人3,000円しか払ってないのに・・・常連のおじさんたちの「粋なはからい」でした。織物業の経営者さんの懇親会だったのかもしれません。このとき一人のおじさんが言っていたのが、あの大宴会でお世話になった女将さの言葉「お兄さんたち偉くなったら芸妓さん呼んで御座敷開いてね」と同じだったのです。
時は流れて、中町の様子も様変わり。黒塀もほとんどなくなり、やがて置屋さんも料亭も、一つ、二つと消えていきました。大宴会でお世話になった女将さんのお店もなくなりました。料亭やお店の跡地にはマンションや駐車場ができ、置屋もなくなり、八王子の花街も非常に厳しい状況となりました。八王子芸妓の文化か途絶えるのではという声も聞こえるようになっていました。
そのような状況のなかで2001年に一人の芸妓さんが20年ぶりに置屋を開業しました。その芸妓とはは「ゆき乃恵」の女将のめぐみさんです。なんと、めぐみさんこそ常連のおじさんと同席し「車屋さん」や「夜桜お七」を歌ってくれたあの芸妓さんだったのです。めぐみさんは粛々と芸を磨き、後進を育て、八王子の花街を復活させました。芸妓の人数も次第に増え、八王子まつりや多くのイベントで芸妓さんたちの姿を見ることができるようになりました。中町も黒塀の佇まいの雰囲気を取り戻し始めました。テレビや映画にも出演するようになりました。
さて、ここにきて多くの人たちの活動に立ちはだかっているのが新型コロナウイルスです。一時期は景気の回復の兆しも見えていましたが、陽性者数が増え続け年明けに非常事態宣言、大打撃を受けている人がたくさんいます。
そのような状況の中で、八王子芸妓衆の活動も大きく制限され、たいへん厳しい状況になっているようです。この状況を乗り越えようと八王子芸妓衆はクラウド・ファンディング「八王子芸者衆を応援してください~桑都の八王子花柳界~」を始めました。応援すると八王子芸妓衆オリジナルのお礼の品を届けてくれるようです。
あれからちっとも偉くなっていない当時のお兄さんは、今もって芸妓さんを呼んでの宴会をしたことがありません(^^l)。過去に頂いた「粋なはからい」へのお礼として、無形文化を未来に継続してもらうためにも、本当にささやかですが応援したいと思います。
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