函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係
ホタテガイは帆立貝と漢字で書きます。なぜ、帆立と呼ばれるようになったのかは、ホタテの貝殻の形が帆船の帆に似ていたからといいます。しかし、生きているホタテは貝を船の帆のように立てているわけではありませんから、口を開いたホタテの形を見て帆立と名付けたそうです。1712年に出版されたされた日本初の図解百科辞典「和漢三才図会」にホタテ貝の名前が出てきます。
さて、このこのホタテには、Patinopecten yessoensisという学名がつけれています。その意味は「北海道の櫛の模様のある皿」です。この学名がつけられた背景には、函館と江戸時代鎖国をしていた日本の外交政策を大きく変えることになったアメリカ人が関係しています。
その外国人とは1853年に江戸湾浦賀沖に姿を現した黒船を率いていたペリー提督です。ペリー提督は日米和親条約に調印した後、日本のいくつかの都市に黒船で寄港していますが、函館には1854年5月12日にやってきました。函館の町は大騒ぎになったそうですが、日米和親条約を結んだ後ですから、この寄港は友好的なものでした。函館の弁天町にあった豪商・山田屋寿兵衛の屋敷で松前藩の役人と会見を行いました。その屋敷跡に建てられたのがこの標柱です。
元町の基坂(もといざか)にはペリー提督来港150周年を記念する銅像が建てられています。
ペリー提督の艦隊は江戸幕府に鎖国を解除するよう求めただけではなく、各地で学術調査も行いました。日本各地のことが「ペリー日本遠征記」にまとめられています。
ペリー提督の艦隊は函館にやってきたとき、ホタテを見てこれはめずらしい貝とアメリカに持ち帰ったそうです。ホタテは新種の貝として紹介され、Patinopecten yessoensisという学名がつけられました。Patinopectenは、櫛のような模様のある皿、yessoensisは蝦夷地(北海道)のことだそうです。
かくして、ホタテの学名は「北海道の櫛のような模様のある皿」となったわけです。ホタテがいるのは日本だけではないはずなのに、学名に蝦夷が入っているのは上述のような歴史があったからです
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