ジャイアンツの日(1934年12月26日)
1931年、読売新聞社の正力松太郎社長は米国からメジャーリーグの選抜チームを招待し、六大学を中心とする日本のチームとの日米対抗試合を行いました。この興業は成功を収めましたが、1932年に文部省が発令した「野球統制令(野球ノ統制並施行ニ関スル件)」により、学生野球の興行化が禁止されました。再度、メジャーリーグを召喚し、対抗試合を計画していた正力は関係者の提案と協力を得て職業野球チームを結成に向けて動きました。
1934年10月、千葉県の谷津球場(後の谷津遊園)に総勢30名の選手が集まり、日米対抗試合に向けての全日本チームが結成されました。1934年11月、ルー・ゲーリッグ、ベーブ・ルース、ジミー・フォックス、レフティ・ゴメスなどの有力選手が参加したコニー・マック監督が率いる全米選抜野球チームが来日し、全国各地で全日本チームとの試合が行われました。全日本チームは16戦全敗の結果でしたが、11月20日に静岡県草薙球場で開催された試合では、日本の沢村栄治投手がルー・ゲーリックの本塁打による1失点のみに抑える好投を行いました。
この日米対抗試合の興業が大成功したことで、12月26日に大日本東京野球倶楽部が創立されました。全日本チームを中心とする19名が創立メンバーとなり、その後3名を加えて22名となりました。
1935年2月、大日本東京野球倶楽部は米国に遠征しますが、名称がわかりにくいとの指摘を受け、提案された東京ジャイアンツと名乗りました。米国では128日間に109試合が行われ、75勝33敗1分の好成績を収めました。米国からの遠征後、チームの名称をどうするかについて議論がありましたが、正力がジャイアンツという名前を選び、ジャイアンツを巨人とし、1936年に東京巨人軍となりました。
最後になりますが、12月26日の大日本東京野球倶楽部の創立メンバーとして加えられ、日米対抗試合で沢村栄治投手とバッテリーを組んだのが函館太洋倶楽部(函館オーシャンクラブ)の久慈次郎捕手でした。久慈選手は大日本東京野球倶楽部に主将として参加することを求められていましたが、函館大火事で疲弊する函館のことを憂い、函館でアマチュア選手として野球を続けることを決心しました。この話はココログ・夜明け前「函館の野球の球聖 久慈次郎」で紹介しましたので、興味のある方はご一読ください。
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