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2020年12月18日 (金)

上野公園の西郷隆盛像の除幕式(1898年12月18日)

 歴史の節目には必ず後世に名を残す英雄が存在します。明治維新の立役者の一人である西郷隆盛は江戸幕府を無血開城させ、新政府の要職に就きました。しかし、明治元年(1868年)に新政府の国書の接受を拒絶した李氏朝鮮との外交問題が生じました。李氏朝鮮に居留していた日本人の安全も脅かされ、日本は朝鮮から撤退するか、武力で李氏朝鮮に修好条約を結ぶよう求めるかを決断する必要に迫られました。

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床次正精作西郷隆盛肖像(1887年 明治20年)

 この外交問題に対して、板垣退助は派兵した上で使節を派遣することを主張しましたが、西郷隆盛は派兵はせずに自身が使節として赴くことを主張しました。この対立について太政大臣の三条実美は兵を伴わずに李氏朝鮮に赴けば殺害される可能性が高いと考え、西郷隆盛の主張に反対しました。

 西郷隆盛は自身が殺害されることは承知の上で、使節が殺害されれば派兵の理由が立つと考えたようです。しかし、三条らは、西郷隆盛を失ってまで対応するような外交問題ではないと考えたのです。西郷隆盛は考えを改めず、これがきっかけで内部対立を起こしました。明治6年(1873年)、西郷隆盛は新政府の要職を外れて下野し、鹿児島に戻りました。内部対立と言っても、西郷隆盛の頑なな性格によるものであることは誰もが理解していました。 

 下野した西郷隆盛は多くの時間を自宅で過ごし、猟をしたり、温泉で休養したりしていました。やがて、西郷隆盛に同調した血気盛んな者たちが鹿児島に集まり、若者たちがその影響を受けはじめます。そこで、明治7年(1874年)に彼らを指導する私学校が西郷隆盛と県令の大山綱良の協力により作られることになりました。銃隊学校、砲隊学校、幼年学校から成る軍事色の強い学校でした。

 西郷隆盛の影響を受けた私学校は勢力を伸ばし、私学校の関係者の多くが鹿児島県の要職を占めるようになりました。西郷隆盛は私学校で自ら教えることはなく相変わらず多くの時間を自宅で過ごしていました。やがて私学校は西郷隆盛の意志とは関係なく、反政府的な組織となり、鹿児島県は私学校に支配された独立国の様相を呈してきました。

 西郷隆盛のかつての盟友であった大久保利通はこの状態を憂慮し表向きは帰省ということで、西郷隆盛と私学校の動向を探る目的で薩摩出身の警察官23名を鹿児島県に派遣します。また、明治10年(1876年)1月、政府が鹿児島県の陸軍の火薬庫から弾薬を移動すると、私学校はこれに反発して火薬庫を襲い弾薬を奪いました。この事件を聞いた西郷隆盛は、私学校に対する厳しい処分をする口実を政府に与えることになったと洩らしました。一方の私学校は大久保利通が送り込んだ警察官を捕らえて、拷問によって西郷隆盛を刺殺しにきたことを白状させます。これらのことに激怒した私学校は政府に対して挙兵するべきという結論に達し、西郷隆盛の考えを聞くことにしました。西郷隆盛は、何も述べることはない、お前たちの思うようにするようにと、「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」と答えたそうです。この一言で挙兵が決まり、結成された薩摩軍は西南戦争へと進みます。明治10年(1877年)2月初めのことでした。

 薩摩郡は田丸坂の戦いなどで奮闘しましが、多勢に無勢 であり、熊本城を落城させることもできず、九州から出ることもできませんでした。薩摩軍は敗走し鹿児島へ戻りましたが、5万人を超える政府軍に囲まれました。9月24日の午前4時頃、政府軍は総攻撃を開始します。西郷隆盛は従者約40名とともに堂々と戦場を駆け抜けましたが、やがて銃弾に倒れました。西郷隆盛は従者の一人別府晋介に「晋さん、もうここでよか」と告げ、同日午前7時頃に別府晋介は涙ながらに西郷隆盛を介錯しました。その後、主だった従者が戦死し、ここに7ヶ月ほど続いた西南戦争が終戦を迎えました。

 終戦後の2月25日、西郷隆盛は官位を剥奪され、賊軍の将とされました。しかし、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦により、賊軍の将の汚名が挽回され、正三位を贈位されました。この背景には、西郷隆盛が倒幕と新政府の発足に多大な貢献をしたこと、結果的に賊軍となったとは言え、その過程には止むを得ない面があったこと、そして何よりも西郷隆盛と一緒に行動をしてきた同郷の黒田清隆の尽力、西郷隆盛を気に入っていた明治天皇の意向がありました。明治天皇は西郷隆盛の戦死を聞いて落胆したそうです。黒田清隆は函館戦争の終結の際、榎本武揚の処分について「榎本を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」と西郷隆盛に助命嘆願しています。

 「上野の西郷さん」の愛称で親しまれている東京都の上野公園の西郷隆盛の像。愛犬ツンを連れた西郷さんは多くの日本人に親しまれています。

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上野恩賜公園の西郷隆盛像

 上野の西郷さんの像は恩赦をきっかけに薩摩藩出身者が中心となって作られたものです。宮内省より賜った500円に加え、全国からの寄付金で建立されました。除幕式は1898年(明治31年)12月18日に行われました。西郷隆盛死後21年後のことです。

 この像は愛犬ツンを連れて兎狩りに出かける西郷隆盛です。ツンは兎狩りが得意な薩摩犬で、西郷隆盛が薩摩川内市東郷町を訪れたときにツンを気に入り、所有者の前田善兵衛に譲って欲しいと頼み込んだそうです。前田善兵衛もツンをお気に入りでしたが、西郷さんの熱意に負けてツンを譲りました。西郷隆盛はツンを自宅に連れて行きましが、前の主人を忘れず、2回も脱走して前田善兵衛の元へ帰ったそうです。銅像の作成時にはツンは既に死んでいたため別の犬をモデルにして像が作られました。

 西郷像を作るにあたって問題となったのは西郷隆盛の写真が一枚も残っていないことでした。エドアルド・キヨッソーネの西郷隆盛の肖像画をもとに、西郷隆盛を知る人の意見を聞きながら、何度も修正をして作り上げました。だいたいは似ている顔となったようですが、西郷隆盛の人間味溢れる愛嬌ある表情や温和な表情が再現できなかったと言われています。

 除幕式の際に、西郷隆盛夫人の糸子は西郷像を見て「主人はこんなお人じゃなかった」「浴衣姿で散歩なんてしない」と言ったそうです。この発言の意味には、西郷像が西郷隆盛本人にまったく似ていないという説もありますが、西郷高森の人間味溢れる魅力的な表情が再現されていないことや西郷隆盛が多くの人の前に浴衣姿で出るような礼儀をわきまえない人間ではないという説が有力なようです。

 上野の西郷さんが建立されて120年以上が経過しています。幕末維新を新政府の重要人物として信念をもって駆け抜けた西郷隆盛。李氏朝鮮の外交問題の対立がなければ下野することもなく賊軍として戦死することもなかったのでしょうか。西郷隆盛は当時の自分の環境を鑑み、死に場所を求めていたきらいがあります。西南戦争で派兵を了解したのも死に場所を求めたからかもしれません。ですから、プロセスは違っていても同じような生き方をし、同じような結果を迎えていたかもしれません。

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