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2020年11月25日 (水)

函館の野球の球聖 久慈次郎

 一般に野球の球聖というと米国のメジャー・リーグで活躍したタイ・カッブ選手のことですが、かつて函館には球聖と言える野球選手がいました。その選手の像が函館市オーシャンスタジアム(千代台公園野球場)に佇んでいます。その選手とは函館太洋倶楽部(函館オーシャンクラブ)で捕手として活躍した久慈次郎選手です。

学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの像(右)
学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの捕手の構えの像(右)

 久慈選手は明治31年(1898年)に青森県青森市で生まれ、幼少期を岩手県盛岡市で過ごしました。身長が180 cm以上あったため、野球の捕手として活躍する機会が多く、盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学すると、本格的に野球を始めました。盛岡中学を卒業後は早稲田大学へと進学しました。

 久慈選手は捕手としては投手を的確にリードし、送球による盗塁の阻止や牽制、一塁へのベースカバーやバンドやフライの処理なども見事なものでした。投手へのリードによって、わざと打者にファールフライを打たせてアウトにすることが多々ありました。また、打者としても、3・4・5番のクリーンアップで活躍しました。イチロー選手のようにチャンスに強くて足が早かったそうです。

 早稲田大学を卒業した久慈選手は大正11年(1922年)に当時函館市に存在していた電力会社である函館水電に入社し、函館太洋倶楽部に入団しました。昭和2年(1927年)、神宮球場で開催された第一回全国都市対抗野球大会に参加、同年に函館水電を退社し、久慈運動具店を開業しました

 昭和6年(1931)に来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会で、全日本チームに捕手兼主将として選ばれました。3年後の昭和9年(1934年)の同大会にも捕手兼首相として参加し、現在においては沢村賞で有名な当時全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組みました。大リーグの選抜チームはコニー・マック監督が率い、大打者のべーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、名投手レフティ・ゴメスが参加した強豪チームです。16戦全敗の結果でしたが、沢村選手と久慈選手のバッテリーは大リーグの強豪相手に良く戦いました。特に静岡草薙球場で行われた試合においては、沢村選手が好投し、ルーゲー・リッグ選手の本塁打による1失点のみに抑えました。このとき、沢村選手は久慈選手のサインに対して首を振り、久慈選手のリードを拒否する仕草をしましたが、最終的に沢村選手が投じた一球がどちらの意図によるものなのかはわかっていないようです。

 ところで、函館市は昭和9年3月に死者2000人以上にものぼる大火に見舞われていました。炎は函館の半分を焼き尽くし、函館市民は疲弊していました。このとき久慈選手は日米野球大会の主催者の読売新聞社に16試合のうちせめて1試合を函館で開催して欲しいと嘆願しました。読売新聞社はこれを受け入れ、同年11月8日に久慈選手は函館市民が見守る中でプレーしました。

 このときの全日本チームのメンバーを中心としてプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現:読売ジャイアンツ)が結成されることになり、久慈選手は主将としてチームへの参加を要請されました。当時としては破格の給与での対応でしたが、久慈選手はこの申し入れを断っています。大火の影響が続き、復旧の目処が立たない函館でアマチュア野球の発展に貢献することを決意したのです。

 その後、函館太洋倶楽部の監督兼捕手となった久慈監督は、毎年北海道代表としてチームとともに全国都市対抗野球大会に出場しました。毎年1回戦で敗退を続けていた函館太洋倶楽部ですが、昭和14年(1939年)に初めて1回戦に勝利しました。久慈監督はチームのメンバーとともにたいへん喜んだそうです。

 同年8月、札幌神社外苑球場で小樽新聞社主催の北海道樺太実業団野球大会が開かれました。19日、函館太洋倶楽部は1回戦で札幌倶楽部と対戦しました。2対1で札幌倶楽部がリードする7回表、ノーアウトランナー1塁で久慈監督は打席に立ちました。札幌倶楽部のバッテリーは久慈監督を敬遠しました。久慈監督は1塁に進みましたが、途中で振り返り、次の打者に声をかけようとしました。このとき、札幌倶楽部の捕手が投げた牽制球が久慈監督のこめかみを直撃したのです。試合は中断となり、久慈監督は直ちに病院に搬送され緊急手術を受けました。治療の甲斐もなく、久慈監督の意識が戻ることはなく、残念ながら帰らぬ人となってしまいました。死因は頭蓋骨破損による脳出血でした。8月21日のことでした。

 久慈監督がいかに素晴らしい選手であったかはその後の球界の対応でもわかります。全国都市対抗野球大会では敢闘賞として久慈賞が設立されました。また、昭和34年(1959年)に始まった野球殿堂においては、沢村栄治選手とともに第1回の殿堂入り選手となっています。

 もしも久慈選手が大日本東京野球倶楽部に入団していたら読売ジャイアンツの歴史に残る名捕手になっていたことでしょう。しかし、久慈選手は函館市を足がかりに北海道で野球をプレーし続けることを決意し、函館の球聖になったのです。

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