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2020年10月

2020年10月31日 (土)

46年振りハロウィンの名月(2020年10月31日)

本日2020年10月31日はハロウィンですが、新型コロナウイルスで自粛モードですが、今年のハロウィンは一味違います。大自然からのプレゼントがありました。

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あ〜これじゃないって!

 今年のハロウィンの夜空には満月が輝いているのです。満月はめずらしいものではありませんがハロウィン満月は1974年以来、実に46年ぶりの巡り合わせです。

 現在の時刻(19:10)においては、満月もうずいぶん高い空にあり白っぽい黄色になっていますが、写真は17:40頃に撮影したものです。高度が低かったので、少し赤みがかった黄色い色をしています。

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ハロウィンの名月

 月は表面が鏡のように滑らかではなく凸凹しているのに夜空で明るく輝いています。どうしてでしょうか?月が明るく輝いて見える理由については「光と色と」の月が明るく輝いて見える理由|ガリレオの天文対話にて説明していますので興味がありましたらご一読ください。

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沖縄の首里城が焼失(2019年10月31日)

 今からちょうど一年前の今日2019年10月31日、沖縄の首里城で火災が発生しました。炎はあっという間に広がり、正殿・北殿・南殿が全焼し、その他の建屋にも被害が及びました。首里城は過去に4度焼失していますので、5度目の焼失です。前回、首里城が焼失したのは1945年で第二次世界大戦の沖縄戦によるものでした。

 1958年に守礼門が再建されると、その他の建物の再建も進められ、2000年には世界遺産に登録、2006年には日本100名城の100番目の城として登録されました。そして、2019年1月に復元工事が完了したところでした。同年の10月に焼失したことは非常に残念なことです。長きに渡る再建に関わった方々の思いを想像すると言葉が見つかりません。

 自分は首里城は一度だけですが、15年ほど前に見学したことがあります。そのときの写真がありましたのでいくつかアップします。

 まずは首里城の正門の守礼門です。守礼門は約480年前に建造されたと考えられています。1945年に第二次世界大戦の沖縄戦で焼失しましたが、前述の通り、1958年に再建されました。

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守礼門

 続いて歓会門です。首里城郭に入る第一の門です。歓会門も沖縄戦で焼失していますが、1974年に復元されています。

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歓会門

 次は瑞泉門です。首里城郭に入る第二の門です。

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瑞泉門

 第三の門である漏刻門の写真はありませんでした。ということで次は第四の門である広福門です。

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広福門

 そして、首里城正殿の御庭へ入る最後の門、奉神門です。

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奉神門

 奉神門を抜けると、正殿があります。

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正殿

 北殿の写真はありませんでした。次は南殿です。

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南殿

  展示してあった朝拝御規式の模型です。朝拝御規式は元旦に執り行われた儀式だそうです。

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朝拝御規式の模型

 次は正殿二階の玉座です。これは復元されたものです。

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正殿二階の玉座

 首里城の火災から1年が経過し、再建に向けての取り組みが進められているようです。国内外から多くの寄付が募られ、その額は50億円以上とのことです。いろいろと入手が難しい材料などもあると思いますが、2026年の完成を目指し、2022年に着工する予定ようです。

 首里城が再建されることを楽しみにしています。その頃には新型コロナウイルスも一段落し、多くの人が訪れるのではないでしょうか。

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2020年10月30日 (金)

BCLを思い出して憧れの短波ラジオを買った|ナショナル クーガ2200(RF-2200)

 中学生の頃、男子の間で流行っていたのがBCL(ビーシーエル、Broadcasting Listening )です。BCLの意味はもともとはラジオ放送を受信することなのでしょうが、当時は特に海外の短波放送を受信することをBCLと呼んでいました。英語はそのままの意味Shortwave Listeningだそうです。ちなみにBCLとは全く関係ありませんが、当時女子の間で流行っていたのはBCR(ベイ・シティ・ローラーズ)でした。

 当時、BCLが何がきっけとなって日本中の子どもたちの間であれほどまでに流行したのかはわかりませんが、自分の周りも御多分に漏れずに多くの男子がBCLにはまっていました。当時の遠い記憶を思い出すと、「ラジオの製作」「子供の科学」などの雑誌がきっかけとなって広がったように思います。そう言えば自分は「子供の科学」を毎月読んでいました。親父が毎月会社の帰りに本屋で買ってきてくれたのです。

 さて、BCLは単に海外の短波放送を聞くだけではなく、受信レポートを放送局に送ることで、放送局から確かに放送を受信したと証明するベリーカードをもらうことができました。当時はBCL用のアイテムもいろいろと売っていて、ベリーカード申請書なども売っていました。

 机の上に棚を作り、そこにラジオや専用のノートなどを並べます。まるで特撮に出てくる地球防衛軍の基地のような雰囲気にしあがります。

 放送を聴き始めるのは夜8時を過ぎた頃からでしょうか。ラジオのアンテナを伸ばし、電源を入れる。SWにチャンネルを合わせて、チューニングダイヤルを回して目的の放送局の周波数に合わせていくと、ノイズの中からやがて声が聞こえてきます。

 人気の放送局はワライカワセミの鳴き声で始まるラジオ・オーストラリアの日本語放送やビック・ベンの鐘の音で始まるBBCの日本語放送です。その他、VOA(ボイスオブアメリカ)ロシアの放送局、韓国や北朝鮮の放送局などたくさんありました。そして、アンデスの声など受信の難易度の高い地球の裏側の放送局の番組を受信できたときには気持ちが高揚したものでした。そして、翌日に学校で友達とあれを聞いた、これを聞いたと話をしたものです。

 普段は家で一人でラジオに耳を傾けるのですが、定期的に友達の家に自分の短波ラジオを持って集まり、皆でBCLを楽しみました。当然、そこにはいろいろなメーカーのラジオが集まるわけですが、ラジオの性能によって受信能力が変わってきます。このラジオでは受信できるのに、あのラジオでは受信できないなどとやり取りが始まります。当然のことながら、裕福な家庭の子がより良いラジオを持っているわけです。

 自分の家はドラえもんの野比のび太の家と同じです。新しいラジオを買ってもらえるわけもなく、相談するドラえもんもいませんから、家にあった昔のSONY製の短波ラジオを使うしかありませんでした。それでも、この短波ラジオはSONY製のTRF-2000Fというモデルで、チャンネルはMW(AM)、FM、SW1〜SW4までありました。BCLが流行する前から、報道関係者や海外駐在員が使っていた短波ラジオとしては十分な仕様のものでした。

 一方、スネ夫君相当の家の子が持っていたのは例えばSONYのスカイセンサーという短波ラジオです。直読ダイヤルやマーカーなど、チューニングダイアルで周波数を合わせるのに便利な機能が搭載されていました。

 しばらくすると、ナショナルがクーガ2200という、当時としては画期的な短波ラジオを発売します。ラジオ本体以外に、3 m垂直アンテナやアンテナカップラーなどのオプションが揃っていました。とても欲しかったのですが、本体34,800円、3m垂直アンテナ4,980円、アンテナカップラー6,800円などなど、自分の家ではとても買ってもらえるような代物ではありませんでした。全部揃えたら10万円以上になります。

 ところがですよ。スネ夫君はクーガ2200をあっさり買ってもらったのです。スカイセンサー持っているのに。これには皆がびっくり。皆でその子の家を訪れ、クーガ2200を見せてもらいました。憧れの的のクーガ2200はすごかったのです。

 あれから40年以上、あるとき何気にamazonでクーガ2200と検索してみたら中古品が売っていることに気がつきました。ヤフオクで見てみたら、ジャンク品から作動確認済みのものまでたくさん売っています。

 こうなると当時の記憶が蘇り、あこがれのクーガ2200を買わずにはいられなくなりました。よし、これを買ってしばらくぶりに短波ラジオでも聞いてみよう。ということで、ヤフオクでそこそこの品質のものを入札。他にも欲しい人がたくさんいたようでしたが、何とか購入することができました。そして、届いたのがこれです。

2200
ナショナル クーガ2200(RF-2200)

 あれから40年を経て憧れのクーガ2200を手にすることができました。さっそく電源コードをつないでスイッチON。中古品のため、まず動作確認から、MW(AM)もFMもちゃんと聞こえます。短波放送もちゃんと聞こえます。

 よっしゃー! BCLやるぞー!と、昔聞いた放送局の周波数を調べました。

 まずはラジオ・オーストラリアから。ん?

 Wikipedia曰く「ラジオ・オーストラリア(Radio Australia)はオーストラリアの公共放送局であるオーストラリア放送協会が運営している国際放送サービス。アジア・オセアニア地域を対象にFMやインターネット配信によって提供している。短波での放送は2017年1月31日に終了したが、FMやインターネットでの放送は継続されている」

 がーん!ありゃー短波放送が終了している。他にもいろいろ調べてみましたが、短波放送終了しているところが多い。短波放送は継続していていも日本語放送は終了しているなど。確かにインターネットがここまで広まっている中では短波放送というのは継続が難しいのだろうなと思いました。

 でも未だに何とか継続している放送局もあるようですし。

 ラジオは40年前と同じですが、自分はそれなりにバージョンアップし英語を聴けるようになりました。

 よっしゃー! BCLやるぞー!

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2020年10月29日 (木)

函館山と函館どっくゴライアスクレーン

 写真を整理していたら2004年に青函フェリーで青森港から函館港までフェリーで函館に向かったときの写真が出てきました。次の写真は函館港に入ってから函館山を撮影したものです。よく見ると左下に函館どっくのゴライアスクレーンが写っていました。

Photo_20201029094101

解像度が低いので綺麗ではありませんが、函館どっく付近を拡大してみました。

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このゴライアスクレーンは造船不況と老朽化のため2009年(平成21年)6月に撤去されました。

現在、コロナウイルスで厳しい状況ですが、函館には多くの人が観光に訪れます。ずいぶん前に比べると、観光都市としてずいぶん良い感じになってきたと思います。当時の様々な問題もあったと思いますが、ゴライアスクレーンが撤去されたことは非常に残念です。

高校生の頃、海釣りをしながらゴライアスクレーンを眺めてていたのを思い出します。

撤去直前の函館どっくのゴライアスクレーンの映像がYouTubeのチャンネル「新函館ライブラリ」にアップされていました。

最後のゴライアスクレーン、函館どつくWhiteCoral進水式(VIDEO HOSHINOシリーズ)2009年6月2日

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2020年10月27日 (火)

新立川飛行機製 R-HM型軽飛行機(立飛 R-HM)1967年頃(昭和42年頃)

 次の飛行機の写真はかつて東京都千代田区神田須田町にあった交通博物館に展示されていた新立川飛行機製 R-HM型軽飛行機の試作機です。1967年(昭和42年)ぐらいに撮影された写真と思います。見にくいですが主翼の下側に機体番号(JA3094)が入っています。

新立川飛行機製 R-HM型軽飛行機(立飛 R-HM)
新立川飛行機製 R-HM型軽飛行機(立飛 R-HM)

 R-HMは串型翼の考案者のフランスのアンリ・ミニエ技師の指導の下で1954年に新立川航空機で制作された軽飛行機で、同年10月に試作機(JA3094)の初飛行に成功しました。空のジープとして期待されましたが、安全性が疑問視され量産されませんでした。

 R-HMは失速しにくく低速で飛行ができるという特徴を有していましたが、左右方向の制御を行うエルロンと上下方向の制御を行うエレベータがなく、前翼の角度と尾翼のラダーだけで操縦を行うようになっており、操縦が難しかったようです。

光と色と Color Images|白黒写真をカラー写真にするアプリで紹介されているアプリでカラー化してみました。

確か黄色い機体だったように記憶しています。カラー化された機体も黄色になりました。

Rhm_20201027160701

R-HMは1973年(昭和48年)に交通博物館から新立川飛行機へ返還されました。それ以降は保存されていましたが、同社の90周年記念事業として2013年に機体の修復が行われ、2014年4月に展示公開されました。

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2020年10月26日 (月)

Windows 10 リモートデスクトップ接続でマウスカーソルが表示されない|マウスキーの設定

 Googleリモートデスクトップ接続でMac Book ProからWindows 10デスクトップパソコンに接続したところ、マウスカーソルが小さな点で表示されてしまう症状に遭遇しました。マウスの設定でマウスカーソルのサイズを特大にしてみたところ、矢印のカーソルは表示されるようになりましたが、リンクなどにマウスカーソルを合わせたとき、マウスの形状が矢印から変化しません。

 いろいろ調べてみたところデスクトップパソコンにマウスが接続されていないのが原因でした。このパソコンはリモート接続でしか使わないので、マウスもキーボードも接続していなかったのです。どうやらWindows 10がタブレットモードになっていたようです。

 次の手順で解決することができました。

  1. スタートメニューから「Windowsシステムツール」を開き、コントロールパネルを起動します。
  2. コントロールパネルの表示方法が「カテゴリ」になっていることを確認し、「コンピュータの簡単操作」をクリックします。
  3. 「コンピュータの簡単操作センター」を開きます。
  4. 「マウスを使いやすくします」を開きます。
  5. マウスをキーボードで操作するのカテゴリににある「マウスキー機能を有効にする」のチェックボックスをONにします。
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マウスを使いやすくしますの設定ダイアログボックス

 以上でマウスカーソルが正常に動作するようになります。 

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2020年10月25日 (日)

ブルーインパルス 八王子市 市制100周年記念 (2017年9月16日)

 3年前の写真になりますが、八王子市 市制100周年記念のブルーインパルスの展示飛行の写真です。カメラのメモリを整理していたら出てきました。お蔵入りになっていました。

 ブルーインパルスは前日の15日にもやってきて予行練習を行いました。当日は残念ながら雲が低空にまで張り出し、アクロバット飛行はできず、飛行機雲を出しながら八王子上空を行ったり来たりするだけでした。

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それでも隊列を組んでの飛行は見応えがあります。

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綺麗に整列して飛行します。

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先頭の編体調が操縦する一番機を拡大してみました。パイロットがかろうじて写っています。

4

前日の予行はアクロバット飛行ができていたようです。

八王子市市制100周年記念行事 ブルーインパルス前日予行 2017年9月15日

トミカ トミカプレミアム 22 航空自衛隊 T-4 ブルーインパルス

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2020年10月23日 (金)

アオサギ参上

遠い空から現れた。青い身体でひらりと羽ばたく大きな翼。

アオサギは全長88 - 98センチメートルで翼開長150 - 170センチメートルにもなります。

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アオサギはゆく〜♪

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アオサギ参上

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蒼鷺

蒼鷺は天然記念物でも絶滅危惧種でもないためあまり注目されることはない鳥ですが、その姿を見たという人はあまりいないのではないでしょうか?それもそのはず、蒼鷺はとても警戒心が強く、ちょっとでも人の気配がするとすぐ飛び立ってしまうのです。初めて知るこの優美な姿にきっと魅せられることと思います。

出版社 ‏ : ‎ 共同文化社; A4 横長版 (2017/6/20)
発売日 ‏ : ‎ 2017/6/20
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本(ソフトカバー) ‏ : ‎ 80ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4877392998
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4877392994

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2020年10月22日 (木)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

 青函連絡船「津軽丸」は神奈川県の浦賀重工業浦賀造船所(通称・浦賀ドック)で造船されました。昭和38年5月24日に起工し、同年11月15日に進水式が行われました。この写真は進水式の時のものです。

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日
青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日

 津軽丸就航前は戦中や戦後に造船された粗悪な連絡船が就航していました。青森-函館間も4時間30分を要していました。青函連絡船の輸送力の強化を目的に機械化され自動化された船が建造されることになりました。これにより所用時間も3時間50分となりました。造船された最初の一隻が津軽丸となりました。

 上の写真には次のようなコメントが入っていました。

青函連絡船 ”津軽丸” 進水式

出来得る限り機械化され北海道と本州を結ぶかつての旧連絡船に代わって役目を果たす。

六隻発注のうちの第一船である。

"神奈川県浦賀ドックで写す"

 六隻発注とありますが、この六隻とは八甲田丸・松前丸(2代)・大雪丸(2代)・摩周丸(2代)・羊蹄丸(2代)のことです。これらの連絡線は昭和40年(1965年)8月までに就航しています。その後、青函航路の輸送の需要が高まったため、国鉄は1965年10月にもう一隻を追加発注し、1966年11月に十和田丸(2代)が就航しました。津軽丸を合わせて、これら七隻の連絡線は「津軽丸型」と呼ばれました。津軽丸は1982年(昭和57年)3月に引退しました。その後、六隻の船は「八甲田丸型」と呼ばれるようになりました。

 1904年(明治41年)3月に開業した青函連絡船は、1982年(昭和57)に東北新幹線開通、1987年4月に国鉄民営化を経て、1988年9月に廃止となり、84年の歴史に幕を閉じました。

光と色と Color Images|白黒写真をカラー写真にするアプリで紹介されているアプリでカラー化してみました。

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日 AIカラー化
 青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日 AIカラー化

次の写真は津軽丸の左手前に設置してあった進水式の看板をカラー化したもです。

青函連絡船「津軽丸」進水式の看板 AIカラー化
青函連絡船「津軽丸」進水式の看板AIカラー化

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2020年10月21日 (水)

この問題の答えは?|国語

 答えを知っている人もたくさんいると思いますが、知らない人もいると期待して出題します。

さて、次のように3文字の単語が続いていますが、最後の◯◯◯には何という単語が入るでしょうか。

Photo_20201021174601

 ヒントは食べ物なのですが、「煮付け」ときたら「焚き火」の後に来る食べ物はあれしかない?

おこし

煮付け

焚き火

◯◯◯

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2020年10月20日 (火)

函館の八幡坂

 北海道函館市の八幡坂です。函館山の麓から真っ直ぐ港に通じる坂です。その港は現在は観光スポットとなっている赤煉瓦倉庫街があるところです。真正面に青函連絡船記念館摩周丸が見えます。

八幡坂(北海道函館市)
八幡坂(北海道函館市)

 八幡坂は観光地から函館山の麓まで一気に登ってくることができる坂です。坂を登り切った正面には北島三郎さんの出身校の函館西高校学校があります。坂を登って右の方(写真では左の方向)に行けば旧函館区公会堂や箱館奉行所跡のある元町公園、左の方向(写真では右の方向)に行けばハリストス正教会などがあり、さらにその先にはロープウェイ乗り場があります。

 八幡坂の名前はこの坂の上に函館八幡宮があったことに由来します。函館八幡宮は明治の大火で焼失したため、現在は谷地頭に移設されています。函館山の麓には、八幡坂の他にも真っ直ぐな広い坂道がたくさんあります。函館は昔からしばしば大火があり、これらの坂には延焼を防ぐ目的もあったようです。

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2020年10月19日 (月)

北海道新聞社銀座ビル(旧東京支社)昭和39年

北海道新聞社の旧東京支社は銀座7丁目6−1にありました。この写真は昭和39年に北西側(並木通りと交詢社通りの交差点)から撮影したものです。手前に写っている男性は当時の社員です。

北海道新聞社銀座ビル(旧東京支社)昭和39年
北海道新聞社銀座ビル(旧東京支社)昭和39年

 自分も子どもの頃に何度か訪れたことがありますが、建物の色は茶色だったような記憶があります。ということでいつもの通り、

光と色と Color Images|白黒写真をカラー写真にするアプリで紹介されているアプリでカラー化してみました。

 茶色に再現されました。どんな茶色だったかは記憶にはないのですが、実際のところどうだったのでしょう。記憶が曖昧です。

北海道新聞社銀座ビル(旧東京支社)昭和39年 AIカラー化
北海道新聞社銀座ビル(旧東京支社)昭和39年 AIカラー化

 さて、この建物は2018年に解体されて、新しいビルが建築されています。同じ場所からGoogle Mapのストリートビューで見ると現在はこちらのようになっています。

北海道新聞社銀座ビル(旧東京支社)の跡地
北海道新聞社銀座ビル(旧東京支社)の跡地

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2020年10月13日 (火)

レトロなペダルカーに乗る子ども(昭和42年)

 昭和42年撮影のペダルカーに乗っている子どもの写真です。この記事の題名は「レトロなペダルカーに乗る子ども(昭和42年)」としましたが、写っている子どもたちにとってはレトロではなく最新の玩具だったに違いありません。

 ペダルカーというのは、ペダルを漕ぐことによって前進するブリキ製の自動車の玩具です。三輪車と同様に、子どもが漕ぐとなかなかのスピードが出ます。

 手前の子どもが乗っているのが、モーリー社のスモールバードというペダルカーです。後ろの子どもが乗っているペダルカーはどこのものかわかりませんがジャガーによく似ています。フロントウィンドウがついていてます。右側についているのは警笛でしょうか。

Photo_20201013162801

このペダルカーは両方とも赤色です。

光と色と Color Images|白黒写真をカラー写真にするアプリで紹介されているアプリでカラー化してみました。

少し燻んだ色になっていますが、赤色に再現されました。

Photo_20201013162802

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2020年10月12日 (月)

サンフランシスコの五重塔

 サンフランシスコのジャパンタウンには五重塔があります。1968年にジャパンセンターが建設されたときに、日本からサンフランシスコ市に親善のため贈られたそうです。

Photo_20201012094801

 

 この五重塔はたいへん簡単な構造で、円盤が重なったような形をしており、日本風とは言えません。しかしながら、「この平和の塔は日本の人々から友情のしるしとして贈られた」と書いてありました。たぶん、五重塔を造るための寄付金が贈られ、現地で建設したのではないでしょうか。

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2020年10月10日 (土)

浅草寺の五重塔

 浅草寺の五重塔は慶安元年(1648年)に建立されました。1648年というと、徳川3代将軍家光の最後の方の時代です。家光は1651年に死去し、その年から4代将軍家綱の時代に入ります。 現在の五重塔は昭和48年(1973年)に再建されたものです。その高さは48 mもあります。

浅草寺の五重塔
浅草寺の五重塔

 浅草寺の五重塔は大正12年(1923年)の関東大震災の際には、倒壊しませんでしたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲によって焼失してしまいました。もともとの五重塔は本堂の東側にあったそうですが、再建されたこの塔は西側に建てられました。東側には、地面に塔の跡を記した10 cm四方の「塔」と一文字だけ書いた小さな文字盤があります。探してみるのも面白いかもしれません。現在の五重塔も、なかなか昔の雰囲気を漂わせていますが、鉄筋コンクリートで造られているそうです。

 ちなみに日本でもっとも古い五重塔は、奈良県の法隆寺の五重塔です。国宝であり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。法隆寺は今から1400年ほど前の推古15年(607年)に、推古天皇と聖徳太子によって建立されたと言われています。法隆寺の五重塔はおよそ1300年ほど前に建立されたものと考えられています。

 五重塔は、ひとつひとつの階を別々に作り上げ、それを重ねあげて建てます。木材と木材は強固に結合されているわけではなく、切り込みでつながっているだけですが、これが揺れに強い理由と考えられています。塔がゆれると、それぞれの階が揺れを吸収するように揺れるのだそうです。

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2020年10月 9日 (金)

お婆さんの長男は一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵

 一〇〇式司令部偵察機(キ64)は第二次世界大戦当時の日本陸軍の司令部偵察機です。昭和14年(1939年)に初飛行し、昭和16年(1941年)から実戦配備され、終戦の昭和20年(1945年)まで使用されました。

 司令部偵察機の任務は、できるだけ迅速に目的地に到着し、偵察および現場の空撮を行い無事に戻ってくることです。そのため高度4000〜6000メートルで最高速度時速600キロメートル以上の性能が求められました。当時の飛行機で最大速度時速600キロメートルは非常に厳しい要求でした。開発・製造担当の三菱重工業は要求される性能を達成するべく、開発を進めました。三型(キ46-III)は高度6000メートルを時速630キロメートルで飛行することができました。

一〇〇式司令部偵察機(キ64)
一〇〇式司令部偵察機(キ64)

 このブログで紹介した「農家のお婆さん 昭和40年頃(1965年頃)」。彼女の長男はカメラと写真そして機械が大好きだったそうです。末っ子の弟を連れ出して、写真を撮影したり、真っ暗な納屋の中で現像をしていたようです。彼女は長男には農業に専念してもらいたかったようで、いつもカメラや写真で飯は食えないと小言を言っていたようです。

 いつの間にか、親子の確執もできていたのかもしれません。やがて長男は農家を継ぐこともなく家を出ていきました。そして、彼が行った先は陸軍でした。長男はカメラ・写真・機械の技術をもっていたことで、すぐに陸軍に採用されたようです。やがて、一〇〇式司令部偵察機の後部座席の偵察兼通信兵となり、東南アジアに赴任しました。戦局が悪くなり、遠い地で帰らぬ人となりました。

 お婆さんは長男からの手紙を大事にしまってありました。その手紙の中にあったのが次の写真です。日本刀を手にした凛々しい若者が写っています。いつ撮影したものかわかりませんが、おそらく終戦間近に戦地で撮影したものと思います。

一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵
一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵

 光と色と Color Images|白黒写真をカラー写真にするアプリで紹介されているアプリでカラー化してみました。

 白黒写真では勇しく見えましたが、カラー写真では優しい顔に見えます。少し寂しそうな表情にも見えます。

一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵(カラー化)
一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵(カラー化)

 一〇〇式司令部偵察機に何度も乗って、現地を偵察し、空撮したのでしょう。しかし、彼が亡くなったのは機上ではなかったと伝えられています。戦局が悪くなり、司令部の基地に敵機がやってくるようになったそうです。一〇〇式司令部偵察機はとても貴重な飛行機です。事前に来襲がわかっていれば、敵機がやってくる前に離陸して基地から離れることができたでしょう。しかし、あの日は間に合わなかったといいます。一〇〇式司令部偵察機を隠そうとしていたところを襲撃されたようです。

 お婆さんには、遺骨は戻らず、わずかな形見と手紙と写真だけが手元に残りました。お婆さんが長男のことを語ることはあまりなかったようです。

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 しばらく経過して、昭和30年ぐらいのことでしょう。長男にカメラや写真の楽しさを教わっていた末っ子は新聞社のカメラマンになりました。お婆さんは、長男が変なことを教えたから、カメラや写真などという先がわからないような職業を選んだと、末っ子の行く末を嘆いたそうです。

 しかし、日本は戦後の復興を果たし、東京タワーの建設、新幹線の開通、東京オリンピックなど報道カメラマンが活躍する時代になっていたのです。お婆さんの予想は外れ、末っ子はお婆さんの自慢の息子になったそうです。

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