豊臣秀吉の京都新城が出土
京都御苑の敷地内で豊臣秀吉の「京都新城」が出土したというニュースが流れています。
京都新城は、秀吉が最晩年に嫡子の秀頼のために京都御苑の京都仙洞御所があるあたりに築城した東西400メートル、南北800メートルにわたる規模の平城です。この平城の記録はあまり残っていないことから「幻の城」と呼ばれていますが、実在していたのは確かです。
残っている数少ない記録によると、この平城は1597年(慶長2年)1月に普請が始まりました。5月に秀吉が築城を直接監督しており、6月の終わりには完成していたと思われます。同年9月に秀吉と秀頼が移り住み、秀吉が城主となりました。9月末に秀頼が従三位左近衛権中将となると、秀吉は城主を秀頼に譲り、この城から退去しています。この平城は太閤御屋敷などと呼ばれていましたが、秀頼が城主になると、秀頼卿御城などと呼ばれるようになりました。
1598年(慶長3年)8月に秀吉が隠居先の伏見城で死去すると、秀頼は豊臣家の家督をついで大阪城に転居しました。関ヶ原の合戦(慶長5年、1600年10月)の約2年前のことです。
秀吉が死去したあとの豊臣政権では徳川家康が五代老の筆頭となりました。秀吉は秀頼が成人するまで政務は家康に任せるという遺言を残しています。これらのことから徳川家康は大阪で政務を執るため1599年(慶長4年)9月に大阪城の西の丸に入りました。このとき、秀吉の正室の高台院(北政所)がこの平城に転居しました。以後、この平城は高台院屋敷などと呼ばれました。
関ヶ原の合戦の前に、高台院屋敷が城として利用されるのを避けるため、堀や石垣など防御のための施設が撤去されました。当時の記録が一切残っていないため、この城がどのような構造をしていたのかは謎となっており、幻の城と呼ばれる所以でもあります。
高台院は関ヶ原の合戦以降も、ここに住み続けましたが、屋敷の規模は次第に縮小していったようです。1602年(慶長7年)には一部が取り壊され、二条城へ移動されたという記録も残っています。1623年(寛永元年)に高台院が死去すると、高台院の甥の木下利房が居住しました。なお、木下利房は秀吉とは血のつながりはありません。
1626年(寛永4年)に後水尾天皇の譲位を受けて、この屋敷は解体され、仙洞御所(太上天皇・太上法皇・上皇の御所)が建設されました。この京都の仙洞御所の正式名称は桜町殿といいます。桜町殿の建設により、屋敷は完全に解体され、その跡には全く残っていませんが、西本願寺の飛雲閣をはじめとする施設がこの屋敷から移築されたものという説があります。
今回の京都新城の出土は、消化設備の設置に合わせて、仙洞御所の敷地の一部を調査していたところ、8メートルにわたる石垣が見つかったことがきっかけとなったようです。周辺からは豊臣家の桐の家紋や金箔瓦も出土したころから、豊臣秀吉の幻の城「太閤御屋敷」「秀頼卿御城」「高台院屋敷」の跡であると結論づけられました。
なお「京都新城」は現在の呼称です。そのため、当時を舞台とした小説やテレビドラマを見ても、「京都新城」という呼び方は出てきません
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