二宮忠八 日本初の模型プロペラ飛行器を飛ばした男(明治24年 1891年4月29日)
ライト兄弟が世界で初めて動力飛行機で有人飛行に成功したのは1903年のことでした。その14年前の1891年に日本でゴム動力付きの模型のプロペラ飛行機の飛行を成功させていた日本人がいます。彼の名前は二宮忠八。
二宮忠八
二宮忠八は1866年に伊予国(愛媛県)で生まれました。裕福な家に生まれましたが、12歳のときに父親を亡くし、その後は困窮した生活を送りました。忠八は家計を助けるために働きながら、勉学に励んだそうです。凧揚げに興味をもち、独特な形をした「忠八凧」を考案しました。この自作の凧は評判となり、収入の助けになったようです。
忠八は1887年、21歳のときに徴兵されて、軍に入隊します。1889年に行われた野戦訓練のとき、昼食をとっていたところ、翼をはばたくことなく空を滑空するカラスを見て、翼でうっまく風を受け止めることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えました。つまり、このとき忠八は飛行機の原理を思いついたのです。
それ以降、忠八はどのようにしたらうまく空を飛べるか研究を行い、ついにカラス型飛行器を完成させました。カラス型飛行器はゴム動力のプロペラ飛行機で、全長35 cm、翼長45 cmの模型飛行機です。そして、1891年4月29日、忠八の模型飛行器は10 mの飛行に成功しました。模型飛行機とはいえ、日本初のプロペラ飛行機を成功させた瞬間でした。
その後、日清戦争に赴いていた忠八は、飛行器の有用性について、軍の上司に説明し、有人の飛行器の開発を上申しましたが、残念ながら却下されてしまいました。
忠八は、軍は飛行機に興味がないと判断し、退役して自身で飛行器の研究を行うことにしましたが、十分に資金を集めることができませんでした。
そうしている間の1903年、ついにライト兄弟が有人飛行機の飛行に成功します。このとき、ライト兄弟の飛行成功のニュースは日本に伝わらなかったため、忠八は飛行器の研究を続けていました。
やがて、資金の目処がつくようになると、1908年頃に、飛行器の本格的な研究を再開します。動力としてガソリンエンジンを採用することにしました。しかし、当時のガソリンエンジンには、飛行機を飛ばすだけの十分な馬力を持つもはありませんでした。玉虫型飛行器と名付けた機体を完成させていた忠八は、自作のエンジンを開発に着手しようとしましたが、このときライト兄弟の飛行機のことを知り、飛行器の開発を断念し、その後は食塩メーカーのマルニを創業しました。
忠八は、晩年は飛行機事故で死亡した人々を慰霊し、航空の安全を願う、飛行神社を設立しています。
二宮忠八は有人の動力飛行機を完成させることはできませんでしたが、彼の理論は正しかったことが認められています。近年、忠八の功績が見直され、日本の航空機の父と呼ばれています。
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