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2007年8月 9日 (木)

YS-11が機械遺産に認定

 社団法人日本機械学会が創立100周年の記念事業として、『歴史に残る機械技術関連遺産を大切に保存し、文化的遺産として次世代に伝えることを目的に、日本国内の機械技術面で歴史的意義のある「機械遺産」(MechanicalEngineering Heritage)を認定』したそうです。

 25件が機械遺産として認定されたようですが、その中に、戦後初の国産プロペラ旅客機YS-11も認定されています。

 国内ではYS-11は2006年9月30日のフライトを最後に旅客機としては既に引退していますが、本当に優秀な飛行機だったと思います。下の写真は2003年の年末に鹿児島空港で撮影したJACのYS-11です。

JAC YS-11(鹿児島空港 2003年撮影)
JAC YS-11(鹿児島空港 2003年撮影)

 YS-11の開発が構想されたのは1956年(昭和31年)です。戦後、連合軍の支配下にあった日本は航空禁止令が発動されていました。その頃、使われていたのはDC-3型というダグラス社の飛行機でした。

 このDC-3は海軍の命令で昭和飛行機工業という会社が(立川の昭和基地のそば)、ダグラス社とライセンス契約を結び、日本でライセンス生産していたという経緯があります。日本海軍はこの飛行機を1940年に零式輸送機として採用していました。真珠湾攻撃が1941年です。日本とアメリカは戦争に入りますが、アメリカ生まれの飛行機が日本海軍の飛行機として利用されていたのです。

 第2次世界大戦後、日本で旅客機として活躍していたDC-3が老朽化していくなかで、航空禁止令が解除されると、日本の通産省は国産の中型輸送機の開発・製造に着手することを決めました。1945年の終戦から実に11年ぶりの国産飛行機の開発でした。通産省は「日本の空を日本の翼で」という宣伝を行いましたが、11年もブランクがあって、独自で飛行機が作れるのかという声もたくさんあり、なかなか計画は現実のものとはならなかったのです。通産省は国産飛行機の開発の重要性を訴え続け、ようやく1957年に開発に着手することができることになったのです。通産省は1957年に東京大学に輸送機設計研究協会という財団法人をつくります。

 設計には第二次世界大戦中に使われた陸海軍の優秀な戦闘機を設計した技術者が加わりました。零戦を設計した堀越二郎、隼を設計した太田稔、飛燕を設計した土井武夫、二式大艇を設計した菊原静男です。

 輸送機設計研究協会はさっそくYS-11の設計に取り組み、1958年に実物大模型(モックアップ)を展示したりしています。しかし、このモックアップは空を飛ぶ飛行機にはほど遠く、こんな飛行機を作りましょうという宣伝に過ぎなかったのです。

 実は自分の手元に大変めずらしい古本があります。だいぶ薄汚れていますが、「世界に誇る 国産技術の粹」という本です。これは1958年に行われた「第5回 日本工業技術展」の目録で、展示会で発表されたさまざまな産業分野の新技術、新製品が紹介されています。

「世界に誇る 国産技術の粹」(昭和33年 1958年)
「世界に誇る 国産技術の粹」(昭和33年 1958年)

 この目録の中に、送機設計研究協会が発表したYS-11の参考出品の資料があります。この資料には国産中型輸送機YS-11(参考出品)とありますが、これは先に述べた実物大模型ができる前のことです。何が参考出品されたのかわかりませんが、紙面にはYS-11の仕様と外観図が掲載されています

YS-11「世界に誇る 国産技術の粹」(昭和33年 1958年)
YS-11「世界に誇る 国産技術の粹」(昭和33年 1958年)

 1959年になると、政府と民間企業による日本航空製造株式会社が設立されました。そして、日本航空機製造で、YS-11の開発と製造が進められたのです。そして、ついに1962年7月11日にYS-11の試作第一号機が完成、同年8月30日に初飛行を成し遂げました。

 しかし、YS-11は操縦がしにくいという欠点がありました。その問題を解決するために長い時間が費やされました。国内の航空会社に納入されたのは、2年後の1964年のことでした。1965年、YS-11は国産旅客機として、多くの日本人を運ぶことになりました。

 その後、YS-11は輸出も行われるようになり、全部で182機製造されましたが、赤字が重なり1973年には製造中止となりました。日本航空機製造はその後、アフターサービスなどを行っていましたが、事業を民間に移管し、1983年に解散しました。

 2006年年9月30日、YS-11は国内の旅客機としては日本の空からその姿を消しました。しかし、YS-11はその後も日本の空を飛び続けました。自衛隊や海上保安庁で現役で飛んでいたのです。

 その後、しばらくの間は東京モノレールの「整備場」駅近くの海上保安庁第三管区海上保安本部羽田航空基地でYS-11を見ることができました。下の写真の反対を向いている右下の飛行機(LA YS11A)です。海上保安庁のYS-11は2011年に退役しています。ちなみに左上の横を向いている飛行機はLAJ ガルフVです。

海上保安庁のYS-11
海上保安庁のYS-11

 2021年3月17日、ダートサウンドと呼ばれた当時のオリジナルエンジンを搭載した航空自衛隊のYS-11FC飛行点検機が運用終了となりラストフライトを迎えました。

ハセガワ 1/144 YS-11 試作1号機/2号機 プラモデル 10836

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「零戦が飛んだところを見たことがある」と言うと、みなさん嘘だと思うようです。 まあ、私が幼少の時のこと、それも昭和53年のことだから当たり前かな。 でも、見たという証明するものを見つけました。 この零戦は、終戦の後、どこかの島で発見され、機体がしっかりして..... [続きを読む]

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