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ココログピックアップで紹介されました(2020年10月23日)


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2021年7月31日 (土)

NASA月面探査機ルナ・プロスペクター運用終了(1999年7月31日)

 冷戦期の米ソの宇宙開発競争は米国がアポロ計画で人類を初めて月面に降り立たせたことによって終焉しました。この後、月面探査はほとんど行われなくなりましたが、NASAはアポロ計画で調査しなかった月の高緯度を含む月面全体の調査を行い資源を見積もる計画を立てました。しかし、この計画に予算がつくことはなく実行に移されることはありませんでした。

 1992年、NASAと弾道ミサイル防衛局は共同で月面探査を計画し、1994年1月25日に月面探査機クレメンタインがヴァンデンバーグ空軍基地からタイタン23Gロケットで打ち上げられました。このクレメンタインの月面探査により、月の南極のクレーターの内側に水が存在する可能性を示すデータが得られました。アポロ計画最後のアポロ17号が打ち上げられたのが1972年ですから、実に22年ぶりの月面探査となりました。

 月面に基地を作った際、水は重要な物資のひとつです。もし月面に大量の水が存在するのであれば、水を地球から運ぶ必要がなくなり、月における人類の活動の可能性が高まります。また、その先には月面の資源の探査も可能となります。さらに、月の地殻活動や月の内部構造に関するデータを収集する目的も加えられました。

 1998年、NASAはこれらの調査の目的のためルナ・プロスペクター計画を立ち上げ、 同年1月7日に月面探査機ルナ・プロスペクターがケープカナベラル空軍基地から アテナIIロケットで打ち上げられました。ルナ・プロスペクターは約4日後に月に到着し、月の北極と南極の上空を通過する高度100キロメートルの軌道を周回し始め、様々な測定機器で月面のデータを収集しました。同年3月、月の極地に水素が存在する観測データが得られたことが公表されました。その後の詳細な調査の結果、同年9月に月の両極には最大60億トンの水が存在する可能性があることがサイエンス誌で報告されました。

月面探査機ルナ・プロスペクター
月面探査機ルナ・プロスペクター

 ルナ・プロスペクターは1999年7月31日に月面探査の最終ミッションとして月の南極のクレーターに衝突し、その役割を終えました。最期のミッションはルナ・プロスペクターの衝突の衝撃により、月面に存在する氷を蒸発させることで水そのものを直接観測できるようにすることでした。この衝突に合わせてハッブル宇宙望遠鏡と地球の天文台が観測データを収集しましたが、水は観測されませんでした。

 ルナ・プロスペクターでは水は観測されませんでしたが、その後の月面探査によって月面には大量の水が存在していることがわかっています。現在、米国、ロシア、日本、中国、インドが月面基地の建設計画が発表されいます。当初は現実性に乏しいものでしたが、月面探査の競争は次第に激しくなりつつあります。

 米国は2019年に2024年までに最初の女性と次の男性を月面に着陸させることを目標としたアルテミス計画を発表しています。月着陸船の開発・運用はスペースX社が担当することになっています。目標地は月の南極付近のようですから、水の探索が視野に入っているでしょう。ある程度の大きさの月着陸船を着陸させ設置することができれば、次回の月面着陸の際に再利用可能な月面基地になるかもしれません。また、また月着陸船を繰り返し月面に送り込んで接続していけば大規模な月面基地が完成するかもしれません。水をうまく利用できれば酸素を得ることも可能です。人類が長期間滞在できる月面基地が建設される日はそう遠くない未来かもしれません。

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2021年7月30日 (金)

大正時代始まる(1912年7月30日)

 1912年(明治45年)7月30日、 明治天皇が崩御し皇太子嘉仁親王が即位したことによって改元され元号が大正となり、ここに大正時代が始まりました。大正は中国儒教『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)に由来します。これは「すべて滞りなく順調に運び正しさを得る」という意味です。

 大正はわずか1926年12月25日まで15年間で日本史上で最も短い時代でしたが、「大正デモクラシー」や「大正ロマン」など時代の移り変わりを象徴する出来事がありました。

 大正デモクラシーは政治や社会や文化における民主主義化や自由主義化への動きを表す言葉です。日本の議会で初めて選挙が行われたのは明治23年(1890年)の衆議院選挙でした。以来、選挙権を有するのは年齢満25歳以上の男子で1年以上15円以上の直接国税を納めている者に限られていました。また被選挙権を有するのは年齢満30歳以上の男子で1年以上15円以上の直接国税を納めている者に限られていました。

 大正7年(1918年)に米騒動と大正18年(1919年)のパリ平和会議をきっかけとして普通選挙制度の導入の機運が高まり、デモクラシーという言葉が流行しました。大正末期の大正14年(1925年)に普通選挙法が成立し、納税要件が撤廃され満25歳以上の男子に選挙権、満30歳以上の男子に被選挙権が与えられました。しかし、このときは女性参政権は認められず、女性の参政権が認められたのは第二次世界大戦後の1945年でした。

 大正ロマンには大正時代に始まり発展した思想や大衆文化の出来事を表す言葉です。19世紀にヨーロッパで進んだロマン主義の影響を受けて、大正時代の民主主義化や自由主義化による新しい時代の流れの中で大正ロマンと呼ばれるようになりました。

 大正時代には都市化が進み交通網が整備され、蓄音や活動写真の登場、電話や電報の発達、新聞や雑誌の普及によって、人々の交流や情報の伝達が飛躍的に進みました。民衆ならびに女性の地位向上への取り組み、西洋文化の影響を受けた芸術の発展し、それに自由主義的思想が相まって大衆文化が花開きました。この頃から職業婦人が登場し、洋服に断髪で働く女性たちはモダンガールと呼ばれました。

東京駅前丸の内側から皇居をのぞむ(大正9年 1920年)
東京駅前丸の内側から皇居をのぞむ(大正9年 1920年)

 大正時代の経済の発展の背景には1914年(大正3年)7月から1918年(大正7年)11月にかけて起こった第一次世界大戦があります。当時、東洋の大国となっていた日本に同盟国イギリスから誘いがあり、日本は大正3年(1914年)8月に参戦しました。日本は世界的な品不足を解消する生産拠点となり、工業が発展し近代化が進みました。これによって日本経済は好景気となりました。

 しかし、戦後は需要に対して供給が過剰となり、不況に陥りました。また大正7年(1918年)から1920年にかけてスペイン風邪が大流行し、大正12年(1925年)には関東大震災によって首都東京が大打撃を受けました。関東大震災によって東京のインフラは最整備され、近代都市へと発展する機会となりました。

 大正時代、わずか15年の間に日本の政治や文化は大きく変革し、近代化が進んで人々の生活が様変わりした時代となったのです。

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2021年7月29日 (木)

パリのエトワール凱旋門が完成(1836年7月29日)

 フランス、パリのエトワール凱旋門はシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場の中心にあります。この広場はセーヌ川の右岸にあり、12本の放射状の大通りからなる12角形の中心にあります。この形が輝く星(エトワール、フランス語)に見えることから、この広場はエトワール広場(星の広場)と呼ばれていました。現在は広場の名称はシャルル・ド・ゴール広場に変更となっていますが、凱旋門は今もなお「エトワール凱旋門(Arc de triomphe de l'Etoile)」と呼ばれています。

 エトワール凱旋門はナポレオン・ボナパルトがアウステルリッツの勝利を称えるため1806年に建設を始めました。フランスの建築家ジャン・フランソワ=テレーズ・シャルグランがイタリア、ローマの「ティトゥスの凱旋門」を模範とし設計しました。基礎工事に2年を要し、1810年にナポレオンが皇后マリア・ルイーザを伴ってパリに入ったときには凱旋門はできておらず木製のモックアップのアーチを作らせました。 ジャン・シャルグランが1811年に死去したため、ジャン・ニコラ・ユイットが建設を引き継ぎました。

 ナポレオンが退位した後、工事は順調に進まず、ブルボン朝(ルイ王朝)の時代には工事が中断されました。エトワール凱旋門が落成したのは、オルレアン朝のルイ・フィリップ王の時代の1836年7月29日のことでした。

 1840年12月15日、ナポレオンが埋葬されていたサン・ヘレナからパリに改葬されるときにエトワール凱旋門をくぐりました。ナポレオンが建設を開始してから34年後のことでした。

1840
凱旋門ナポレオンの帰還(1840年)

 エトワール凱旋門はフランス革命戦争とナポレオン戦争でフランスのために戦いによって命を落とした人々を称えています。その内部と外部にはフランスの戦勝と将軍の名前が刻まれています。またアーチの元には第一次世界大戦で亡くなった戦士の墓があります。

 エトワール凱旋門の全体の大きさは高さ50 m、幅45 m、奥行き 22mで、丸天井は高さ29.19 m、幅14.62 mあります。大きなアーチは高さ29.19 m、幅14.62 m、小さなアーチは高さ18.68m、幅8.44mです。1938年にメキシコシティに完成した高さ67メートルの「革命記念塔」が完成するまで世界で最も高い凱旋門でした。 

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2021年7月28日 (水)

貝の中に貝殻

 二枚貝の酒蒸しを食べていたら、開いていない貝がありました。開けてみたら、貝殻が入っていました。

貝の中に貝殻
貝の中に貝殻

 中の貝を取り出してみました。貝の中から貝が出てくることは稀にあるようですが、貝殻の半分がありませんでした。貝は固く閉じていたので料理をしているうちに別の貝の貝殻が入り込んだとも思えません。

貝の中の貝殻
貝の中の貝殻

オリヒロ DPA+DHA+EPA+VitaminE 120粒

[シールオイル(DPA)] シールオイル(DPA)とはアザラシの油のことです。かつてエスキモーと呼ばれた人々は、魚やオットセイ、アザラシなどを主に食べていたにもかかわらず、彼らは健康でした。このことで多くの研究者が研究を続けたところ、魚やアザラシの油には人体に必要不可欠な必須脂肪酸の中のオメガ-3系脂肪酸が豊富に含まれていることがわかりました。 [EPA] イコサペンタエン酸。EPAは魚の脂肪に多く含まれる不飽和脂肪酸です。すじこ、ハマチ、イワシなどに多く含まれています。EPAは体内でつくることができない必須脂肪酸で食品からとらなければならない栄養素です。 [DHA] DHAとは、ドコサヘキサエン酸のこと。DHAは魚の脂肪に多く含まれる不飽和脂肪酸です。すじこ、ハマチ、イワシなどに多く含まれています。DHAは体内でつくることができない必須脂肪酸で食品からとらなければならない栄養素です。

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2021年7月27日 (火)

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

 1930年台、英国と米国は世界各地の民間航空路の開拓で覇権争いをしていました。しかし、第二次世界大戦によって休止せざるを得なくなりました。第二次世界大戦の連合により、英国は大型の爆撃機、米国は輸送機を生産することになりました。

 米国の輸送機は旅客機の設計を元に生産されましたが、英国の爆撃機は爆撃機として設計され生産されました。これは第二次世界大戦終結後に再開するであろう民間航空路の開拓および旅客機の生産の競争において、英国が米国に遅れをとることを意味していました。

 英国は米国との競争に打ち勝つために1942年12月に民間旅客機の需要を調査する目的でブラバゾン委員会を設立しました。1944年に航空機メーカーに対して新型の旅客機のタイプ1からタイプ4までの4つのプランが開示されました。

 この中でもタイプ4の旅客機は大西洋横断を可能とする郵便用のジェット輸送機のプランでした。このプランに対して名乗りを上げたのが英国で初めてジェット戦闘機の開発に成功したデ・ハビランド社でした。同社はタイプ4のプランを元に大型のジェット旅客機の開発に挑戦することを表明し、1946年9月から国家プロジェクトとして開発を進められました。

 当初は無尾翼のDH.108試験機が開発されましたが、試験飛行中に墜落してしまいました。これによって試験機のパイロットだったデ・ハビランド社の社長ジェフリー・デ・ハビランドの息子が死亡し、ジェット旅客機の開発は社をあげての目標となりました。

デ・ハビランド社 DH.108型
デ・ハビランド社 DH.108型

 新型の旅客機の機体は実績のある後退翼に変更され、エンジンは自社製ターボジェットエンジンを採用することになりました。このエンジンは実績がありましたが、旅客機に採用するには十分な出力をもっていませんでした。しかし、新しいエンジンの開発には相当の年月がかかることから、計画通りのエンジンを使うことにしました。

 1947年12月に米国ボーイング社の大型の6発式ジェット戦略爆撃機B-47が初飛行に成功すると、主翼の下にエンジンを吊り下げる方法が特許となりました。そのためデ・ハビランド社は主翼にエンジンを埋め込むことにしました。

世界初のジェット旅客機の試作機
世界初のジェット旅客機の試作機

 この試作機は1949年7月27日に飛行試験が行われました。この試験飛行ではジェフリー・デ・ハビランド社長も操縦席に着きました。当時の大型旅客機はレシプロ機であり、この試作機の初飛行は世界に先駆けてのジェット旅客機の初飛行となりました。

 このジェット機はDH.106 コメットと名付けられ1951年1月に量産型の飛行機が英国海外航空に納入されました。しかし、直ちに運行開始とはならず、当時未経験だったジェット旅客機の運行に合わせた航空システムの開発が必要となりました。その開発には1年以上かかり、その間にコメットはデモ飛行で世界各国を訪れました。

 1952年5月2日、世界初のジェット旅客機の商用運航がヒースロー〜ヨハネスブルグ間を結ぶ航路で開始しました。乗客数や後続距離は従来のレシプロ機と同程度でしたが、速度が2倍となり所用時間が半減し、天候の影響を受けない高高度を飛行することができるようになると、ジェット旅客機の優位性が注目を受けるようになりました。

 コメットは就航から2年の間に5機が事故を起こしました。最初の3機は離着陸時の事故で失われましたが、幸い死者は出ませんでした。しかし、後の2機は空中分解しており、耐空証明が取り消され、運行停止処分となりました。

 その後、事故原因の徹底的な調査と機体の改善が試みられました。改良型のコメットが運行を開始した頃にはボーイング社やダグラス社など米国のジェット旅客機が台頭しており長距離路線から撤退せざるを得なくなりました。また中短距離路線の需要も次第に少なくなり、1964年に生産中止となりました。コメットは事故率が低く生産終了後もしばらくの間は使用し続けられましたが、1960年代後半に世界の空から姿を消しました。

 世界初のジェット旅客機コメットの開発と改善の挑戦はコメット自身のみならず後の航空技術の発展に多大なる貢献を果たししたのです。

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