ようこそ!「夜明け前」へ

日々の思いを、風の吹くまま気の向くままに綴ったブログです。

コンテンツはサイト内検索が可能です。


ココログピックアップで紹介されました(2020年10月23日)


Photo_20201023111301

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2020年11月29日 (日)

エジソンが蓄音機を公開(1877年11月29日)

 アメリカの発明家トーマス・アルバ・エジソンはその生涯のうちにとてもたくさんの発明をしていますが、その中でも「白熱電球」「蓄音機」「映写機」の3つは三大発明と言われています。その三大発明のうち、エジソンが「蓄音機」を発表した日が1877年11月29日です。

エジソンと自身が発明した蓄音器
エジソンと自身が発明した蓄音器

 蓄音機とは音声を録音して再生することができる装置です。エジソンが発明した蓄音機は、ホーンの先に針をつけた振動板を取り付け、その針を金属のスズ箔を張ったシリンダー(円筒)に接触させて録音するものでした。

 蓄音機の発表の日、エジソンはハンドルでシリンダーを回転させながらホーンに向かって「メリーさんの羊」を歌いました。すると声で振動板が震え、針がシリンダー表面のスズ箔に傷をつけていきました。

 歌い終えたエジソンは針と振動板を再生用のものに取りかえて、再びハンドルでシリンダーを回しました。針がシリンダー表面の傷をなぞると、振動板が震え、ホーンからさっきエジソンが歌った「メリーさんの羊」が聞こえてきました。これを聞いていた人たちは、たいへん驚き、蓄音機発明のニュースはあっという間に世界中に広がりました。

 エジソンの蓄音機の原理は、音の波形を凸凹の傷として録音し、その凸凹の傷をなぞると再生できるというものです。仕組みは違いますが、レコードや現在使われている音楽CDも同じ原理が使われています。

 ところで、エジソンの発明よりも前に蓄音機の原型とも言える重要な発明をしていた人が2人いました。

 1人はフランスのレオン・スコットという人です。彼は1857年に、音の波形を目で見ることができるフォノトグラフという装置を開発しました。フォノトグラフはラッパ状のホーンの先に豚の毛をつけた羊皮紙の振動板を取り付け、豚の毛を煤がついたシリンダーに接触させたものです。シリンダーを回転させながらホーンに向かってしゃべると、振動板が震えて豚の毛がシリンダー表面のススを削って音の波形を記録する仕組みになっています。フォノグラフは記録した波形を再生することはできませんでした。

 もう1人はフランスのシャルル・クロという人です。彼はエジソンが蓄音機を発明するわずか数ヶ月前の1877年4月に、エジソンの蓄音機と同じ録音再生機構を論文としてまとめ発表していました。彼の論文にはフォノトグラフに記録される波形を凹凸にして、その凹凸を針でなぞると音を再生できると書いてありました。しかし、実際の製品を作りあげることができなかっため、エジソンが蓄音機の発明者となったのです。

 エジソンの蓄音機は録音再生ができましたが、性能が低く、実用的なものではありませんでした。しかし、エジソンは白熱電球の発明などに力を注ぐため、蓄音機の改良をやめてしまいました。

 当時、電話の発明でエジソンとの特許紛争をしていたベル社はドイツ人のエミール・ベルリーナを雇い入れ、彼のアイデアによってエジソンとの電話の特許紛争に勝利していました。ベルリーナはベル社の開発チームと蓄音機の実用化の研究を進め、1858年に実用可能なグラフォフォンという蓄音機を作り上げました。

 ベルナーレはその後、ベル社を退職し、1887年にレコードの原型となる円盤型の蓄音機を発明しグラモフォンと名付けました。

人気ブログランキングへ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2020年11月28日 (土)

太平洋記念日(1520年11月28日)

 1519年8月10日、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼランは西回りで香料諸島(インドネシア・モルッカ諸島)へ渡航する航路を発見するためスペイン艦隊を率いてセビリアを出航しました。

フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼラン

 マゼラン艦隊はアフリカ大陸北西のカナリヤ諸島を経て南下し、同年12月13日に南アメリカ大陸東海岸のリオ・デ・ジャネイロに到着。その後、さらに南下しながら香料諸島(インドネシア・モルッカ諸島)へと通じる海峡を探索しました。

 1520年3月31日、厳しい冬を迎えた艦隊はアルゼンチンのサン・フリアン湾で越冬を開始しましたが、不満分子が反乱を起こします。反乱制圧後、マゼランは付近の探索を命じますが、しばらくの間は先を見通すことができない状況が続きました。

 1520年8月24日、マゼラン艦隊は航海を再開し、さらに南下を続け、ビルへネス岬から未知の海峡へ進入します。入り組んだ海峡を西に進み、同年11月28日、ついに太平洋へ到達しました。これを記念して、11月28日が太平洋記念日となりました。

 このとき、マゼランは大西洋に比べて太平洋が穏やかだったことから、太平洋のことをラテン語で平和な海という意味をもつ「El Mare Pacificum」と呼びました。英語ではPacific Ocean(平和な海)となり、日本語では「太平な海」と訳され、太平洋となりました。マゼラン艦隊が通過した海峡は後にマゼラン海峡と呼ばれるようになりました。

 その後、マゼラン艦隊は香料諸島をめざして西へ進みましたが、途中、セブ島周辺の島々でキリスト教の布教を行いました。島々の多くの王はマゼランに従いましたが、マクタン島の王の一人がマゼランに従いませんでした。マゼランは60人の兵士を率いてマクタン島に出撃しました。敵兵が1500人にも配備されていたにもかかわらず、マゼランは神が味方するからと突撃を命じます。多勢に無勢でマゼランたちは敗走し、1521年4月27日にマゼラン自身も戦死してしまいます。

 マゼランの死後も艦隊は航海を続け、同年11月8日に香料諸島に到着します。目的を果たした艦隊は1522年9月8日に出発地のスペインのセビリアに到着、ついに地球一周を果たしました。

 マゼラン艦隊がセビリアを出航したとき、5隻の船に270人の船員が乗っていました。セビリアに帰投できた船は1隻、船員はわずか18名でした。当時、帆船での地球一周の渡航がいかに過酷だったかがわかります。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2020年11月27日 (金)

ブルース・リーの誕生日(1940年11月27日)

 11月27日はブルース・リーの誕生日です。そして今年は生誕80周年にあたります。

 ブルース・リーは父親が広東演劇の役者であったことから、幼少の頃から子役として多くの映画に出演しています。米国で活躍していた1960年代にはテレビ番組グリーン・ホーネットに準主役で出演しました。グリーン・ホーネットは日本でも放映されましたが、日本人の多くがブルース・リーの名前を知るきっかけは、やはり1973年12月(日本公開)に公開された「燃えよドラゴン Enter the Dragon」でしょう。

 当時、自分は小学生で「燃えよドラゴン」は見ることができませんでした。近所の中学生にブルース・リーの凄さについて聞かせてもらったり、映画のパンフレットを見せてもらったりしました。当時の家庭にはビデオなどありませんから肝心の動いているブルース・リーはテレビで流れる短い映像を垣間見るだけでしたが、とにかくかっこよかったのです。そんな背景もあり、自分にとってブルース・リーは謎のベールに包まれた存在で、俳優というよりも、新しいタイプのヒーローと捉えていました。

 子どもの頃のヒーローと言えば、最初はウルトラマンやウルトラセブンなど巨大化するヒーローでした。ウルトラマンは怪獣と格闘し、飛び道具の光線技で止めを刺します。ヒーローの戦い方というのはそういうものだと考えていたら、1971年に素手で闘う等身大のヒーロー、仮面ライダーが登場しました。「とぅ」という掛け声でパンチやキックを繰り出し、必殺技もライダーキック、戦い方は格闘技そのものだったのです。

 そして、仮面ライダーにはまっていた頃に現れたのが「アチャー」という怪鳥音とともに素手で闘うブルース・リーです。仮面をつけてない仮面ライダー、人間のまま闘うヒーローが現れたみたいな印象がありました。そのうち、仮面ライダーカードと良く似たブルース・リーのカードが駄菓子屋さんで販売されるようになり、ますますヒーロー感がましていくのでした。ブルース・リーは変身しないのだろうか、そのうち変身した姿を見せるのではないだろうかと想像しました。

 「燃えよドラゴン」が大ヒットすると、その後はブルース・リーの香港時代の映画が公開されるようになりました。「ドラゴン危機一髪」(日本公開1974年4月)、「ドラゴン怒りの鉄拳」(日本公開1974年7月)、そして最後のブルール・リーとして「ドラゴンへの道」(1975年1月)が公開されました。しかしながら、一連の映画をリアルタイムで映画館で見ることはできませんでした。

 「ドラゴンへの道」から3年後に公開された「死亡遊戯」(日本公開1978年4月)は映画館で見ることができました。この頃になると、テレビで映画を見たり、雑誌の特集本を購入したりするなどして、ブルース・リーの詳細を知ることができるようになりました。

 「ドラゴンへの道」に最後のブルース・リーというサブタイトルがつけられていたのは、ブルース・リーが既に亡くなっていたからですが、ブルース・リーは「燃えよドラゴン」が日本で公開された1973年の7月には亡くなっていました。その後に公開された「ドラゴン危機一髪」「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」は「燃えよドラゴン」より前に制作されてたもので、後追いで公開されたものでした。

 自分は子どもの頃からブルース・リーの大ファンでしたが、ファンになったときにはブルース・リーはこの世に存在していなかったのです。中学・高校生の頃はファン・クラブにも入り、ファンクラブを通じて香港で販売された特集本などを集めたものです。しかし、未だ映像は入手することはできませんでした。通信販売で8 mmのフィルムは売られていましたが、ずいぶん高価だったように記憶しています。

ブルース・リーのファンクラブの会報と香港から取り寄せた雑誌
ファンクラブの会報と香港から取り寄せた雑誌

 現在はいつでもブルース・リーの映像を見たいときに見ることができようになりました。ブルースリーが亡くなったのは1973年7月20日。あれから47年も経過していますが、ブルース・リーは32歳の若さのままで、あの極限まで鍛えられた肉体で映像の中で大活躍しています。

 ブルース・リーの凄さは世代を通じて延々と語り継がれていくことでしょう。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2020年11月26日 (木)

「虎の威を借る狐」はお馬鹿さんな虎のお話だった?

 「虎の威を借る狐」という諺は、一方的に狐のイメージが悪いのですが、もともとの話はどのようなものだったのでしょうか。

 「虎の威を借る狐」は中国の古書「戦国策」の楚策にある言葉です。

 春秋戦国時代の楚の国の第36代君主の宣王が、部下の昭奚恤と自分の関係について、次のように訪ねました。

 『諸国では、私より昭奚恤をおそれているというが本当のことか』

 この質問に対して、魏の国出身の江乙が次のようなたとえ話をしました。

『虎は百獣を捕まえて食べていました。狐を捕まえたとき、狐が「あなたは私を食べてはいけない。天帝は、私を百獣の王とされた。今、私を食べることは、あなたは天帝の命に逆らうことになる。私の言うことが信じられないならば、私が先に歩いてみせましょう。あなたは私の後ろについて見ていなさい。私の姿を見た百獣は逃げ出すはずだ」と言いました。虎は狐の後をついてくと、動物たちは皆逃げ出しました。虎は動物たちが虎をおそれて逃げたことに気が付かず、 動物たちが狐をおそれていると思ったのです』

(虎求百獣而食之。得狐、狐曰「子無敢食我也。天帝使我長百獣。今、子食我是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行。子随我後観。百獣之見我而敢不走乎」 虎以為然。故遂与之行。 獣見之皆走。虎不知獣畏己而走也。以為畏狐也)

 つまり、江乙は、諸国が昭奚恤をおそれているのは、昭奚恤の背後に宣王の存在があるからだと説明したのです。

 このたとえ話で宣王と昭奚恤の力関係はわかりましたが、たとえ話に出てくる虎は、あまりにもお馬鹿さんのように思えます。狐はずる賢いというよりも、とんちが効いていて、一休さんのように聡明な印象があります。

 宣王がこのたとえ話で気分を害さなかったのかも心配になります(^^ゞ

 虎さん、どうなんでしょうか?

Sleepingtiger

人気ブログランキングへ

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2020年11月25日 (水)

函館の野球の球聖 久慈次郎

 一般に野球の球聖というと米国のメジャー・リーグで活躍したタイ・カッブ選手のことですが、かつて函館には球聖と言える野球選手がいました。その選手の像が函館市オーシャンスタジアム(千代台公園野球場)に佇んでいます。その選手とは函館太洋倶楽部(函館オーシャンクラブ)で捕手として活躍した久慈次郎選手です。

学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの像(右)
学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの捕手の構えの像(右)

 久慈選手は明治31年(1898年)に青森県青森市で生まれ、幼少期を岩手県盛岡市で過ごしました。身長が180 cm以上あったため、野球の捕手として活躍する機会が多く、盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学すると、本格的に野球を始めました。盛岡中学を卒業後は早稲田大学へと進学しました。

 久慈選手は捕手としては投手を的確にリードし、送球による盗塁の阻止や牽制、一塁へのベースカバーやバンドやフライの処理なども見事なものでした。投手へのリードによって、わざと打者にファールフライを打たせてアウトにすることが多々ありました。また、打者としても、3・4・5番のクリーンアップで活躍しました。イチロー選手のようにチャンスに強くて足が早かったそうです。

 早稲田大学を卒業した久慈選手は大正11年(1922年)に当時函館市に存在していた電力会社である函館水電に入社し、函館太洋倶楽部に入団しました。昭和2年(1927年)、神宮球場で開催された第一回全国都市対抗野球大会に参加、同年に函館水電を退社し、久慈運動具店を開業しました

 昭和6年(1931)に来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会で、全日本チームに捕手兼主将として選ばれました。3年後の昭和9年(1934年)の同大会にも捕手兼首相として参加し、現在においては沢村賞で有名な当時全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組みました。大リーグの選抜チームはコニー・マック監督が率い、大打者のべーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、名投手レフティ・ゴメスが参加した強豪チームです。16戦全敗の結果でしたが、沢村選手と久慈選手のバッテリーは大リーグの強豪相手に良く戦いました。特に静岡草薙球場で行われた試合においては、沢村選手が好投し、ルーゲー・リッグ選手の本塁打による1失点のみに抑えました。このとき、沢村選手は久慈選手のサインに対して首を振り、久慈選手のリードを拒否する仕草をしましたが、最終的に沢村選手が投じた一球がどちらの意図によるものなのかはわかっていないようです。

 ところで、函館市は昭和9年3月に死者2000人以上にものぼる大火に見舞われていました。炎は函館の半分を焼き尽くし、函館市民は疲弊していました。このとき久慈選手は日米野球大会の主催者の読売新聞社に16試合のうちせめて1試合を函館で開催して欲しいと嘆願しました。読売新聞社はこれを受け入れ、同年11月8日に久慈選手は函館市民が見守る中でプレーしました。

 このときの全日本チームのメンバーを中心としてプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現:読売ジャイアンツ)が結成されることになり、久慈選手は主将としてチームへの参加を要請されました。当時としては破格の給与での対応でしたが、久慈選手はこの申し入れを断っています。大火の影響が続き、復旧の目処が立たない函館でアマチュア野球の発展に貢献することを決意したのです。

 その後、函館太洋倶楽部の監督兼捕手となった久慈監督は、毎年北海道代表としてチームとともに全国都市対抗野球大会に出場しました。毎年1回戦で敗退を続けていた函館太洋倶楽部ですが、昭和14年(1939年)に初めて1回戦に勝利しました。久慈監督はチームのメンバーとともにたいへん喜んだそうです。

 同年8月、札幌神社外苑球場で小樽新聞社主催の北海道樺太実業団野球大会が開かれました。19日、函館太洋倶楽部は1回戦で札幌倶楽部と対戦しました。2対1で札幌倶楽部がリードする7回表、ノーアウトランナー1塁で久慈監督は打席に立ちました。札幌倶楽部のバッテリーは久慈監督を敬遠しました。久慈監督は1塁に進みましたが、途中で振り返り、次の打者に声をかけようとしました。このとき、札幌倶楽部の捕手が投げた牽制球が久慈監督のこめかみを直撃したのです。試合は中断となり、久慈監督は直ちに病院に搬送され緊急手術を受けました。治療の甲斐もなく、久慈監督の意識が戻ることはなく、残念ながら帰らぬ人となってしまいました。死因は頭蓋骨破損による脳出血でした。8月21日のことでした。

 久慈監督がいかに素晴らしい選手であったかはその後の球界の対応でもわかります。全国都市対抗野球大会では敢闘賞として久慈賞が設立されました。また、昭和34年(1959年)に始まった野球殿堂においては、沢村栄治選手とともに第1回の殿堂入り選手となっています。

 もしも久慈選手が大日本東京野球倶楽部に入団していたら読売ジャイアンツの歴史に残る名捕手になっていたことでしょう。しかし、久慈選手は函館市を足がかりに北海道で野球をプレーし続けることを決意し、函館の球聖になったのです。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

«クッキーとビスケットの違い