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幕末の日本は開国を迫る列強を前に江戸幕府の権威が失墜していました。幕政が混乱する中で幕府を中心とする政治を続けようと考える佐幕派と倒幕を狙う尊皇攘夷派が対立するようになりました。薩摩藩は当初は幕府側として尊皇攘夷派と対立しましたが徳川家を中心とする政治体制からの脱却を目指すようになりました。土佐藩は佐幕派の山内容堂が主導していましたが、乾退助(板垣退助)や中岡慎太郎などの武闘派の土佐藩士たちは倒幕を考えるようになりました。
慶応3年(1867年)5月18日、江戸に滞在していた乾退助(板垣退助)は在京中の中岡慎太郎から四侯会議が頓挫したことを知らせる手紙を受け取り上洛しました。同日、退助や慎太郎をはじめとする土佐藩士は料亭「近安楼」で会見し武力による倒幕の密談を行いました。倒幕には薩摩藩と手を結ぶ必要があると考えた慎太郎は退助と西郷隆盛を会見させるため奔走しました。同年5月21日、退助と慎太郎は料亭「大森」で会見し隆盛へ手紙を送りました。手紙を受け取った隆盛は土佐藩との会見を決断し、同日夕方に薩摩藩家老の小松帯刀の寓居「御花畑屋敷」において会見を開きました。この会見には土佐藩から退助、慎太郎、谷干城、毛利恭助ら、薩摩藩から隆盛、帯刀、吉井幸輔ら参加し会談しました。会談において退助は戦が起きたときには土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流することを約束し、これによって薩土討幕の密約(薩土密約)が成立しました。
翌日、退助は顛末を容堂に報告し、容堂もこれを了承し退助に軍制改革を命じました。しかしながら容堂は徳川家への恩顧から武力による倒幕を避けるための大政奉還の策を巡らせました。同年6月22日に料亭「吉田屋」において薩摩の帯刀、隆盛、大久保利通)、土佐の寺村道成(日野春章)、後藤象二郎、孝弟、慎太郎、坂本龍馬との間で「薩土盟約」が締結されました。
このように土佐藩と薩摩藩は倒幕に対する基本的な考えが相反する2つの同盟を締結していますが、複雑な政局においてどちらに転んでも薩摩藩と土佐藩が協力することを約束したのです。最終的には徳川慶喜が大政奉還を上表したことから武力倒幕の動きが収まりますが、
その後、王政復古の大号令を経て、鳥羽・伏見の戦いを契機に戊辰戦争へと突入していくことになります。薩土討幕の密約は、その後の歴史の流れに大きな影響を与えた、重要な出来事の一つと言えるでしょう。
ときどき幕末の頃と思われる古い写真が出回ることがあります。この写真は幕末の志士たちの集合写真とされ西郷隆盛、大久保利通、勝海舟、坂本龍馬、桂小五郎、中岡慎太郎など、名だたる志士の名前が記入されています。右下には「尊皇攘夷志士 四十六人」左下には「写真撮影 上野彦馬 慶應元年(一八六五年)」と記されています。この写真は「フルベッキ群像写真」として知られているものです。
もとのフルベッキ群像写真は次の通りです。志士たちの名前は記載されておおらず右下の尊皇攘夷志士、左下の上野彦馬の記載もありません。この写真はアメリカ合衆国に移民したオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキが在米オランダ改革派教会から日本に派遣されたときに撮影されたものです。フルベッキと娘エマの2名と佐賀藩の藩校「致遠館」教師・学生44名を撮影した集合写真です。写真には後に政治家や官僚として活躍した人物も写っていますが上記写真に記入されている幕末の志士の名前はフェークです。
フルベッキ群像写真は幕末の長崎の写真師の上野彦馬が上野設営局で撮影されたものであることがわかっています。フルベッキ親子の左側の人物は和倉具視の三男の岩倉具経、右側の人物は同次男の岩倉具定であることがわかっています。この2人が「致遠館」に留学したのは明治元年(1886年)10月27日であることからこの写真はそれ以降に撮影されたものと考えられていましたが、2010年に明治元年10月8日に上野彦馬が撮影したフルベッキと佐賀藩士が一緒に写ったガラス湿板写真と日記が発見されています。「フルベッキ群像写真」は同じ日に撮影されたものと考えられています。
「フルベッキ群像写真」は昭和49年(1974年)に雑誌「日本歴史」でフルベッキを囲む幕末の志士たちとして紹介されました。雑誌ですから学術的な価値はありませんでしたし学会でも相手にされませんでしたが、夢のある写真であったためか広まっていきました。「日本歴史」で紹介されたときには、特定された人物は22名でしたが、時の流れを経ていく中で増えていき、現在では(上記の写真)44人にもなっています。幾度となくフェーク写真であると指摘されているにも関わらず定期的に流行する傾向があるようです。
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天文21年(1552年)3月3日、尾張国を支配する織田信秀が死去すると嫡男の織田信長が家督を継ぎ織田弾正忠家の後継者となりました。家督を継いだ信長は尾張を平定していきますが、三河との国境の要地である鳴海城と笠寺城を守る山口教継が今川軍に投降していたことから尾張国内に今川家の城が存在していました。とりわけ尾張東南の大高城と沓掛城は尾張中心部と海運の要地であった知多半島を分断する位置にあり織田家にとって邪魔な存在でした。織田家を安定させた信長はそれら今川家の城を攻略し始めますが、三河を支配する今川義元にとって信長の動きは目障りなものでした。
永禄3年(1560年)5月12日、義元は2万5千人の大軍を率いて駿府を出陣し尾張に侵攻しました。義元の出陣の目的は上洛と言われますが近年の研究では織田家の城を駆逐して三河の安定を図るのが目的だったと考えられています。義元は三河勢の松平元康(後の徳川家康)の隊を先行させ大高城に兵糧を運び込ませました。織田方は軍議を開きましたが雑談をするだけの信長に家臣たちは失望しました。家老たちは籠城を進言しましたが信長は出陣の考えを秘匿し動きませんでした。
5月19日午前3時頃、今川軍の松平元康と朝比奈泰朝の部隊が織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を仕掛けると、信長は飛び起きて「敦盛」舞い出陣の準備を始めました。午前4時頃、清洲城を出て熱田神宮で軍勢を整え戦勝祈願を行いました。今川軍の勢いは止まらず織田方の城を制圧していきました。織田軍は今川軍が桶狭間山に本隊を布陣させている情報を得て進軍を始めました。
午後1時頃、突然豪雨が降り始め視界が不良となりました。織田軍はこの雨に乗じて義元本隊に奇襲を仕掛けました。突然の奇襲により今川軍は混乱し義元は300名ほどの旗本とその場を逃れました。しかし織田軍の度重なる攻撃により義元は手勢を次第に失いついに織田軍に追いつかれてしまいました。
義元は太刀を抜いて自ら奮戦しまし一番槍をつけた服部一忠に反撃するも毛利新介によって組み伏せられ討ち取られました。 総大将の義元の討ち死ににより今川軍は戦意を喪失し、信長は桶狭間の戦いに勝利しました。この戦がきっかけとなり織田信長が台頭、天下の勢力図が大きく塗り替えられることになりました。
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明治2年5月14日、榎本武揚と松平太郎は連名で高松凌雲からの降伏勧告の手紙に降伏拒否と返信しました。このとき武陽は戦火によって失われるのは痛恨の極みとオランダ留学中に書き写した万国海律全書を送りました。この写本は後に黒田清隆の元に届けられました。
同日、薩摩藩士の田島圭蔵は弁天台場を訪れ武陽との面会を依頼し永井尚志と相馬主計と五稜郭に赴きました。圭蔵はかつて秋田藩の高雄丸で船長で函館政権に拿捕されたときに釈放された経緯もあり誠意を持って交渉しました。武陽は徹底抗戦を主張したが尚志と主計には密かに降伏の意向を伝えたとされます。弁天台場に戻った尚志と主計は直ちに降伏した。武揚と大鳥圭介は一本木関門に夜襲をかけるため出撃したものの部隊の士気は低く多勢に無勢となりました。武陽は五稜郭に撤収、圭介は中島三郎助が守備する千代ヶ岳陣屋に入りました。
明治2年5月15日、前日に千代ヶ岱陣屋に入った大鳥圭介は中島三郎助に陣屋を出て五稜郭に退避することを提案しました。しかし三郎助は断り最期まで徹底抗戦を表明しました。圭介は五稜郭に戻り武揚に報告。武揚は三郎助を説得するため太郎を派遣するも三郎助の決断を覆すことはできませんでした。この日、新政府軍は艦砲射撃は続けましたが陸軍の部隊を動かさず攻め込むことはしなかった。新政府軍陸軍参謀の黒田清隆は千代ヶ岱陣屋や五稜郭に対して降伏勧告を申し入れ不要な戦を避け寛大な処分を考えていた。
千代ヶ岱陣屋で徹底抗戦を主張した中島三郎助は軍議では榎本武揚をはじめとする「若者」たちに降伏を主張していました。三郎助が妻に当てた手紙には自身は最期まで戦う考えであるが息子たちや浦賀からやってきた若者たちに降伏を説得しても聞き入れてくれないと書き残しています。
明治2年5月16日未明、新政府軍は降伏勧告を拒否し徹底抗戦を主張した千代ヶ岱陣屋の攻撃を開始。この戦いで新政府軍の兵を率いたのは大村益次郎から西洋兵学を学んだ山田顕義でした。このとき黒田清隆は動かずに静観していたと伝えられています。
山田顕義率いる新政府軍が千代台陣屋に迫るとは投降兵が進入路を手引きしました。陣屋に侵入した新政府軍が銃で激しく撃ちかけると多くの兵が投降しました。中島三郎助らは抵抗を続けるも多勢に無勢、徹底抗戦を主張していた渋沢成一郎は湯の川に逃れました。
中島三郎助は大砲に破裂弾と散弾を詰め敵兵と自爆しようとしましたが大砲に点火しても爆発が起きませんでした。そこで胸壁に登り応戦をはじめたところを狙撃され堀の中へ落ちて絶命しました。長男恒太郎と次男英次郎、浦賀奉行の仲間も千代ヶ岱陣屋で三郎助の後を追いました。
同日、五稜郭に白旗を振る薩摩藩士騎兵が現れ弁天台場と千代ヶ岱陣屋の陥落を伝え清隆の手紙を届けました。手紙には海律全書の礼と酒肴を送ると書いてあり間もなく酒樽と肴が届きました。毒殺を恐れ誰も手をつけない中で星恂太郎が笑いながら樽を割り一杯飲むと諸将も安堵して酒を嗜みはじめました。
このとき武揚は自室に戻り全責任を取って短刀で自決しようとしました。しかし介錯を頼んだ側近の大塚霍之丞が素手で短刀を鷲掴みにして武揚の自決を阻止しました。武陽は我に返り明朝7時に城外に出て降伏することを決断したのです。こうして16日は夜が更けていきました。
明治2年5月17日朝7時、箱館政権は五稜郭を開城。城内から騎馬に跨がる榎本武揚、松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介が出てきました。武陽と太郎は黒田清隆と増田虎之助と近くの空き家の店舗で面会しました。清孝と虎之助は床にゴザを敷き酒徳利とスルメを用意して武陽と太郎を迎え降伏条件の交渉をはじめ合意しました。
明治2年5月17日、降伏条件交渉で榎本武揚と松平太郎は箱館政権幹部が罪を償くことを条件に兵士たちには寛大な処分を嘆願しました。清隆は申し入れを断り武陽に降伏手順の実行箇条の提出を要求しました。明治2年5月18日、一行は亀田八幡宮に赴き神前で降伏式を執り行ったのです。
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風もふるえるヘアピンカーブ♪♪
怖いものかと ゴー・ゴー・ゴー♪♪
→行けませんから無理っ!
走り出したら あとには引けぬ♪♪
→確かにそのとおりだが無理っ!
最後の方では、トレーラーとバスがすれ違ってる。。。
Dangerous Driving - Trollstigen
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