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アメリカのジャズミュージシャンのオルトン・グレン・ミラーは小学校高学年にトロンボーンを始め地元のオーケストラに加わりました。20代前半にニューヨークに出てプロのトロンボーン奏者となりました。しばらくの間は売れずに厳しい生活となりましたが、ミラーは諦めることなく活動を続けました。やがてトミー・ドーシーやベニー・グッドマン、レッド・ニコルズなどの音楽家と出会いミラーのトロンボーン演奏が注目されるようになりました。
1937年、グレン・ミラーは「グレン・ミラー楽団」を結成し、翌1938年にRCAブルーバード・レコードと契約にこぎつけました。「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」「チャタヌーガ・チュー・チュー」などの数々のヒット曲を生み出し、バンドリーダー、音楽家として一躍有名となりました。とりわけ1941年に発表された同バンド出演映画「銀嶺セレナーデ」の主題歌「チャタヌーガ・チュー・チュー」のレコードは約120万の売り上げを記録しました。この記録により1942年2月10日にRCAから世界初のゴールドディスクが授与されました。
Glenn Miller - Chattanooga Choo Choo - Sun Valley Serenade (1941) HQ
「チャタヌーガ・チュー・チュー」が発表された1941年はアメリカ合衆国が日本海軍による真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦に参戦した年でした。グレン・ミラーは大人気となり興行的に大成功を収めていたグレン・ミラー楽団の活動を中止して軍に入隊することを決意しました。1942年9月27日に最後の公演を行ったグレン・ミラーは同年年10月7日に陸軍特殊部隊の大尉としてオマハ第7軍事司令部に配属されました。
様々な訓練を受けた後にグレン・ミラーは陸軍航空軍(AAF)技術訓練司令部本部の軍楽隊の楽団長となりました。当初、ミラーの軍楽隊はニューヨークでラジオ放送と録音を行っていましたが、やがて慰問楽団として国内外のツアーを始めました。世界各国へ慰問演奏の旅に出かけましたが、1944年12月15日にイギリスからフランスへ向かう途上、専用機ノールダイン ノースマンUC-64Aがイギリス海峡上で消息を絶ちました。原因は諸説ありますがUC-64Aの設計上の問題で発生した故障による墜落という説が有力です。
こうしてグレン・ミラーは不運にも「行方不明」となり音楽家としての人生を終えたのですが、1964年に未亡人がグレン・ミラー楽団を復活させました。このグレン・ミラー楽団のバンドリーダーは楽団でサックス奏者兼ボーカルを担当していたテックス・ベネケが努めました。ベケネはやがて自身の音楽を求めるようになりグレン・ミラー楽団を脱退、これによりグレン・ミラー楽団も解散しました。ミラーの未亡人はグレン・ミラー陸軍航空隊管弦楽団の指揮者レイ・マッキンリーを新しいグレン・ミラー管弦楽団のバンドリーダーに招聘し、1956 年にグレン・ミラー楽団を復活させました。以降、グレン・ミラーが楽団は現在まで世界各地で公演活動を続けています。
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「会津藩と保科正之|松平容保のおはなし」の続き
会津松平家の家祖は第2代将軍の徳川秀忠の四男で保科家の養子となった保科正之です。正之は寛文9年(1669年)に隠居し家督を四男の正経に譲りました。第2代藩主となった正経は子が女児1人しかおらず本人も病弱だったため延宝8年(1680年)に末弟で正之の六男の正容を養嗣子としました。
保科正容は天和元年(1681年)に正経が享年36歳で死去すると家督を継ぎ第3代藩主となりました。元禄9年(1696年)12月9日、松平姓と三つ葉葵の紋を永代使用することを許され徳川一門(御家門)となりました。以降、会津藩主は松平姓を名乗り名実ともに会津松平家となりました。
松平氏は三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の小豪族でした。戦国時代の当主の松平元康は織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取ると今川家から独立し、名を家康と改め、さらに官位を得るために出自を明確にするため姓を徳川に改ました。このとき家康は自身を松平家の中で別格の存在とするため、その他の松平家は改姓させませんでした。つまり家康は松平家を徳川家の家臣「譜代」の位置づけとしたのです。
【参考】松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)
家康は信長と同盟を結び頭角を現しましたが「本能寺の変」で信長が暗殺されると豊臣秀吉に仕えました。秀吉が死去すると「関ヶ原の戦い」で石田三成を破り天下統一を果たして征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。家康は徳川姓と松平姓を使い分けながら強固な幕藩体制を作り上げました。
【参考】徳川家康が征夷大将軍に就任(1603年2月12日)
徳川を名乗ることができたのは江戸幕府将軍を世襲する徳川家と御三家・御三卿などの徳川家の限られた親族のみでした。一方、松平を名乗ったのは三河時代の松平家、将軍家をはじめとする徳川家から分家した親族、御連枝、将軍より特別に松平姓を与えられた徳川家や松平家の非一族の大名家です。幕末には徳川家は12家、松平家は29家が存在していました。明治維新後は徳川家と松平家は華族となりましたが、非一族の松平家と分流の松平家の一部は本姓に戻しています。
さて会津松平家の家祖の保科正之は第2代将軍の徳川秀忠の四男として生まれましたが庶子のためその出生を知っていたのは秀忠と側近に限られていました。異母兄の徳川家光も正之の存在を知りませんでした。家光は正之と出会うと正之を気に入り重用するようになりました。
正之は家光の遺命により第4代将軍の徳川家綱の後見人となり幕政を支え正四位下・左中将を叙されました。徳川将軍家は正之に松平姓を名乗るように申し伝えましたが、正之は自身を養育してくれた保科家に恩義があるとして生涯保科姓を名乗り続けたのです。第2代藩主の正経も保科姓のまま他界しています。こうして会津松平家が松平を名乗り三つ葉葵の紋を使い始めたのは第3代藩主の松平正容からとなったのです。
なお徳川家の三つ葉の葵は御三家・御三卿・松平家でそのまま使用されたわけではなく家によって若干意匠が異なります。会津松平家の家紋は会津三葵と呼ばれています。
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開拓使は戊辰戦争後の明治2年(1869年)7月8日に北方開拓のために設置された官庁です。開拓使が設置される前は蝦夷地の行政は箱館府が担当していましたが箱館は蝦夷地南部のため中央部に本庁を設けることになりました。同年8月には蝦夷地は北海道と改められました。
明治3年(1870年)には樺太開拓使が設置されると開拓次官に就任した黒田清隆が樺太を視察しました。清隆は樺太の状況を見て3年持たないと判断し、国力を高めるため北海道開拓に集中するべきと建議しました。
明治4年(1871年)8月19日、明治政府は総額1千万円の開拓使十年計画を決定しました。明治5年(1872年)に開拓使長官に就任した清隆のもとで北海道開拓が進められることになりました。
開拓使は開拓使十年計画の満期を迎える明治15年(1882年)に廃止されることが決まっていました。同年2月8日に開拓使は計画通りに廃しされ、開拓使の札幌本庁、箱館支庁、根室支庁は廃藩置県後の行政区域にあわせて札幌県、箱館県、根室県となりました。また農商務省の一部局として北海道事業管理局が設置され、北海道の行政は三県一局時代となりました。開拓使が進めていた事業は地方で進めるか国家として進めるかによって3県と北海道事業管理局に引き継がれました。北海道の行政は近代的なものとなりましたが、人口が少なかったため3県に議会が設置されたり郡制がしかれることはありませんでした。
北海道ではその後も10年以上にわたり開拓が進められましたが札幌県・箱館県・根室県。北海道事業管理局の足並みは揃いませんでした。また北海道の人口は未だに開拓の原点となった箱館県に集中しており、未開拓地が広がる根室県の人口は伸びませんでした。さらに日本経済は西南戦争による戦費調達によるインフレを改善しようとした大蔵卿松方正義によるデフレ誘導政策の松方財政により不況に陥っていました。こうした事情により北海道の開拓は停滞しました。
明治18年(1885年)、参議の伊藤博文は太政官大書記官の金子堅太郎を北海道に派遣し各県の視察を命じました。堅太郎は博文に3県体制が機能していないことを報告しました。その結果、明治政府は明治19年(1886年)1月26日、札幌県・箱館県・根室県の3県および北海道事業管理局を統廃合し北海道庁を設立しました。箱館県は箱館支庁、根室県は根室支庁となりました。これによって北海道の行政の三県一局時代は終焉したのです。
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敵討(仇討ち)とは主君、師匠、目上の近親者を殺害された者が私刑として殺害した者を討ち取り復讐を果たすことです。最古の敵討は「日本書記」に記載のある安康天皇3年(456年)の「眉輪王の変」とされていますが、敵討が慣習となったのは武士が頭角を現すようになった中世期頃と考えられています。
江戸時代には敵討は法で認められていました。敵討をすされる者が藩に届け出をして許可を得ると実行することができました。江戸時代や明治時代初期には敵討は美談とされましたが、明治維新後は法律による裁きが重視されるようになりました。
明治元年(1868年)、明治新政府は将来の法律改正を前提に従来の法の踏襲した仮刑律を制定しました。この仮刑律では敵討は従来通り認められていました。明治2年(1869年)、刑法官判事試補の鈴木唯一が公議所に「刑法ヲ待タズ、私ニ人命ヲ絶ツヲ禁止スルノ議」を建議したことがきっかけとなり敵討の是非が論じられるようになりました。当初は賛否両論が対立しましたが敵討を禁止とする意見が優勢となりました。
明治6年(1873年)2月7日、佐賀藩士で司法卿の江藤新平がまとめた太政官布告第37号「敵討禁止令」が公布され敵討が禁止されました。主君や近親者を殺害された者の訴えを精査し国家が法律に基づいて被害者に代わって加害者を処罰することになりました。敵討の条文が法典から完全に削除されたのは明治13年(1880年)の刑法からです。
江藤は「敵討禁止令」が公布される前の同年1月24日に司法省予算削減に抗議し司法卿の辞表を提出しています。江藤は立法・行政・司法を独立させる「三権分立」をはじめとする司法制度の整備を進めた功績から「近代日本司法制度の父」と呼ばれています。その後、江藤は参議となりますが「明治6年の政変」で西郷隆盛の征韓論を支持し下野しました。明治政府の佐賀藩に対する強硬な対応に反発した士族の反乱「佐賀の乱」の首謀者として法の裁きを受け処刑されました。
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紙に描かれた箱が空中に浮遊しているように見えるイリュージョンです。紙を動かすと箱の向きがかわり、この箱は二次元の絵ではなく立方体であることがわかります。
奥行きの認識に関する錯覚で生じるもので凹凸を逆に捉えてしまうため箱が空中に浮遊しているように見えます。箱は実際には紙に描かれているわけではありません。この箱の絵がどのような状態になっているのか映像の後半で種明かしされます。
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