ようこそ!「夜明け前」へ
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
昭和40年代半ばから60年代初め、土曜日の夜8時と言えばTBS系列で放送されていた「8時だョ!全員集合」が人気の番組でした。子どもから大人まで多くの人たちがテレビの前でドリフターズのリーダーのいかりや長介さんの「8時だよ!」のかけ声を楽しみにしていました。
高視聴率を誇った「8時だョ!全員集合」ですが、この番組が始まる前のTBS系列の8時台はフジテレビで放送されていた裏番組の「コント55号の世界は笑う」の人気のため視聴率が低迷していました。そのためTBSは視聴率を取り返すべく当時人気番組だった「お笑い頭の体操」の居作昌果(いづくり よしみ)プロデューサーに新番組の企画を命じました。居作は新番組の企画に専念することになりましたが「お笑い頭の体操」のスポンサーだったロート製薬の反対によりプロデューサーを兼任することになりました。
居作プロデューサーはコント55号に匹敵する番組を作るにはテンポの良いギャグが必要と考えました。当時、アドリブではない練り上げたギャクを創り上げるいかりや長助を高く評価しザ・ドリフターズをメインに起用した番組を企画しました。ところが当時のTBSではザ・ドリフターズの評価はそれほど高くなく、シャボン玉ホリデーで大成功を収めたクレージー・キャッツを起用するべきだという声が多数出ました。しかし、クレージー・キャッツは既にグループとしてよりもメンバーが個別に活動するようになっていました。スケジュール調整も難しいため、居作プロデューサーはザ・ドリフターズを起用する考えを通しました。
ザ・ドリフターズ(以降ドリフ)はジャズ喫茶などでのお笑いライブの経験が豊富だったことから、新番組は劇場・ホールでの公開形式で生放送とすることにしました。この臨場感が番組の人気を後押しすることになり、生放送ならではのさまざまなエピソードを生むことになりました。
番組のタイトルはスポンサーのライオン油脂(ライオン)の「8時になったらテレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」という要請から「8時だョ!全員集合」に決まり、昭和44年(1969年)10月4日(土)午後8時から放送が始まりました。
「8時だョ!全員集合」はいかりや長助の「8時だよ!」のかけ声に観客とドリフのメンバーが「全員集合」と返し、テンポの良いオープニングマーチが流れる中でドリフが観客席から舞台に上がることから始まります。いかりや長助の「行ってみよう」というかけ声で北海盆唄の替え歌のオープニングソングが流れ、ドリフと出演者が歌って踊ります。たった数分のつかみで視聴者はテレビの前に釘付けになりました。その後、ドリフによるコントの前半が初まり、続いてゲスト出演者の歌手の歌、最後に体操や合唱団などのショートコントの後半パートが繰り広げられました。
放送開始後もしばらくの間は「コント55号の世界は笑う」は高視聴率を維持していましたが、「8時だョ!全員集合」が当時大人気だった歌手をコントに挑戦させたり、TBSの人気ドラマの出演者をゲスト出演させたりすることで「コント55号の世界は笑う」の視聴率を追い抜いたのです。
1981年の春にフジテレビで裏番組の「オレたちひょうきん族」の放送が始まると、次第に視聴率が下がり始め1982年10月2日の放送で初めて「オレたちひょうきん族」に視聴率を抜かれました。やがて視聴率は平均10%程度になりました。土曜日8時台の番組編成が見直されることになり1985年9月28日に16年間の歴史に幕を閉じました。
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
>
自分は納豆を食べるとき25回ぐらいかき混ぜます。ほどよくネバネバし旨味が増しナットウキナーゼも吸収されやすくなるそうです。
これはずいぶん前の動画ですが納豆を1万回混ぜるとどうなるか?というビデオがYouTubeにありあした。
最後はどうなるかというとこうなるようです。そりゃそうだよね 。
【関連記事】
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時頃、関東の南部でM7を超える大地震が発生しました。この地震は「安政の大地震」とも呼ばれますが同時期に多発した他の地震と区別するには正式な名称の「安政江戸地震」と呼んだ方が良いでしょう。
「安政江戸地震」は江戸を中心に大きな被害をもたらし、特に隅田川の東側地域で震度6を超える強い揺れが発生したと推定されています。江戸の下町や深川や浅草などの被害は甚大であり、多くの家屋が倒壊しました。また火災が発生したことにより被害がさらに拡大しました。調査によって江戸の町の死者は約4700人とされていますが周辺地域を合わせると1万人にのぼると考えられます。また東北地方から東海地方にかけて広い範囲で震度4を超える揺れが発生した地域もあります。次の図は瓦版(読売)に掲載された安政の大地震絵図です。肥大側に被害の様子が描かれ、右側に被災者救済場所や各地の被害情況を記載されています。
前年の嘉永7年(1854年)にはアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が黒船で再来航し日米和親条約が締結されました。これによって国内では開港が攘夷かで意見が対立し幕政の混乱が始まりました。
第9代藩主徳川斉昭は水戸学をもとに尊王攘夷の考え推し進めましたが、安政江戸地震で小石川の水戸藩藩邸が倒壊し斉昭の重臣の戸田忠太夫、藤田東湖が死亡しています。重臣を失った水戸藩では内部抗争が生じ後に水戸藩を脱藩した浪士たちが安政7年3月3日(1860年3月24日)の「桜田門外の変」を引き起こすことになります。尊王攘夷運動は倒幕運動へとつながっていきます。
幕末の混乱期に発生した「安政江戸地震」は江戸の人々にとって大きな影響を与えました。幕政が混乱する中で江戸の町は復興し後の明治維新へとつながる歴史の1ページとして刻まれました。
安政7年3月19日(1860年4月8日)、黒船来航以来で国内が混乱する中で「江戸城火災」「桜田門外の変」など災異(凶事)が続いたため第121代天皇の孝明天皇の強い意向で元号が万延に改元が行われました。このときの江戸幕府の将軍は第14代の徳川家茂です。
【関連記事】
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
豊臣秀吉の死後に豊臣政権内部政争が発端となって慶長5年(1600年)9月15日に「関ヶ原の戦い」が起こりました。徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利すると、慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷大将軍に就任すると江戸幕府を開き徳川家による政権作りを開始しました。
家康は徳川政権を長期的に安定したものとするため慶長10年(1605年)には将軍職を辞職し嫡男の徳川秀忠に家督を譲りました。征夷大将軍と執政は徳川家が世襲することを示したのです。このような状況の中で家康は別格的存在だった豊臣家が徳川政権の障壁になると考えました。やがて豊臣家を徳川家に服属させることを考えるようになったと伝えられています。
同年5月に家康は高台院を通じて秀頼生母の淀殿に秀頼が徳川家に臣下の礼を取るように要請しました。これに対して淀殿は会見を拒否しましたが家康は平和裏に対応しました。慶長16年(1611年)3月、家康は後水尾天皇即位で上洛すると秀頼と二条城での会見を実現しました。
その後、豊臣家の親戚筋や豊臣家恩顧の大名が亡くなると徳川家を疎遠にしていた豊臣家は孤立するようになりました。豊臣家は徳川家の幕藩体制の外にあり幕府に縛られる必要はないと考えた淀殿をはじめとする豊臣方は幕府に無断で朝廷から官位を賜る要請をしたり、大阪城に兵糧を運び込んだり、浪人を雇ったりしました。このような豊臣家の動きに対して家康は穏便な対応を続けましたが同時に戦の準備を進め大阪城を攻撃するための大筒や武器を確保し始めました。豊臣家が徳川家に服属しない限り両家の関係の解決の見通しは立ちませんでした。
慶長15年(1610年)8月22日より秀吉の方広寺大仏の再建が始まりました。この再建工事は徳川家が主導し豊臣家が費用を負担することになっていました。大仏殿が完成したのは慶長17年(1612年)と伝えられています。
方広寺は豊臣家の建物で朝儀により創立された寺院ではないため正式な寺院とするための手続きが進められました。家康は方広寺再建落慶供養に出席するため上洛するつもりでした。秀頼の出席も許されていましたから両名が揃う可能性がありました。
慶長19年(1614年)に梵鐘が完成すると片桐且元は南禅寺の文英清韓に鐘銘文を書かせました。その鐘銘文の中にあった言葉が「国家安康」「君臣豊楽」の言葉でした。この鐘銘文に異議を唱えたのが家康の側近の南光坊天海でした。さらに徳川家が派遣した大工頭の中井正清の名が棟札に記されていないことに家康は不満を持ちました。同年7月26日、家康は鐘銘文が不快という理由から大仏殿供養の延期を決めました。
同年8月、家康は林羅山などに梵鐘の銘文を解読させました。羅山は「国家安康」が家康の名を「家」と「康」に分断し家康を呪詛しており、一方の「君臣豊楽」には豊臣家を君主として楽しむという意味が隠されていると指摘しました。作者の清韓は家康に対する祝意と諱をかくし題として織り込んだものであり家康を呪詛する意図はないと弁明しました。いずれにしろ大仏殿供養は延期され方広寺鐘銘事件に発展しました。
豊臣家は鐘銘文を弁明をさせるため片桐且元を駿府に派遣しましたが家康との会見は実現しませんでした。その後、豊臣家は大野治長の母の大蔵卿局を駿府へ派遣し家康と面会しています。同年9月6日、家康は以心崇伝と本多正純を通じて大蔵卿局と且元に対し豊臣方の徳川家に対しての不信に問題があり両家の融和を示す方策を講じ江戸に弁明に赴くよう要求しました。
大坂へ戻った且元は次の3案のうちひとつを行うよう進言しました。
・秀頼を江戸に参勤
・淀殿を人質として江戸に置く
・秀頼が国替えに応じ大坂城退去
この3案はどれも豊臣家にとって受け入れがたいものでした。且元は豊臣家と徳川家の両家から知行を得ていることもあり豊臣家重臣から家康との内通を疑われるようになりました。同年9月23日、織田信雄から且元暗殺計画を聞いた且元は屋敷で防備を固めました。秀頼は問題解決のため且元に武装解除を命じましたが且元は応じませんでした。その結果、同年9月27日に秀頼は且元に寺で隠居するよう命じました。
同年10月1日、且元は高野山に入るとして300程の雑兵を率いて大阪城を出ましたが、且元が向かったのは高野山ではなく茨木城でした。同日、家康のもとに且元暗殺計画の報が届き家康はこれに激怒し大阪に出兵を命じました。豊臣家は且元の罷免は家康に敵対するものではないと弁明しましたが家康は受け入れませんでした。こうして徳川家と豊臣家の戦は避けることができなくなり「大坂の陣」が開戦することになったのです。
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
光や色彩の探求の歴史上重要な資料が多数掲載されています。冒頭は古代壁画などの解説に始まります。また、ニュートンが光についてどのような実験をやったのかなど、ニュートンが描いた図を見ることができます。ゲーテの色彩に関するニュートンへの反論なども図で楽しむことができます。
色彩学貴重書図説: ニュ-トン・ゲ-テ・シュヴル-ル・マンセルを中心に
北畠 耀 (著)
哲学者としてのニュートン、自然科学者としてのゲーテ、色彩調和論の先駆者シュヴルール、“色のものさし”を創案したマンセルを中心に取り上げ紹介。色彩の入門者を歴史探訪へ誘う、しかも見て楽しい色の画集のような一冊(「MARC」データベースより)。
“色彩文化の歴史的記念碑”あるいは“色彩学三代古典書”と呼ばれる貴重書に、科学史を転換させたニュートンの『光学』(1706)、文豪ゲーテが20年をかけた壮大な著作『色彩論』(1818)、印象派画家から「色のバイブル」と呼ばれた化学者シュブルールの『色の同時対比の法則』(1938)があります。豊かな社会が到来した20世紀には、徐々に色彩計画の重要性が増し「色のものさし」が求められました。このときマンセルは『色表記法』(1905)で画期的な提案を行い、彼が創案したカラースケールは、学問分野のみならず全産業に大きく貢献しました。
本書では上記4人の著書の図説を中心に主に16世紀から今日までの色彩学の発展に貢献した重要な書籍を図説で解説。色彩研究史年表も充実させました。
登録情報
出版社 : 日本塗料工業会 (2006/4/1)
発売日 : 2006/4/1
言語 : 日本語
単行本 : 101ページ
ISBN-10 : 4841904158
ISBN-13 : 978-4841904154
目次
01. 古代社会における色彩象徴
02. 古代ギリシアの世界観
03. 中世の色彩文化
04. ルネサンスの造形術と色彩書
05. 17世紀における色彩体系の発想
06. 科学革命時代の群像
07. 哲学者としてのニュートン
08. 自然科学者としてのゲーテ
09. 色彩調和論の先覚者シュヴルール
10. 複製術(版画・印刷・織布・写真)の開発者たち
11. 色を音の類比で構想したフィールド
12. 明治初期の初等教科書『色圖問答』
13. 産業の色彩と教育の色彩
14. “色のものさし”の創案者マンセル
15. 色空間で調和を論じたオストワルト
16. 色名体系の登場と発展
17. メルツ&ポール色名辞典
18. ISCC-NBS色名法
19. 18世紀以降の色彩体系の展開
20. XYZによる表色系の統括
APPENDIX
色と光の文化史年表
色と光の探求者関連年表
巻末折り込み:
太陽光のスペクトルとシュヴルール色相との対応図
色彩学貴重書図説: ニュ-トン・ゲ-テ・シュヴル-ル・マンセルを中心に
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
| 固定リンク | 0
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント