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2024年7月19日 (金)

禁門の変(蛤御門の変)勃発(1864年7月19日)

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 文久3年(1863年)8月、薩摩藩と会津藩は強硬な尊皇攘夷派の長州藩勢力や公家を京都から追放する八月十八日の政変を起こしました。この政変により急進的な尊王攘夷派が一掃されましたが、朝廷は攘夷そのもの実行を幕府に求め続けました。幕府は攘夷として横浜港を閉じることを約束しましたが幕府内で意見が対立したため実行できませんでした。これに対して水戸藩の攘夷派が反発し天狗党の乱を起こしました。尊王攘夷派の間で幕府に不満が募るようになり京都に長州藩を復帰させる声が高まりました。

 長州藩では武力で京都に乗り込み無実を訴える進発論を来島又兵衛、真木保臣らが主張しましたが、長州藩は桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らが主張する慎重論を採用し派兵をしませんでした。その代わりに又兵衛を京都に視察に向かわせました。又兵衛は京都守護職で会津藩主の松平容保を暗殺を企てましたが厳重な警備を前に為す術はありませんでした。

 八月十八日の政変で尊王攘夷派を追放したことで人材不足となった朝廷は雄藩の薩摩前藩主の島津久光、松平春嶽、一橋慶喜、宇和島藩前藩主の伊達宗城、土佐藩前藩主の山内容堂らを上洛させ今後の方策を議論しました。孝明天皇は従来通り江戸幕府に政治を任せる公武合体の方針を示しましたが、久光は将軍を上京させて諸侯による諮問機関を合議により設けて公議政体を作ることこそ公武合体である主張しました。結果として久光の主張が認められ文久4年(1864年)正月15日に家茂が上洛し参預会議が成立しました。

 ところがこの参預会議は長州藩の処分と横浜港を閉じる攘夷の問題で行き詰りました。慶喜は薩摩藩を警戒し横浜港を閉じる主張をするようになり久光と折り合いがつかなくなりました。中川宮が同年2月16日に諸侯を招き親睦の酒席を設けましたが、慶喜が泥酔し久光、春嶽、宗城に指をさし、3人は天下の大愚物・大奸物であり後見職の自分と一緒にしないでほしいと暴言を吐いたことから、参預会議は崩壊してしまいました。

 参預会議の崩壊により公武合体派の諸侯が京都を離れると、長州藩の玄瑞と又兵衛はこれを機に進発論を推し進めるべきと主張しました。長州藩は進発論には引き続き慎重の姿勢を取りましたがこれを覆す大きな事件が同年6月5日に京都で起きます。都守護職配下の治安維持組織である新選組が京都三条木屋町の池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した池田谷事件です。池田谷事件で藩士を殺害された長州藩では周布政之助、高杉晋作、宍戸真澂などが慎重な対応を主張しますが進発論を止めることができず挙兵することが決まり軍勢を整えはじめました。

 玄瑞は挙兵に先だち同年6月24日に長州藩の罪を許す嘆願書を朝廷に送りましたが諸藩の藩士がこれに反対を表明しました。朝廷では意見が対立し長州藩の上洛を認め容保を追放する意見も出ましたが、かねてより長州藩に強い憤りを感じていた孝明天皇は討伐を命じました。慶喜は軍勢を整える長州藩兵に退去を呼び掛けていましたが孝明天皇の考えに従いました。玄瑞は退去命令に従うつもりでしたが、又兵衛や保臣に押されて挙兵を決断しました。 

 元治元年7月19日(1864年8月20日)、長州藩兵と会津・桑名藩兵が御所の西辺である京都蛤御門で戦闘を開始しました。当初は長州藩兵が優勢で京都御所の侵入に成功するも駆け付けた薩摩藩兵に撃退されました。その後も戦闘は続きましたが長州藩兵はこの日のうちに退去しました。長州藩兵は長州藩屋敷を放火して逃走、会津藩兵は長州藩士を追撃し潜んでいると思われた家屋を放火、これらの放火により数日間にわたる大火「どんどん焼け」が発生し京都の広い範囲が焼失しました。

蛤御門の変(浮世絵版画)
蛤御門の変(浮世絵版画)

 孝明天皇は、長州藩兵が御所に向かって発砲したこと、長州藩の軍令が出ていたことから、長州藩主の毛利慶親の追討令を発しました。これによって長州藩は朝敵とされ幕府による第一次長州征伐が行われることになったのです。

 なお、この戦闘が「禁門の変」または「蛤御門の変」と呼ばれるのは京都御所の禁門を中心に起こり特に蛤御門周辺が激戦地であったことに由来sます。京都御苑の西側に位置する蛤御門の梁に当時の弾痕が残っています。

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2024年7月18日 (木)

ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)

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 1842年、アヘン戦争に勝利したイギリスは清と南京条約を締結しました。ロシア海軍のエフィム・プチャーチンはロシアも極東地域に進出する必要があると皇帝ニコライ1世に進言しました。プチャーチンは1843年に清と日本との交渉を命じられましたが、キャフタ貿易に悪影響を与える懸念があることからプチャーチンの極東派遣は見送られました。

エフィム・プチャーチン
エフィム・プチャーチン

 1852年、アメリカ合衆国がマシュー・ペリー提督を派遣し日本に開国と貿易を求める計画を知ったコンスタンチン・ニコラエヴィチ大公はプチャーチンを日本との条約締結のために遣日全権使節に任命し、ニコライ1世は日本と平和的に交渉するよう命じました。

 プチャーチンは1852年9月にペテルブルクを出発しイギリスで汽走スクーナーのボストーク号を購入し旗艦とするフリゲート艦パラルダ号の到着を待ちました。同年10月、パラルダ号はクロンシュタットを出港、パルラダがイギリスに到着するとボストーク号を従えて日本に向かいました。アフリカ南端の喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由、父島でコルベット艦オリーブツァ号と輸送船メンシコフ公爵号と合流しました。プチャーチンはニコライ1世の命令に従い平和的な交渉を行うため、日本に対して紳士的な態度で交渉することを考えて江戸ではなく日本の外交窓口の長崎に向かいました。これは旧知のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの進言でした。

 プチャーチンが旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊で長崎に来航したのは嘉永6年7月18日(1853年8月22日)です。マシュー・ペリー提督が率いる艦隊が浦賀沖に現れたのは嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、離日したのは嘉永6年6月12日(1853年7月17日)ですから、ペリーより約1カ月半遅れの日本来航でした。

プチャーチン来航の様子(瓦版)
プチャーチン来航の様子(瓦版)

 プチャーチンは長崎奉行の大沢安宅に国書を預け幕府からの全権の到着を待ちました。ところがイギリス海軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を派遣したためプチャーチンは嘉永6年10月23日(1853年11月23日)に長崎を出港し上海に向かいました。プチャーチンが再び長崎に来航したのは嘉永6年12月5日(1854年1月3日)です。プチャーチンは幕府全権の川路聖謨と筒井政憲と会談し、日本が他国と通商条約を締結した場合にロシアとも条約を締結するという合意を得て離日しました。

 

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2024年7月17日 (水)

ヘンデルの水上の音楽の初演(1717年7月17日)

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 水上の音楽(Water Music)はドイツ出身のイギリスのゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが作曲した管弦楽曲集です。

 1700年代の初めイタリアで活動し成功を収めたヘンデルは1710年にドイツのハノーファー王国ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒの宮廷楽長となりましたが長期旅行への許可を得てイギリスのロンドンを訪れました。ヘンデルはイギリスで貴族らかの要請でオペラ「リナルド」を書きあげました。この曲はアン女王へ献辞され大成功を収めました。ヘンデルはアン王女にロンドンに再訪することを約束しハノーファーに帰りました。

ヘンデルとゲオルク・ルートヴィヒ
ヘンデルとゲオルク・ルートヴィヒ

 ヘンデルがロンドンを再訪したのは翌1712年11月のことでした。ヘンデルはこれ以降ハノーファーに帰国せずロンドンに住むようになりました。1714年にアン王女が崩御しステュアート朝が断絶すると、母親がステュアート家の血筋だったハノーファー選帝侯がグレートブリテン王国の国王ジョージ1世として迎えられることになりました。

 2年以上もの間、ハノーファー王国からの帰国命令を無視してロンドンに滞在していたヘンデルに対して特段の咎めはありませんでした。ヘンデルはジョージ1世と良好な関係を保ちました。ジョージ1世が1716年にハノーファーを訪れたときにはヘンデルも随行しています。

 1717年、ヘンデルはジョージ1世のテムズ川での船遊びのため「水上の音楽」を作曲しました。1717年7月17午後8時頃、ジョージ1世はホワイトホール宮殿から王室の船に乗りテムズ川をチェルシーに向けて遡上しました。この船にオーケストラが乗る別の船が随行し、ヘンデルの「水上の音楽」が演奏されました。チェルシーまでの往復の間に3回も演奏され川辺では多くのロンドン市民がこの演奏を楽しみました。ジョージ1世は11時頃に宮殿に戻り「水上の音楽」にたいへん満足しました。

テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀に描かれた想像図)
テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀に描かれた想像図)

 ヘンデルの「水上の音楽」を初めて聴いた人でも、どこかで聴いたことがあるメロディが流れます。下記の19分30秒ぐらいから始まる「第9曲」のホーンパイプ風ニ長調3/2拍子などは有名です。

 ところでヘンデルの「水上の音楽」を聴いていると自分はドラゴン・クエストで王宮を訪れるシーンを思い出してしまいます。

ヘンデル:組曲「水上の音楽」

【関連記事】

ヘンデルの水上の音楽の初演(1717年7月17日)

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2024年7月16日 (火)

虹の日(7月16日)

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 7月16日は、なな(7)いろ(16)と七色の語呂合わせと、この時期は雨上がりの空に虹がかかることが多いことから「虹の日」とされています。「虹の日」を制定したのはザイナーの山内康弘さんで、単に虹の現象だけではなく「人と人、人と自然、世代と世代が七色の虹のように結びつく日」としています。

虹(Rainbow)
虹(Rainbow)

 さて日本では虹は赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色とされていますが、これはプリズムで太陽を分光したアイザック・ニュートンの論文に基づいて作られた日本の教科書によるものです。

ニュートンと太陽光のプリズム分光実験
ニュートンと太陽光のプリズム分光実験

 もともと英国では虹は赤・黄・緑・青・紫の5色でしたがニュートンは太陽光が綺麗な虹色に分かれたのを見て神聖な自然現象には神聖な数字7が関係すると考えました。そして赤と黄の間に植物のオレンジの色である橙 、 青と紫の間に植物染料インディゴの色である藍を加えて7色としたのです。

  参考 ニュートンはなぜ虹の色を7色と決めたのか-虹ができる仕組み⑤

 もともと日本人も虹は7色とは考えていませんでした。浮世絵などに描かれている虹は白色であったり、色がつけられていても3色程度です。

  参考 虹の色の数と日本の文化-虹ができる仕組み⑥

 世界各国で虹が何色と捉えられているか調べてみるとやはり5色が多いようです。虹は何色かというのはヒトの色覚に加えて言語や文化が関係しています。米国における理科の学習では虹は7色は無理があるとして藍を除いて6色とされているようです。橙色(オレンジ色)は視認できるが青色と紫色と間の藍色は見分けにくということのようです。

  参考 世界各国の虹の色の数-虹ができる仕組み⑦

 さて、さまざまな事情がありながらも日本では虹はニュートンの論文に基づく学習で7色と認識されています。これは偶然ではありますが日本人は古くから藍染で藍色に慣れ親しんでいました。言語的には青も緑もまとめて青と表現していて日本人ですが藍色は特別だったようです。そう考えると日本人はニュートンの論文に基づく教育で天下り的に虹は7色としたのではなく虹の中に藍色を認識しているのかもしれません。

【参考記事】

虹ができる仕組み

虹の神話ー虹ができる仕組み①

虹の色はどこから?ー虹ができる仕組み②

大空にかかるスペクトル-虹ができる仕組み③

虹の形が円弧の理由ー虹ができる仕組み④

ニュートンはなぜ虹の色を7色と決めたのか-虹ができる仕組み⑤

虹の色の数と日本の文化-虹ができる仕組み⑥

世界各国の虹の色の数-虹ができる仕組み⑦

AIフォトエンハンサーで虹の色を強調してみたら7色を確認できた

 

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2024年7月15日 (月)

幕末の蒸気船物語(単行本)

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カテゴリー「船舶

幕末の蒸気船物語 単行本 – 2004/4/28

元綱 数道 (著)

 幕末に現れた列強の異国船が日本の社会を大きく変化させました。最初は異国船打ち払い令で厳しい対応をしてきた幕府も圧倒的な軍事力の差を前にして異国船を穏便に追い返すようになります。そしてアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが率いる艦隊の来航、いわゆる黒船来航では、それまで日本人が見たこともないような黒い煙をもくもくと吐く蒸気船が浦賀沖に現れました。幕政が混乱していく中で幕府も海軍の増強に取り組みはじめました。

 この本は幕末の異国から来航した蒸気船、幕府や各藩が海外から購入したり自ら造船した蒸気船をエピソードとともに解説しています。単なる蒸気船の紹介だけでなく日本の社会がどのように変わっていったのかまで知ることができます。

 著者の元綱数道氏は東京大学船舶工学科出身で造船に関わってきた方のようで蒸気船の仕組みや構造や抱えていた課題など技術的な解説もしっかりしていて読みごたえがあります。

商品の説明

内容(「MARC」データベースより

幕末期に登場した海外・日本の蒸気船について、各船舶の要目表や実際の図面等からその実像を明らかにする。ペリー来航を期に活躍し始めた蒸気船たちを歴史的エピソードに沿って解説。写真や図版を多数収録する。

幕末期に登場した海外・日本の蒸気船を黒船来航など
歴史的なエピソードに沿って紹介。
幕末期の人々は、大海原を渡って異国の船を見て
何を感じたのだろうか。
ペリー来航、薩英戦争、下関戦争、兵庫開港、箱館海戦など
歴史上に登場する蒸気船の真の姿に迫る。
【住田海事史奨励賞受賞】

登録情報


出版社 ‏ : ‎ 成山堂書店 (2004/4/28)
発売日 ‏ : ‎ 2004/4/28
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 210ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4425302516
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4425302512

幕末の蒸気船物語 単行本 – 2004/4/28

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