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2026年4月 7日 (火)

江戸幕府が修学と商業目的の海外渡航を許可(慶応2年1866年4月7日)

 嘉永六年(1853年)のマシュー・ペリー提督による黒船来航をきっかけに江戸幕府は安政五年(1858年)にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と修好通商条約を締結しました(安政五カ国条約)。その後、万延元年(1860年)にポルトガル、万延元年(1861年)にプロセイン、文久3年(1864年)にスイスと同様の条約を締結しています。

 江戸幕府は長らく日本人の海外渡航を原則として禁止していました。開国後に海外渡航が許されたのは外交使節や幕府関係者のみでした。しかしながら多くの日本人が幕府の許可なく海外に渡航しています。それらはすべて密航にあたりました。密航を禁じることが実質的に困難になると、幕府は慶応2年(1866年)4月7日に日本人の海外渡航を許可する觸達を出しました。また幕府はこの年にベルギー、イタリア、デンマークと修好通商条約を締結しています。

寅四月七日觸達

 海外諸國へ向後、学科修業又は商業之ため相越度志願之者は、願出次第、御差許可相成候。

 尤(もっとも)、糺(ただ)之上、御免之印章可相渡候間、其者名前並(ならびに)如何様之手続を以、何々之儀にて何れ之國へ罷越度旨等、委細相認(したため)、陪臣は其主人、百姓町人は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、其筋へ可申立候。

 若(もし)御免之印章なくして、竊(ひそか)に相越候者も有之候ハヽ、厳重可申付候間、心得違無之様、主人々々又は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、入念可被申付候。

四月

現代語訳

 今後、学問の修行や商売のために海外諸国へ渡航したいと希望する者は、願い出ればすぐに許可が下りることになりました。

 もっとも身元などを審査した上で、許可の証をお渡しします。つきましては、渡航希望者の氏名、どのような手続きを経て、何の目的で、どの国へ行きたいのかといった詳細を詳しく書き記してください。申請方法は、将軍に直接仕えていない陪臣は自分の主君を通じて、農民や町人はその地の奉行、代官、領主、地頭などの役所を通じて申し出てください。

 もし許可証を持たずに密入国(密航)しようとする者がいれば、厳重に処罰します。 手違いや間違いのないよう、それぞれの主君や各地の役人は、人々に念入りに言い聞かせてください。

 幕府が許可した海外渡航の条件は、修学(学術・留学目的)と商業(貿易・ビジネス目的)に限るものでしたが、身分を問わず誰でも申請が可能でした。海外渡航の対象国は条約締結済みの国に限られました。この觸達によって、日本人は密航を犯さず合法的に海外渡航できるようになりました。多くの日本人が海外渡航すると、多くの西洋の知識や技術が導入されるようになり、商業活動の拡大と経済発展に繋がりました。

 海外渡航を許可した幕府が手間取ったのは世界に通用する旅券の作成でした。国内に駐在していた欧米の外交官の協力を得て幕府が初めて発行された旅券「御免之印章」は同年10月17日に日本帝国一座を率いてパリ万博に参加する隅田川浪五郎に対して発行されました。

慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)
慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)

 

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2026年4月 5日 (日)

イースター島が発見される(1722年4月5日)

 1721年8月1日、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の航海者・探検家のヤーコプ・ロッヘフェーンはオランダ西インド会社の3隻の帆船からなる艦隊を率いてオーストラリア大陸に向けて出港しました。艦隊はフォークランド諸島を経て、ルメール海峡を通って南下し、太平洋に至りました。1722年2月にチリの沖合670キロメートルに存在するロビンソン・クルーソー島(旧名マサティエラ島)、アレハンドロ・セルカーク島、サンタ・クララ島の3つの島からなるファン・フェルナンデス諸島に滞在し、同年3月にオーストラリアに向けて出港しました。

ロッヘフェーンの航路
ロッヘフェーンの航路

 1772年4月5日の復活祭(イースター)の夜、ロッヘフェーンの艦隊は南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見し、発見日にちなみ島名を復活祭の島と名付けたと伝えられています。ロッヘフェーンは1,000体を超えるモアイ像とその前で祈りを捧げる島民を目撃しました。ロッヘフェーンはイースター島に数千人の島民がいたことを報告しています。

イースター島のモアイ像
イースター島のモアイ像

 なお、イースター島の現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)で正式な名称はパスクア島(スペイン語:Isla de Pascua)です。スペイン語でPascuaは復活祭(イースター)を意味します。

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2026年4月 1日 (水)

自転車青切符導入で暴走三輪車の摘発を検討|ライアー新聞

ライアー新聞 2026年4月1日


 本日2026年4月1日から道路交通法が改正され自転車の交通違反に反則通告制度が導入されました。これまでは自転車の反則に対しては指導警告や赤切符(刑事手続き)の取り締まりでしたが、青切符を導入することによって中間的な取り締まりを行うことができるようになりました。蒼っ切符を切られた場合、一定期間内に反則金を納めると刑事罰が科されません。

 この制度は16歳以上の自転車運転者が対象となりますが、道路交通法改正前からこの年齢制限を逆手にとった幼児たちによる三輪車集団暴走が目立つようになりました。警察庁は現行法では幼児たちの三輪車集団暴走を取り締まることができないと警戒を強めています。

幼児たちによる三輪車集団暴走
幼児たちによる三輪車集団暴走

 警察の関係者によりますと、幼児たちの三輪車集団暴走は将来的にバイクや自動車での集団暴走行為に発展する恐れがあるとして、16歳未満であっても悪質な幼児たちについては特定暴走指定幼児集団に指定できる法改正も視野に入れているとのことです。この法改正では三輪車のみではなく悪質なペダルカーを運転する幼児たちも取り締まりの対象となるとのことです。なお暴走に加担した大人も処罰の対象となるようです。

幼児たちによるペダルカー集団暴走
幼児たちによるペダルカー集団暴走

 これに対して幼児たちは道路交通法第2条第1項第11号の軽車両の定義で小児用の車は除外されており歩行者扱いになっていると反発しています。また自分たちの走行は暴走には当たらない。昭和の時代にはもっと自由に走ることができたと聞いている。交通事情を悪化させ割れ和江から三輪車で自由に走行する権利を奪ったのは大人たちと政府に責任があるとして、これからも三輪車の走行を通じて法改正の反対を訴えていくとのことです。

 一部の幼児たちは5月5日の子どもの日にデモ走行を行うと声明を出しています。警察は沿道に鯉のぼりを掲げたり、柏餅やチョコレートパフェやお菓子などを配置したりする対策を施し幼児たちの暴走を阻止するとしています。また仮面ライダーに扮した白バイ隊員を出動させ、「三輪車の暴走は仮面ライダーだからできるんだ。子どものおまえたちには無理だ。まねをすると怪我をする。いいな!」と説得を試みるとのことです。

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2026年3月30日 (月)

ニフティニュース(@niftyニュース)の提供社終了(2026年3月31日)

 

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 ニフティニュース(@niftyニュース)のサービスがリニューアルに伴い、「@niftyニュース Webサイト」「@niftyニュース スマートフォンアプリ」のサービス提供が2026年3月31日(火)17時をもちまして終了します。

ニフティニュース(@niftyニュース)「夜明け前」のページ
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 本ブログ「夜明け前(開陽)」は2020年10月に優良ブロガーとしてニフティニュース(@niftyニュース)の提供社にして頂きました。本ブログの記事をニフティニュース(@niftyニュース)で掲載して頂きましたが、今回のサービスのリニューアルに伴い提供社としての役割を終了いたします。長い間、ありがとうございました。

ニフティニュース(@niftyニュース)提供者一覧抜粋
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 なお本ブログは継続してまいりますので、今後もよろしくお願い致します。

 

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2026年3月27日 (金)

幕末の水戸藩|天狗党が挙兵(元治元年 1864年3月27日)

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 文政12年(1829年)9月、水戸藩第8代藩主の徳川斉脩は家督相続を公表しないまま病床に伏していました。斉脩には嫡子がなかったため異母弟の敬三郎が後継者でしたが、江戸家老の榊原照昌らは第11代将軍徳川家斉の子で斉脩の正室の峰姫の弟にあたる清水恒之丞を後継者とすべきと主張しました。水戸藩の多くの家臣は藩の財政が厳しい状況にあったことから家斉の子が藩主になれば江戸幕府からの支援が厚くなると考え後継者を恒之丞とすることに賛成しました。

 これに対して水戸藩士で水戸学学者の藤田東湖と会沢正志斎は異母弟とはいえ血筋から敬三郎を後継者とするべきと主張し江戸幕府に再考を求めました。同年10月4日に斉脩が亡くなると後継者を敬三郎とすると記された遺書が公開されたため、敬三郎は斉脩の養子となり江戸幕府から承認を得て水戸藩第9代藩主となりました。敬三郎は名を徳川斉昭と改めました。一方の恒之丞は後に徳川斉彊と名を改め紀州徳川家を継ぎ紀伊和歌山藩の第12代藩主となりました。

水戸藩第9代藩主 徳川斉昭
水戸藩第9代藩主 徳川斉昭

 水戸藩主となった徳川斉昭は天保12年(1841年)に藩校の弘道館を設立し広く人材を登用しました。斉昭は自身の擁立に尽力した東湖や正志斎らを家臣として重用しました。幼い頃から正志斎のもとで水戸学を学んでいた斉昭は正志斎が体系化した尊皇攘夷思想を水戸学に取り入れ藩政改革を進めました。斉昭が進める藩政改革が過激化すると、反対派は彼らが鼻高々と偉ぶっていると揶揄し天狗党(天狗連)と呼びました。

 斉昭を支持していた江戸幕府老中の水野忠邦が失脚すると後任の阿部正弘は天保15年(1844年)に過激な藩政改革を進める斉昭を強制的に隠居させ水戸藩の家督を嫡男の慶篤に譲らせました。これによって天狗党の面々も謹慎を言い渡されました。斉昭は正弘に水戸藩では義をもって国家に忠誠する有志を天狗と呼ぶと主張し反対派を牽制しました。その後、水野忠邦が老中に短期間復帰したときに斉昭は謹慎を解かれ第10代藩主徳川慶篤の後見となり水戸藩の藩政に復権しました。

 【参考】ビスケットの日(2月28日)

 嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが率いる黒船艦隊が浦賀に来航すると、阿部正弘は人材不足の中で斉昭の軍事と外交に関する能力を評価し斉昭を海防参与に命じました。これによって斉昭は幕政に関わるようになりました。圧倒的な軍事力を背景に開国を求めるペリーに対して幕府は嘉永7年(1854年)に日米和親条約を締結しました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 日米修好通商条約の締結後、アメリカ合衆国の初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスは幕府に通商条約の締結を求めました。安政4年(1857年)に正弘が死去すると、老中首座となった堀田正睦は米国をはじめとする列強を前に修好通商条約を締結せざるを得ないと考えるようになりました。斉昭はこれに強く反対しました。とりわけ幕政に関わり開国を主張していた彦根藩主の井伊直弼と激しく対立しました。

 安政2年(1855年)10月、安政江戸地震が発生し小石川の水戸藩藩邸が倒壊しました。この地震で斉昭の重臣の戸田忠太夫、藤田東湖が死亡しています。重臣を失った水戸藩では内部抗争が激しくなりました。

 【参考】小石川後楽園が完成(1629年9月28日)

 【参考】幕末の混乱期に大地震|安政江戸地震(1855年10月2日)

 正睦は孝明天皇の勅許を得るために上京しましたが、朝廷の公家たちはこれに反対しました。和親条約を許した孝明天皇も通商条約については国の秩序を乱すことになると考え勅許を拒否しました。勅許を得られなかった正睦は将軍の信頼を失い失脚することになりました。

 【参考】廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日)

 斉昭と直弼は第13代将軍の徳川家定の継嗣者の擁立でも対立しました。斉昭は実子の一橋家当主の徳川慶喜を擁立する一橋派、直弼は紀州藩主の徳川慶福を擁立する南紀派を形成し対立しました。

 【参考】一橋徳川家を創設(1740年11月18日)

 安政5年(1858年)に直弼が大老の座につくと南紀派が擁立する慶福が第13代将軍の徳川家茂となりました。直弼は列強との交渉が進む中で朝廷を説得する時間的余裕がないと考え天皇の勅許を得ぬまま日米修好通商条約を締結しました。

 【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

 斉昭は将軍の後継問題と条約締結に関し水戸藩主の慶篤、尾張藩主の徳川慶恕とともに無断で江戸城に登城し直弼に詰問しました。直弼はこれを問題視し斉昭を幕政から外し水戸藩江戸屋敷での謹慎を命じました。孝明天皇は勅許を得ずに条約を締結した江戸幕府を問題視し、水戸藩に対して幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅」を直接下賜しました。

 【参考】戊午の密勅(1858年8月8日)

 安政6年(1859年)8月、直弼は江戸幕府を飛び越えて水戸藩に下賜された「戊午の密勅」は水戸藩の陰謀とし、水戸藩家老などを処罰し、斉昭に永蟄居を命じ、慶篤には出仕を禁じ謹慎処分としました。これをきっかけに井伊直弼は一橋派や尊皇攘夷派を弾圧を始めました。これが「安政の大獄」です。

 この勅書の扱いについて水戸藩内でも対立が起こりました。会沢正志斎ら尊攘鎮派は幕府の命に従い勅書を朝廷に返納することを主張しましたが、これに対して家老で武田耕雲斎を中心とした尊攘激派は密勅を実行するべきと主張しました。斉昭は正志斎の説得により安政7年(1860年)に勅書の返納を決断しましたが藩内の対立が激化したため返納を延期しました。

 その後、尊攘激派の高橋愛諸らは実力行使で勅書を奪うため挙兵しました。これに対して正志斎は鎮圧軍を編成しましたが、これを知った愛諸らは水戸藩を脱藩して江戸に逃れました。「安政の大獄」に憤慨していた水戸脱藩藩士と薩摩浪士の有村兼武と有村兼清らは同年3月3日に上巳の節句(桃の節句)の祝いで登城してきた直弼を江戸城桜田門外で襲撃し暗殺しました。これが桜田門外の変です。この事件により勅書の返納はうやむやになりました。孝明天皇は黒船来航、安政大地震、桜田門外の変と災異(凶事)が続いたため元号を安政から万延に改元する一方で幕府に対して攘夷を実行するよう求めました。

 【参考】上巳の節句とひな祭り(3月3日)

 【参考】万延に改元(1860年3月18日)

 同年8月15日、斉昭が病没すると水戸藩の混乱は激化しました。尊攘激派は第一次東禅寺事件や坂下門外の変を起こしましたが首謀者は討ち取られ勢力を弱めました。

 【参考】第一次東禅寺事件(1861年5月28日)

 文久2年(1862年)12月、孝明天皇は幕府に対し攘夷実行を勅命しました。幕府は列強が要求する開国の流れは止められず攘夷は不可能と考えていました。文久3年(1863年)3月、第14代将軍の徳川家茂は朝廷の要求に応じて上洛することになりました。このとき将軍後見職となっていた一橋慶喜は家茂に先立ち上洛することになり、慶喜の実家の水戸藩主の徳川慶篤が随行することになりました。

 この頃、水戸藩では武田耕雲斎ら尊攘激派が藩政の中心となり、尊王攘夷派の有志の結集を進めていました。武田耕雲斎、山国兵部、藤田東湖の四男の藤田小四郎などが慶篤に随行しました。上洛後、小四郎らは長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞と出会い尊皇攘夷思想を強めていきました。その後、上洛した家茂は朝廷と幕府で協力する公武合体を前提に同年5月10日をもって攘夷を実行することを孝明天皇に約束しました。実際のところ幕府は武力による攘夷は困難なため外交的な手続きで開港地を閉港することにしました。幕府は通商条約を見直すことと海防を強化することを諸藩に命じました。しかし、列強との交渉は容易いものではなく開国派の反対もあり攘夷は実行できずにいました。

 攘夷の約束の期日の5月10日、長州藩は幕府の攘夷の命令に従うという口実で馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船に砲撃を開始しました。この事件は列強の連合軍と長州藩の間で馬関戦争(下関戦争)に発展しました。武力による攘夷は困難であることを理解していた孝明天皇は過激な攘夷派の長州藩や公家を排除したいと考えるようになりました。

 自分の知らないところで京都守護職の会津藩藩主の松平容保に江戸に戻る勅命が出ていることを知った孝明天皇は会津藩と薩摩藩に過激な攘夷派を排除することを命じました。同年8月の「八月十八日の政変」により長州藩と攘夷派の公家は京都から一掃されました。この「八月十八日の政変」で活躍したのが江戸から家茂の護衛で随行し京都に残留した壬生浪士組です。容保は彼らの功績を評価し新選組という隊名を与えました。

 【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

 【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

 【参考】新撰組の日(1863年3月13日)

 「八月十八日の政変」後、孝明天皇は改めて幕府に対して攘夷実行を命じました。慶喜は横浜港を閉港する攘夷を計画しましたが幕府の開港派が反発したため実行できませんでした。諸藩の攘夷派の志士たちは長州藩が京都から排除されたため水戸藩に期待を寄せるようになりました。水戸に多くの攘夷派の志士が集まると、小四郎は長州藩と連携した挙兵を企てました。耕雲斎は小四郎を止めようとしましたが、小四郎は挙兵の準備を進めました。このとき小四郎は水戸学に傾倒し尊皇攘夷派で倒幕を企ていた尾高惇忠、渋沢栄一、渋沢成一郎とも交流しています。尾高惇忠らは独自に上野国群馬郡(群馬県高崎市)の高松城乗っ取り鎌倉街道を進軍し横浜の外国人居留地を焼き討ちにして攘夷を行い長州藩と幕府を倒す計画を立てましたが実行には至りませんでした。

 【参考】有為転変の人生|渋沢成一郎と渋沢栄一

 文久4年(1864年)1月、将軍家茂は2度目の上洛を果たしました。慶喜は参預会議において横浜港の閉港について議論したものの開港派の諸侯と対立し参預会議を解体しました。朝廷から禁裏御守衛総督に任命された慶喜は水戸藩に協力を要請し、水戸藩士の原市之進と梅沢孫太郎を家臣に加えました。耕雲斎は慶喜の要請で数百名の水戸藩士を京都に派遣しました。

 元治元年(1864年)3月27日、攘夷が実行されないことに不満を持った藤田小四郎は横浜港の閉港を求めて、水戸町奉行の田丸稲之衛門を主将とする62人の同志と筑波山で挙兵しました。筑波山には各地から浪士などが集結し総勢1400人となり筑波勢と呼ばれました。彼らは天狗党を中心とする過激な尊皇攘夷派でしたが、表向きには徳川家康の遺訓として攘夷を行うこと記した檄文をもって日光東照宮で攘夷決行の祈願をしています。この筑波勢が天狗党です。このような状態の中で武田耕雲斎は藩政の混乱を収拾しようとしましたが各派閥の折り合いをつけることができませんでした。藤田らの行動は水戸藩の方針に反する行為ではあったものの、耕雲斎は後に小四郎の熱心な説得により天狗党の首領となっています。

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