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【ココログ】夜明け前のニュース|ニフティニュース

 

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2022年1月18日 (火)

明暦の大火(旧暦 1657年1月18日)

 ときは明暦3年1月18日(新暦1657年3月2日)、長らく雨が降らず乾燥した日々が続いていた江戸の町。この日は朝から強風で江戸の町は人出もまばらで風の音が鳴り響いていたという。強風は午後になっても止まず、末の刻(14:00)あたりに本郷丸山(文京区本郷)の本妙寺が俄にざわついたと思ったら寺から出火。折からの強風により火は瞬く間に広がり、神田、京橋を超えて隅田川の対岸までが炎に包まれたのである。この火事がようやく鎮火して間もない翌19日巳の刻(10:00)、小石川伝通院表門下 (文京区春日)新鷹匠町の大番衆与力の宿所から再び出火、飯田橋から九段あたりが延焼し江戸城までもが炎に包まれた。江戸城の天守が失われたのもこの大火によるものである。そして、この大火が未だ鎮火に至っていない申の刻(16:00)、麹町5丁目の町家から3度目の出火があり永田町、桜田門外、芝一帯が延焼し、炎は新橋の海岸に至ったところで鎮火。「明暦の大火」と呼ばれる一連の大火は江戸城を含めた江戸の町の大部分を焼失し、数万人以上、一説では十万人の尊い命を奪ったのである。

田代幸春「江戸火事図巻」(1814年)
田代幸春「江戸火事図巻」(1814年)

 「明暦の大火」の出火原因には諸説あるが有名なものは「振袖火事」の伝承である。この伝承とは以下の通り。

 遠州屋の16歳の娘が母親と本妙寺に墓参りに行った帰りにすれ違った寺の小姓に一目惚れ。娘は小姓のことが忘れられなくなり、恋の病となって寝込んでしまう。見かねた両親が小姓が着ていた振袖を作ると、娘は振袖を大事に抱いて小姓に思いを馳せる日々を送るようになる。しかし、娘の病が回復することはなくついに若い命を落とす。葬儀は本妙寺で執り行われ、両親は振袖を娘の棺にかけて見送ったのである。

 当時は棺にかけられた遺品は寺男衆がもらう風習があり、寺男衆は娘の振袖を売却。振袖は16歳の町娘のものとなったが、どういうわけかこの娘も病にかかり若い命を落とす。葬儀は最初の娘の命日にあたる日に本妙寺で執り行われ、振袖は最初の娘のときと同様に娘の棺にかけられたのである。

 寺男衆はいつものように振袖を売却、振袖は別の16歳の町娘のものとなるがこの娘も病にかかって若い命を落としてしまう。振袖は娘のお棺にかけられ三度本妙寺に持ちこまれたのである。3人の娘が若い命を落としたことで寺男衆は振袖に何らかの因縁があると考え住職に相談。住職は振袖をお焚き上げして供養、読経をしながら御護摩の火に振袖を投じた瞬間に強風が吹きあれ火のついた振袖がまるで人が立ち上がったように舞い上がり寺の軒先のところで燃え上がった。あっという間に寺は炎に包まれ、炎は強風で辺りへと広がり、江戸の町を焼き尽くしたのである。この伝承は作り話とされているが3人の娘の命を奪った振袖、そして三カ所からの出火。作り話では収まらなさそうなのである。

 さて本妙寺の隣には徳川家光と家綱の2代にわたって老中を務めた阿部忠秋の武家屋敷があったという。実は「明暦の大火」の出火元は阿部忠秋の武家屋敷だったという説がある。この説によれば江戸幕府の老中の家から出た火が江戸の町を焼き払ったという不祥事を隠蔽するため、前述の伝承とともに本妙寺を出火元としたのである。これは本妙寺火元引受説と呼ばれる。大火の後、火元の本妙寺にはお咎めはなく以前より大きな寺社が再建され、地域の寺院を統制する触頭(ふれがしら)に取り立てられている。また阿部家は本妙寺に大正時代まで毎年多額の奉納を続けていた。このようなことから本妙寺火元引受説が有力視され、当の本妙寺もこの説を支持している。

「明暦の大火」によって江戸の町の区画整理が進んだという。当時の江戸の町は過密化、衛生状態も悪く治安も悪化していた。江戸幕府は区画整理をしようと考えていたが住民と立ち退きの交渉をしたり、立ち退き後の生活を補償したりする必要がある。そこで幕府が放火し江戸の町を焼き払ったという幕府放火説がある。放火は最初の本妙寺の火事からか、2回目あるいは3回目の火事からかなのかはわからないが、「明暦の大火」は江戸城まで失うほどのものであったことからこの説は考えにくいのではないか。

 そもそも「明暦の大火」で都市改造が進んだという説は誤りだったという話もある。

明暦の大火: 「都市改造」という神話 (532) (歴史文化ライブラリー 532)

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2022年1月17日 (月)

「今月今夜の月の日」はどんな月(1897年1月17日)

 「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」。尾崎紅葉の金色夜叉の舞台や映画の名場面、熱海の海岸で主人公の間貫一が許嫁だったのに別の男に嫁いだお宮を問い詰めて蹴り飛ばして言い放った言葉です。このとき2人を見守っていたのは夜空に輝く満月でした。

 さて、間貫一は小説では次のように言っています。

「吁、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が月が月が曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」

 つまりこの出来事は1月17日のことです。金色夜叉が読売新聞に連載されたのは明治30年(1897年)、日本で暦が新暦(太陽暦)になったのは旧暦(太陰暦)の明治5年(1872年)です。ですから1897年1月17日は太陽暦になります。

 月齢カレンダーで1897年1月の月を調べてみると完全な満月は19日ですが、17日は月齢13.9でほぼ満月です。1897年1月17日を旧暦に換算すると1896年12月15日となります。太陰暦では毎月15日もしくは16日は十五夜の満月です。金色夜叉の1月17日は満月だったのは間違いないでしょう。

 さて新暦は太陽暦ですから今日の月と1年後の今日の月は異なります。たとえばこの記事を書いている2022年1月17日(旧暦2021年12月15日)の月は月齢14.4でほとんど満月ですが(満月は18日)、1年前の2021年1月17日(旧暦2020年12月5日)の月は月齢3.9で広義で言うところの三日月です。

 同様に金色夜叉1897年1月17日の1年後の1898年1月17日(旧暦1897年12月25日)の月を調べてみると月齢24.3の有明月です。次に満月になるのは3年後の1900年1月17日(旧暦1899年12月17日、月齢15.5 完全な満月は新暦16日)になります。1904年1月17日(旧暦1903年11月30日)の月は月齢29.2で新月の前日ですから夜空に月は見えません。

 ということで物語の行く末はともかく貫一が毎年の今月今夜に1月17日と同じ満月を見続けることはなかったのです。「月が涙で曇る」は月の満ち欠けのことにでもしておきましょう。

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2022年1月16日 (日)

電話をかける子ども|昭和の風景④

 昭和43年(1965年)撮影の写真。父親の勤務先の事務所から自宅の母親に電話する5歳の子どもです。手慣れた感じで受話器を持っていますが、ダイヤルは回してもらったのでしょう。

電話をかける子ども(昭和43年)
電話をかける子ども(昭和43年)

 この3年前の昭和40年(1965年)の写真になります。少年は2歳。おもちゃの電話をかけて話をしているかのように気取っていますが・・・

 おぼちゃん、受話器の向きが逆ですぞ。

おもちゃの電話をかける子ども(昭和40年)
おもちゃの電話をかける子ども(昭和40年)

 

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2022年1月15日 (土)

第一回成人式(1949年1月15日)

 成人式は日本各地の地方公共団体により主に1月第2月曜日の祝日「成人の日」に開催されいます。

 成人を祝う通過儀礼は昔からありますが、現在実施されている成人式は1946年11月22日に埼玉県北足立郡蕨町(現 蕨市)で開催された「青年祭」がもとになったと考えられています.「青年祭」は第二次世界大戦敗戦の占領下で次世代を担う若者達を励まし明るい希望を持ってもおうと開催されたもので、現在の「成人式」と同じような形式の「成年式」が行われました。

 この「青年祭」に注目した政府は1948年に公布・施行した「国民の祝日に関する法律」に「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」という趣旨で1月15日を「成人の日」と制定しました。1月15日が選ばれたのは小正月でこの日に元服の儀が執り行われたいたことに由来します。そして1949年1月15日に全国各地で祝日制定後の第一回「成人式」が執り行われました。

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 1998年の「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」によってハッピーマンデー制度が導入されたことにより、「成人の日」は2000年からは1月第2月曜日となりました。これによって「成人式の日」は1月第2月曜日に執り行われるようになりました。

 自分が成人を迎えたのはずいぶん前のことですが、成人式にはあまり興味がなかったため前夜は夜更かしし家で寝ていました(^^ゞ

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2022年1月14日 (金)

ミニスキージャンプ大会

 雪が降り積もると子どもたちが遊びだすのがミニスキー。ミニスキーは長さ30~50 cmぐらいのプラスチックで作られたスキー板でプラスチックのバンドでゴム長ぐつに固定します。そして平地をスケートのように滑ったり、坂道をスキーのように滑ったりして遊ぶのです。なにせ冬期間の雪のあるとき限定の遊びなので子どもたちはおおはしゃぎです。この年、ミニスキー初デビューの4歳の男の子。

ミニスキーで出動
ミニスキーで出動

 ある年にミニスキーの新しい遊び方が生まれました。それはミニスキーのジャンプです。雪で坂を作ってジャンプ台を作り、上から滑って飛び出します。小学生のお兄ちゃん、本人は滑走したー飛んだー感でいっぱいのはずですがはたからみるとこんな感じです。

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 この年を境に冬になると近所にはいたるところにミニスキージャンプ台が作られるようになりました。小学校の高学年や中学生は公園の滑り台などを利用してジャンプ台を作っていました。上の写真のジャンプ台は物置の屋根から落ちて積もった雪をそのまま利用して作ったものです。

 さて、この年からどうしてミニスキージャンプが流行り出したのでしょう。その年は1972年。札幌オリンピックの70 m級ジャンプで笠谷・金野・青地選手が金・銀・銅メダルを独占し「日の丸飛行隊として大人気となった年だったのです。

 子どもたちは日の丸飛行隊気取りでゴーグルをかけてミニスキージャンプ台に集まります。自分が飛んだ位置にストックを刺して飛距離を比べ金メダルだ銀メダルだと競ったものです。

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