ようこそ!「夜明け前」(開陽)へ
| 固定リンク | 2
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク | 2
| コメント (0)
| トラックバック (0)
映画「サイン・オブ・ゴッド」日本未公開のドイツの映画です。ドイツ語のタイトルは「Das Jesus Video」です。
原作は1998年に出版された小説アンドレアス・エシュバッハ著「イエスのビデオ」で、タイムトラベラーによって撮影されたイエス・キリストの映像を記録しているビデオカメラをめぐる物語です。この小説は初版はそれほど売れませでしたが、後にペーパーバックで再リリースされたものがベストセラーになり映画化されました。映画は小説とは多くの核心部分が変更されています。
イスラエルの遺跡で発掘を行っていた考古学者ステファンは2000年前の人骨を発見します。この人骨を調査したところ現代人のものであることが判明しタイムトラベラーの可能性が浮上します。この人骨の側にはビデオカメラでイエス・キリストを撮影したというメモが残されていました。ステファンは調査を開始しますが謎の秘密結社に襲われます。
この映画は考古学者がタイムトラベラーの謎と秘密結社の陰謀に挑むSFアドベンチャー作品です。日本未公開でしたがビデオで見ることができます。いろいろ突っ込みどころがたくさんありますがSFアドベンチャーとしては楽しめます。
監督:セバスチャン・ニーマン/原作:アンドレアス・エシュバッハ/脚本:マーティン・リッツェンホッフ/音楽:エゴン・リーデル
出演:マティアス・ケーベルリン、ナイケ・リベリ、マヌウ・リボウスキー、ハンス・ディール、ディートリッヒ・ホリンダーボイマー 他
2003年 / ドイツ
近藤勇や土方歳三は農民の出で武士になりたかったという見方がある。彼らが立身のため天然理心流の剣術を学んだのは間違いないだろう。そして幕末に現れた列強を目にして攘夷の志を強めていたのも間違いないであろう。彼らは武士になりたいだけで浪士組に応募し新選組になったのであろうか。近藤勇は彼らの志を垣間見ることができる書簡を残している。
近藤勇や土方歳三が京都に赴き新選組を結成することになったきっかけは、幕府が文久3年(1863年)初めに募った第14代将軍の徳川家茂の上洛の警護を担う浪士組に参加したことである。この浪士組の結成を発案して幕府に認めさせたのは庄内藩出身の清河八郎である。しかしながら清河の真の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷運動の志士を募ることであった。
同じ頃、イギリスは生麦事件の賠償問題で幕府に圧力をかけるためフランス、オランダ、アメリカに呼びかけ横浜港に四カ国の軍艦を入港させた。同年2月、浪士組が京都の壬生村に到着すると清河は浪士組の真の目的は尊皇攘夷活動であることを表明し攘夷のため江戸に戻ると主張したのである。これに強硬に反発したのが芹沢鴨と近藤勇であった。清河は浪士組を率いて江戸に戻ったが芹沢、近藤、土方をはじめとする後の新選組の面々は京都に在留することになった。
同年3月に江戸幕府は京都守護職を努めていた会津藩主の松平容保に旧都の治安維持を行う浪士を集めて組織化することを命じていた。京都に残留した芹沢・近藤らは会津藩士の野村左兵衛を通じてこれに応募した。彼らは松平容保の庇護のもと壬生浪士組と名乗るようになった。京都守護職の配下には幕臣で構成された正規組織の京都見廻組が存在していた。これに対して壬生浪士組は剣術に長けた町人や農民出身の浪士たちで厚生された会津藩預かりという立場の非正規組織であった。
同年3月、徳川家茂は徳川将軍としては第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛した。家茂の上洛の目的は朝廷から求められていた攘夷実行の委任を受けることであった。列強に対して武力で攘夷をすることは困難と考えた幕府は外交交渉により通商条約の破棄し鎖港することにしたが、幕府内の開国派との対立もあり攘夷実行ができたに状態が続いた。攘夷を実行しない幕府に対して業を煮やした長州藩の尊皇攘夷派の志士たちは朝廷内の尊皇攘夷派の公家たちと画策をはじめ、同年5月に馬関海峡において列強に対して攘夷を実行したのである。この混乱により家茂が江戸に戻ることがでたのは同年6月である。
【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)
長州藩による攘夷実行は孝明天皇と幕府の意図に反するものであった。長州藩と公家の尊皇攘夷派の不穏な動きが続く中、幕府は京都市中から過激な尊皇攘夷派の志士と公家たちを排除するため同年8月に八月十八日の政変を起こした。この政変において壬生浪士組が活躍し、松平容保は壬生浪士組を正規組織とし彼らに新選組という名前を授けた。新選組の面々は幕臣となったのである。
文久4年(1864年)正月、徳川家茂は2度目の上洛を果たした。前年の八十八日の政変に満足していた孝明天皇と朝廷は徳川家茂を従一位右大臣に昇進させた。松平容保も陸軍総裁職・軍事総裁職を命じられ、京都守護職には福井藩主の松平慶永が就任した。近藤勇は新選組を松平慶永の配下とすることに反対した。新選組は従来通り松平容保のもとで将軍警護のため京都市中の警備を強化した。同年2月、元号が元治に改元された。八十八日の政変により京都市中は平和を取り戻したが、京都から追放された長州藩と公家は武力により入京することを画策していた。政情不安を前に徳川家茂は同年5月に江戸へ帰還したが、このとき近藤勇は将軍の在留を求めたことを書簡に残している。
この書簡は近藤勇が新選組の支援者で武蔵国多摩郡小野路村の名主の小島鹿之助に送ったものである。この書簡で近藤勇は徳川家茂の帰府を止めようとしたが叶わなかったこと、将軍不在の京都で攘夷は実行できず当初の自分たちの目的が果たせないため新選組を解散して江戸に戻ることを決めたことを記している。そして新選組の解散の意向を京都の状況をよく理解している幕府老中の酒井忠績に願い出たが、京都の治安維持のため慰留されたので解散を撤回したと記しています。近藤勇は幕臣として幕府からの慰留の命令を受け入れ、「只々臣たる道を守り楠公、宋の岳飛の志に続き致し度候」と決意の言葉を残しています。
一次史料:【新選組】小島資料館所蔵資料(資料グループ) 近藤勇書簡(目録)
この決断により新選組は京都に残留することになり、同年6月に池田屋事件でその名を天下に知らしめました。新選組は大きな転機を迎えましたが同時に後戻りができなくなり幕末・明治維新の混乱の波に巻き込まれていくことになったのである。もし新選組が解散していたら彼らは薩摩や長州から恨みを買うこともなく、戊辰戦争にも巻き込まれることなく江戸で剣術家として暮らしていたであろう。
【参考】新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)
【参考】新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
日本では暦の編纂は朝廷の陰陽寮(おんようりょう )が所轄し土御門家(つちみかどけ)が担っていました。当時、暦として使われていたのは中国の唐の時代に作られ渤海から日本に伝わった太陰太陽暦「宣明暦」(せんみょうれき)でした。日本では宣明暦は862年から約823年間に渡り使われてきましたが、誤差が大きいため文化が発展するにつれて農業や祭礼に支障をきたすようになりました。
この暦の誤差を解決しようとして研究したのが囲碁技師で神道家の渋川春海(別名 安井算哲)です。春海は若い頃から数学・天文学を学び万治2年(1659年)21歳の時に天体観測のデータに基づき中国四国地で緯度・経度を計測しました。寛文10年(1670年)から独自に天体観測を行いその結果をもとにして中国の授時暦へ改暦を提唱しましたが、日食の予報に失敗したため却下されました。春海は朱子学者の中村惕斎の協力を得て日食の予報の失敗の原因を突き止め授時暦を日本向けに改良した大和暦を作成しました。 この暦は日本初の国産歴「貞享暦」(じょうきょうれき )として朝廷に採用されました。改暦の背景として、春海が碁や神道を通じた徳川光圀や土御門泰福などの有力者とのつながりがあったこと、観測データに基づいた春海の大和暦が正確で高く評価されたことが伝えられています。
江戸幕府は暦が政治や社会にとって重要であることを鑑み、編暦の権限を朝廷から幕府へ移管しました。貞享元年12月1日(1685年1月5日)に寺社奉行に天文方を設置し春海を250石で初代の幕府天文方「天文職」に任命しました。春海は貞享2年(1685年)に牛込藁町に司天台を設置し本格的な天体観測を始めました。この日を境に日本の暦は独自の観測に基づく科学的な裏付けのある暦法となりました。
天文方は延享4年(1747年)には若年寄支配となり幕府直轄の重要組織となりました。天台は何度かの移転を経て天明2年(1782年)に浅草に移設され浅草天文台(頒暦所)が設立されました。このとき初めて「天文台」と呼ばれるようになりました。
天文方は暦の編纂と全国への頒布、天体観測による暦の精度向上、地図作成や測量事業の役割を果たし江戸時代の科学技術の発展の象徴的組織となりました。
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
幕末に日本が欧米列強と締結した安政五カ国条約は日本にとって不平等な修好通商条約でした。とりわけ治外法権 (領事裁判権)や関税自主権がないことが大きな問題でした。この不平等条約は明治時代になっても引き継がれました。
明治政府はこの問題を解決するためアジア諸国以外の国と平等な修好通商条約を結び、それを足がかりとして列強と不平等条約の解消の交渉を行うことにしました。日本が選んだ国がメキシコでした。
日本とメキシコの関係は古くメキシコがスペイン領であった頃に始まりました。日本はスペインとの交易でメキシコと接点があったのです。慶長14年(1609年)9月にメキシコに向かうスペイン船サン・フランシスコ号が房総半島沖で台風に遭い座礁沈没しました。このとき周辺の住民が遭難者を手厚く保護しました。江戸幕府は船を失った彼らを三浦按針(ウィリアム・アダムス)が建造したサン・ブエナ・ベントゥーラ号でメキシコに送り届けました。これがきっかけでメキシコとの関係が始まりましたが、江戸幕府が鎖国政策を取ったため関係は途絶えました。
明治7年(1874年)、メキシコの科学者フランシスコ・ディアス・コバルビアスが金星の太陽面通過の観測のため日本を訪れました。コバルビアスは日本政府や日本人に厚遇されたことに感激し、帰国後に日本と外交・通商関係を結ぶよう強く主張しました。当時のメキシコは東アジアとの貿易拡大を望んでいたため日本との関係構築を重視しました。
明治21年(1888年)11月30日、ワシントンD.C.において駐米公使兼駐メキシコ公使の陸奥宗光と駐米メキシコ公使マティアス・ロメロの調印により日墨修好通商条約を締結されました。日墨修好通商条約は日本にとって初のアジア以外の国と結んだ初の平等条約となり、メキシコにとっては初のアジアの国と締結した条約となりました。お互いが意図していた目的の条約を締結することができたのです。
条約締結後、日本とメキシコの友好関係が築かれ明治24年(1891年)に両国公使を交換、明治30年(1897年)にはメキシコへの日本人移民が行われた。この移民政策を推進したのが元外務大臣の榎本武揚でした。いわゆる榎本移民団がメキシコ南東に位置するチアバス州に移住しました。
明治31年(1898年)、日本政府は平等条約を締結してくれたメキシコ政府に対して東京都千代田区永田町の在外公館の用地を提供しました。現在のメキシコ駐日大使館が永田町にある所以です。日墨修好通商条約は大正13年(1924年)に破棄されるまで維持されました。
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
マテガイは二枚貝綱マテガイ科の貝です。マテガイの殻は長さ10~15センチメートルの細長い筒状で外側の色は緑褐色で内側の色は白色をしています。鞘に収めた馬手差(刺刀)に似ていることからマテガイ(馬刀貝、馬蛤貝、蟶貝、鮲貝)と名付けられました。殻の両端から足と水管を出している姿が両手の手のように見えることから、両手を意味する真手(マテ)と名付けられたという説もあります。いたがい、かみそりがいとも呼ばれます。
マテガイは日本列島、朝鮮半島、台湾、中国大陸沿岸に分布し、潮間帯から水深20m程度の砂泥底に数十センチメートルから1メートルの巣穴を掘り垂直に潜って生息しています。日中は姿を現しませんが夜になると水管を伸ばして海水を濾してプランクトンを食べます。
マテガイの巣穴は菱形をしており他の生物の巣穴と比較的観点に見分けることができます。塩分濃度の変化に対して過敏で巣穴に塩を入れると驚いて飛び出てきます。この修正を利用して容易に捕まえることができることから潮干狩で人気の貝となっています。
古くから食用とされ平安時代中期に編纂された格式の式をまとめた法典「延喜式」(えんぎしき)には伊勢国と備前国がマテガイを雑薬として朝廷へ献上したことが記されています。マテガイの旬は冬から春です。見た目は良くありませんがクセのない食べやすい味です。酒蒸し、バター焼き、味噌汁など幅広い料理に使われます。鮮度の良いマテガイは刺身としても美味です。コリコリとした歯ごたえと、ほのかな甘み、磯の香りします。
【関連記事】
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。