ようこそ!「夜明け前」(開陽)へ
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ATOKイミクルはブラウザやエディで文書を閲覧中に単語を範囲指定してCtrlキーを2回押すことにより電子辞典で意味を調べられるATOK 2016以降に搭載されている機能です。この機能を活用しているユーザーには便利な機能かもしれませんが、必要のないユーザーにとっては余計な機能です。意図せずにATOKイミクルが表示されることが多いので必要のない人は無効にすると良いでしょう。
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古代ギリシアの哲学者ソクラテスは紀元前470年頃にアテナイで生まれました。西洋哲学における倫理学の基礎を築き、正しい行いや、どのように生きるかなどを説きました。ソクラテスは自著を残さなかったため謎に包まれた人物ですが弟子のプラトンの著述などを通じて業績が知られ、「汝自身を知れ」「無知の知」「善く生きろ」など名言が伝えられています。とりわけプラトンの「ソクラテスの弁明」は最も重要な古典的哲学書とされています。
ソクラテスは著名な政治家や詩人など様々な人々を訪ねて対話を行い、自身が無知を自覚しているのに対して世の中の多くの人々が無知であることを自覚していないことを知らしめる活動を行いました。この活動を通じて賢者ソクラテスの評判が広がりましたが、無知を指摘した人々からは疎まれるようになりました。ソクラテスを敵視する人が増え、ソクラテスの活動を非難する声も高まりました。そのような中で富裕層の若者たちがソクラテスの影響を受けてソクラテスと同じような活動を行うようになると、ソクラテスは若者たちに悪影響を及ぼしたという罪で裁判にかけられました。
ソクラテスは弁明を行いましたが、自説を曲げたり謝罪することはしませんでした。結果として毒薬の服用による死刑を宣告されました。弟子のプラトンたちは逃亡するように言い、ソクラテスに同情した牢屋番は牢屋の鍵を開けたままにしていたといいます。しかし、ソクラテスは自身の倫理学を貫き悪法も法であるという考えのもと死刑を受け入れ、紀元前399年4月27日に獄中で毒杯を飲みこの世を去りました。
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1853年の**黒船来航**は、江戸幕府の幕臣たちにとって、それまでの平穏な世を揺るがす大きな転換点となりました。浦賀奉行所の与力であった**中島三郎助**は、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に乗り込み交渉にあたるとともに、軍艦を念入りに調べて海防の必要性を説き、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の建造に尽力しました。幕府は海防強化のため**長崎海軍伝習所**を設立し、初代総監理の永井尚志のもと、勝海舟、中島三郎助、そして後に箱館政権を率いる**榎本武揚**(当時は釜次郎)らが西洋の軍事技術を学び、幕末の海軍を支える存在となりました。
榎本武揚はさらにオランダへ留学し、最新鋭の軍艦**開陽丸**の建造立ち会いや西洋の諸学問の習得に励みました。一方、江戸では陸軍の近代化が進められ、**大鳥圭介**や荒井郁之助らがフランス軍事顧問団から洋式戦術の訓練を受け、伝習隊として組織されました。しかし、大政奉還や江戸城無血開城を経て徳川幕府が終焉を迎えると、抗戦派の幕臣や志士たちはそれぞれの思いを胸に、新政府軍に対抗するため北へと向かいます。榎本は開陽丸を旗艦とする艦隊を率いて品川沖を脱出し、土方歳三ら旧幕府軍の志士たちと合流して**蝦夷地**を目指しました。
彼らは箱館の**五稜郭**を占領し、蝦夷地の開拓とロシアの侵略に対する防衛を拠点とする**箱館政権**を樹立しました。日本初の選挙(公選入札)によって総裁に選ばれた榎本は、旧幕臣の救済を願う嘆願書を新政府に送りましたが、新政府はこれを認めず、箱館戦争が開戦しました。幕臣たちは圧倒的な軍事力を持つ新政府軍に対し、二股口の戦いで土方歳三が小銃隊を指揮して撃退するなど、各地で激戦を繰り広げました。しかし、主力艦である開陽丸を座礁で失い制海権を奪われたことで、次第に窮地に立たされていきます。
明治2年5月の箱館総攻撃において、**土方歳三**は孤立した弁天台場の仲間を救出しようと出陣し、一本木関門付近で腹部を撃たれて絶命しました。また、浦賀以来の海防の功労者である**中島三郎助**は、千代ヶ岱陣屋で降伏勧告を拒否し、二人の息子と共に討ち死にしました。総裁の榎本武揚は責任を取って自決しようとしましたが側近に阻止され、最終的に新政府軍の黒田清隆による降伏勧告を受け入れ、五稜郭は開城しました。
戦争終結後、生き残った榎本武揚や大鳥圭介、永井尚志らは、黒田清隆の嘆願により助命され、後に明治政府に出仕して**北海道の開拓**という新たな任務に身を投じました。また、渋沢栄一の従兄である渋沢成一郎(喜六)も、戦後は十勝開墾合資会社の初代社長として北海道の地を踏みました。彼らはかつて蝦夷地に描いた理想を、新政府という異なる立場から実現していくことになったのです。
ずいぶん前の映像ですが、この猫の名前はノラといいます。1歳頃からピアノで遊ばせていたそうです。この映像を撮影したときは4歳だそうです。3年間のピアノの修行の成果は出ているでしょうか。
飼い主と一緒にピアノを弾いています。楽しそうにピアノを弾いているのは・・・飼い主さんの方ですが、ノラもまんざらではないようです。
Nora The Piano Cat: The Sequel - Better than the original!
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18世紀後半、皇帝エカチェリーナ2世時代のロシア帝国は日本との外交と貿易を始めるにあたり、軍事力や外交使節を使わずシベリアや極東で活躍していた民間の商人たちの活動に期待していました。
オホーツクやカムチャッカで活躍していたロシア帝国ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンは大きな利益を生み出していた海上貿易に目をつけました。しかしながら、船を購入する資金がなかったためカムチャッカの司令官に千島列島と北海道近海の偵察を行う名目で支援を要請しました。船を得たラストチキンは日本に向けて出港しましたが、オホーツク海で嵐に遭い船が転覆してしまいました。ラストチキンは船を失いましたが、政府に提出した報告書がエカチェリーナ2世に認められ、別の商人のグリゴリー・シェリホフとともに千島列島における独占交易権を得ました。1775年夏に40人の入植者を引き連れてウルップ島に入植地を作る計画を立てましたが、ウルップ到着後に船が嵐で沈んでしまい計画は失敗に終わりました。
ラストチキンは予備の船を用意し1778年に部下のドミトリー・シャバリンとイワン・アンチーピンをウルップ島に派遣しました。2人は国後島のアイヌ族長ツキノエの案内で1779年に蝦夷地の厚岸(北海道厚岸町)に到着しました。彼らは松前藩士にエカテリーナ2世の勅書と松前藩主への贈り物を渡して交渉を行おうとしましたが、松前藩は幕府に相談する必要があるため来年もう一度来るよう伝えました。この件について松前藩主の松前道広は幕府に報告しませんでした。翌年、再来した彼らに対して松前藩は交易を拒否しました。ラストチキンからの贈り物を返却し、日本との貿易を求めるのであれば長崎を訪れるよう伝えました。彼らは長崎に赴くことを断念しウルップ島に戻りました。
その後、ウルップ島で大地震による津波が発生し、ウルップ島の船が内陸に打ち上げられてしまいました。この被害によりラストチキンは日本との貿易を断念しました。ラストチキンは日本との外交交渉に失敗してしまいましたが、当時の日本と接触した初めてのロシア人でオランダ人以外のヨーロッパ人となりました。
エカチェリーナ2世は日本との外交交渉を民間主導から政府主導に切り替え、1792年にアダム・ラスクマンを公式の遣日使節として派遣しました。ラスクマンは漂流者の大黒屋光太夫らを送還し、日本との外交交渉を試みましたが、幕府はラスクマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付し長崎に向かうよう要請しました。ラスクマンは長崎には向かわず帰国しました。1804年、ラスクマンが得た入港許可証(信牌)を使ってニコライ・レザノフが長崎を訪問しましたが、幕府は中国・朝鮮・琉球・オランダ以外の国と通信・通商の関係を持たないとして交渉を拒絶しました。エフィム・プチャーチンの長崎来航により日露和親条約が締結されたのは安政元年12月21日(1855年2月7日)のことです。
【参考記事】
・高田屋嘉兵衛が択捉島と国後島の航路を開拓(寛政11年 1779年7月29日)
・大黒屋光太夫がロシア女帝エカテリーナ2世の茶会に招待される|紅茶の日(11月1日)
・ロシア使節ニコライ・レザノフが長崎から退去(文化2年 1805年3月19日)
・ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)
・プチャーチンのディアナ号が大破|安政東海地震(1854年11月4日)
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