ようこそ!「夜明け前」(開陽)へ
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街で一番高いビルの屋上に3人の兄弟が住んでいました。 情熱的でいつも目立ちたがりの長男のレッド、穏やかでいつもマイペースな次男のグリーン、そしてクールでいつも冷静沈着な三男のブルー。彼らの仕事は街を光で彩ることです。
ある晩、雪がしんしんと降りました。街はすっかり雪化粧となりました。3人はこの真っ白な情景を美しく照らすことにしました。
レッドは「俺が一番強く光ればきっと綺麗な景色になる」と光を放ちました。すると雪景色は真っ赤な夕焼けのように染まってしまいました。するとグリーンが言いました。「いやいや僕が光を加えて落ち着かせよう」。レッドより強い光を放つと雪景色は芝生のような黄緑色になってしまいました。その様子を見ていたブルーは「計算が足りないよ」 と言って強い光を放ちました。雪化粧は凍りつくような青色に染まってしまいました。街を歩く人たちは「変な雪化粧だね」と不思議そうに通り過ぎていきました。
3人はそれぞれ光の強さを変えますが、綺麗な雪景色は浮かび上がりません。やがて彼らは気がつきました。それぞれが主役になろうとしているうちは美しい雪景色を浮かび上がらせることはできないことに。3人はかけ声をかけながらそれぞれの光を同じ強さで重ねる実験をしてみました。レッドとグーリンの光を混ぜると鮮やかなイエローに、グリーンとブルーの光を混ぜると爽やかなシアン、レッドとブルーの光を混ぜると華やかなマゼンタになりました。3人の光がすべて重なったところは透き通るような白色をしていました。
こうして3人は雪景色を見事な白に輝かせることができました。そしてそれぞれの光の強さを変えて雪景色をさまざまな色に照らしました。街行く人々は足を止めて綺麗な雪景色を堪能しました。レッド・グリーン・ブルーの三兄弟は雪景色を美しく浮かび上がらせたことを誇らしく思いました。自分たちはバラバラの色だけど協調していろいろ重ね合わせることで色とりどりの世界を作り出せることを理解したのです。三兄弟は夜明けまで真っ赤に染まる朝焼け、公園の緑の木々、抜けるような青空を代わる代わる作り出し街を照らし続けました。
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正徳4年(1714年)1月12日、第七代将軍の徳川家継の生母の月光院に仕えていた御年寄の江島が門限に遅れたことをきっかけに江島生島事件が怒りました。この日、江島は月光院の名代として上野の寛永寺や芝の増上寺へ参拝に出向きました。その帰りに懇意の呉服商の後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋「山村座」で人気役者の生島新五郎の歌舞伎を鑑賞しました。芝居の後に江島は生島たちを招いて宴会を催しましたが、宴会が長引き大奥の門限に遅れてるという失態を演じました。
江島は大奥の七ツ口で役人と押し問答となり、この話は江戸城中に知れ渡りました。江島の門限破りは評定所で審理されることになりました。取り調べでは江島の単なる門限破りではなく大奥の規律を乱したことが問題視され、江島と生島新五郎の密通疑惑が浮上しました。最終的に江島は死罪となるところを減じられて信濃国高遠藩への流刑となりました。役者の生島も三宅島へと流されました。芝居小屋の山村座は解体、江島の取り巻きなど多くの者たちが処罰を受けました。
江島は27年に渡り幽閉生活となり寛保元年(1741年)に享年61歳で死去しました。生島は寛保2年(1742年)に徳川吉宗により赦免され江戸に戻りましたが翌年享年73歳で死去しました。
この江島生島事件は大正時代に歌舞伎「江島生島」で演じられ戦後には小説「絵島生島」になりました。事件の顛末が一般にも広く知られるようになりました。現将軍の母の月光院派と先代将軍の正室の天英院派の大奥内での覇権争いで、月光院派の江島の失態が天英院派の格好な攻撃材料になったという言い伝えもありますが史実では確認できずこれは後の創作のようです。
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和服(着物)は男性・女性に関わらず右前に着ます。右前は右の衿を先に体に合わせその上から左衿を重ねて着るので、相手から見ると左衿が上側に見えます。右前の「前」とは先に・手前にという意味です。自分から見て右衿が手前にあるので右前となります。和服(着物)が右前で統一されている理由は日本人は昔から右利きが多かったからです。右前に和服(着物)を着ると利き腕の右手を懐に入れやすいためです。右前に着ると懐中の財布や小物をすぐ取り出せます。 日本では和服(着物)を左前に着せるのは死者を弔うときです。これは死者と生者を区別するための習慣とされています。
一方、洋服の場合は男性は右前、女性は左前に着ます。この由来にはいくつかの説がありますが、もともと西洋は男性・女性に関わらず服を左前で着ていました。中世時代に剣を腰に吊るす剣士や騎士が登場すると、右利きの剣士や騎士は外衣を右前(左側が上側)に着た方が左腰の剣を抜きやすかったため、服を右前で着るようになりました。これが一般に男性の間で広まったとされています。西洋も右利きの人が多く右前の方が利き手でボタンを留めやすいため右前が一般的になったという説もあります。
利き手に関係なく女性が左前となったのは、当時の貴婦人はコルセットを着用していたため服を1人で着ることができず使用人に着せてもらっていたことに由来します。使用人が服を着せるときボタンを留めやすい左前が一般的になったとされています。また赤ちゃんを左手に抱えて授乳する際に左前の方が都合が良かったという説もあります。
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1948年1月7日、アメリカ合衆国のケンタッキー州で未確認飛行物体の目撃情報が相次ぎました。同州のゴットマン空軍基地に「直径75~150メートルの白く光る巨大な物体が浮遊している」との報告が入り、訓練飛行中のトーマス・マンテル大尉が率いる4機のP-51マスタング戦闘機が物体の追跡を開始しました。このうち1機は燃料不足により基地に戻り、マンテル大尉機を含む3機が物体を視認し上昇を開始しました。
高度15000フィートに達したところでマンテル大尉は未確認飛行物体について「金属でできているかのように太陽光を反射している。それにとてつもなく大きい」と報告しました。高度22000フィートでマンテル大尉以外の2機の酸素不足に陥ったため追跡を断念し離脱しました。マンテル大尉機はそのまま上昇を続けましたが高度25000フィートに達したところで連絡が途絶えました。その後、マンテル大尉機が墜落したことが判明しました。
米国空軍はこの未確認飛行物体の正体の調査を行いました。、いくつかの説を提示しました。 当初、空軍はマンテル大尉が金星を未確認飛行物体を誤認し追跡したと発表しましたが後に撤回してます。現在、未確認飛行物体の正体として有力視されている説は米国海軍がテスト飛行させていた観測用気球のスカイフックです。
スカイフック気球は極秘のプロジェクトだったため空軍には伝わっていなかっとされています。この気球は直径30メートル以上で高高度では太陽光を反射して巨大な銀色の円盤のように見えます。マンテル大尉はこの気球を追って上昇し続け酸素欠乏で意識を喪失して墜落したのではないかと考えられいます。
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毎年1月2日は皇居で新年一般参賀が行われます。一般参賀は戦後の昭和23年(1948年)から開催されている新しい皇室の象徴的な行事です。一般の人々が皇居に参入して皇室にお祝いをすることができる唯一の機会として非常に高い人気のある行事です。
その人気ゆえに昭和29年(1954年)1月2日に「二重橋事件」と呼ばれる痛ましい事故が発生しました。この日は快晴で38万人を超える人々が皇居を訪れました、当時として過去最大の参賀者となりましたが、警備を担当する皇宮警察の皇宮護衛官と警視庁丸の内警察署の警察官は221名しかいませんでした。午前9時から始まった一般参賀は粛々と進められていましたが午前11時頃から参賀者が急増し、群衆が二重橋石に殺到する事態となりました。
そのため入門規制のため整理用のロープが張られましたが、群衆の圧力によりロープに挟まれる人々が多数出ました。あまりの圧力でロープをくぐり抜ける人が続出し現場が混乱し始めました。警備がロープの上げ下げをしているうちに押し寄せた群衆雪崩が発生し、人々が折り重なるように倒れました。結果として17人が死亡し82人が重軽傷を負う大惨事となりました。
この事件は当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。単なる偶発的な事故ではなく、警察の警備体制の見直しや公共施設におけるイベントの雑踏警備の重要性が認識されるようになりました。現在の一般参賀が整然と執り行われているのはこの二重橋事件の教訓が活かされているからと言えるでしょう。
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