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ココログピックアップで紹介されました(2020年10月23日)

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2026年3月 1日 (日)

ココログを始めた日(2007年3月1日)

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 自分はパソコン通信の時代からニフティを利用しています。あるフォーラムでは管理スタッフも担当していました。ニフティがココログのサービスを開始したのは今から20年以上前の2003年12月2日です。自分がブログを始めたのは2005年5月3日ですが、最初はココログではなく、NTTデータのブログサービス Doblog でした。DoBlog でブログに慣れてからココログのブログを開設しようと思ったからです。


 DoBlogは「旅の空から」というタイトルで立ち上げ2年ほど使いました。ブログそのものはすぐに使いこなせるようになりました。2007年にココログの開設準備を進めました。カスタムCSSを作成してデザインを決めて、同年3月1日に本ブログ「夜明け前」として開設しましました。2007年の5月頃まではDoBlogも使用していましたが、記事を「夜明け前」に集約することにしました。過去の記事や写真を「旅の空から」から「夜明け前」に1年ほどかけて転載をしました。DoBlogは障害が発生が度重なり、2009年にサービスの提供が終了しました。


 さてこのブログのタイトル「夜明け前」のURLは https://starfort.cocolog-nifty.com/voorlihter/ です。starfortは星型要塞を意味しています。これは函館の五稜郭を意識して採用しました。voorlihter はオランダ語で「夜明け前」「先駆け」「開拓者」などを意味する voorlichter(フォールリヒター)で、幕末に旧幕府軍が所有していたオランダ製の軍艦「開陽丸」を意識して採用しました。 ブログを登録するときに、voorlichterと入力するところ、スペルミスで「c」が抜けてしまい voorlihter になってしまいました。あしからず。


開陽丸(Voorlichter)
開陽丸(Voorlichter)

 本ブログの記事はニフティー・ニュースの提供者として【ココログ】夜明け前のニュースに転載されてきましたが、ニフティー・ニュースはサービスの提供の形態が変更となるため、【ココログ】夜明け前のニュース のページは3月31日をもって終了します。長い間、ありがとうございました。

【参考】ニュースサービス リニューアルのお知らせ(2026年3月31日(火)17時~)


 ブログ「夜明け前」はこれからも継続していきます。よろしくお願い致します。


 


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2026年2月25日 (水)

検索エンジンから回答エンジンへ|ゼロクリック検索でコンテンツ文化は衰退するか

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 Googleのサービスが始まった創成期、自分は始めてGoogleのサイトにアクセスしたときのことをよく覚えています。ブラウザにはGoogleのロゴとたった1行分のテキスト入力フォームと検索ボタンしかないページを見て、いったいこのページで何ができるのだろうと思ったのです。そこでテキスト入力フォームにキーワードを入力して検索ボタンを押してみたのですが、次に表示されたページを見てすぐに合点がいきました。 Googleは世界中に存在するWebサイトから、ユーザーが入力したキーワードに関する情報を掲載しているページを探し出し、関連性の高い順番にリスト化して表示するのシステムであることがわかったのです。複数のキーワードで検索すると、より詳細な情報検索を行えました。

1998年当時のGoogleのトップページ
1998年当時のGoogleのトップページ

 Googleが登場する前までは、インターネットで情報を調べるにはYahoo!のイエローページと呼ばれるカテゴリ別に分類されたページにアクセスして、カテゴリやサイト名から探したい情報があるかどうかを想像しながら必要な情報を探すしかありませんでした。

 それがキーワードを入力するだけで探したい情報が表示されるようになったのですから、Googleは画期的な検索システムだったのです。 インターネット上の膨大なWebサイトから、ユーザーが入力したキーワードに関連する情報を分け隔て無く探し出し、秀逸な内容で関連性の高い順に表示する検索エンジンの到来でした。Googleの検索システムはあっと言う間にシェアを拡大し、インターネットで情報を探す必須のツールになったのです。

 Googleは検索順位を決定するアルゴリズムの改良を続けました。そして、そのページがどれくらい人気があり重要なのかを、被リンクの数と内容の質の高さにに基づいて計算・スコア化するページランキングを生み出しました。他社が追随できない仕組みで、Googleは検索エンジンとして不動の地位を確立したのです。ブラウザを起動したときに表示されるホーム画面をYahoo!などのポータルサイトからGoogleに切り替えた人もたくさんいました。

 2026年時点でもGoogleは圧倒的なシェアを誇っています。 そしてGoogleの検索アルゴリズムは大きく変化しています。とりわけ生成AIの導入により従来の検索結果をリスト表示する形式から、生成AIが直接回答を提示する生成AI型検索が主流になりつつあります。これはもはや検索エンジンとは言えず、むしろ回答エンジンと呼んだ方が的を射ているでしょう。そして従来型の検索表示においても検索順位を決定づけるアルゴリズムは大きく変化しています。

 ところが、このGoogleの大きな変化は必ずしもユーザーから歓迎されているわけではないようです。とりわけ情報を発信しているパブリッシャーの多くはGoogleの変化に不満を持ち始めていると言われています。

 回答エンジンとしての生成AI型検索は生成AIが世界中のサイトからから得た情報をもとに回答を行います。回答が表示された時点で完結する仕組みになっているため、ユーザーは情報を提供しているサイトにはアクセスしません。これをゼロクリック検索と言います。生成AIは間違いなくサイトから情報を得て回答を作成しています。にも関らずユーザーにはサイトへアクセスすることを促すこともありません。これはパブリッシャーのやる気を削ぐことにもなりコンテンツ文化を衰退させることになります。コンテンツ文化が衰退すれば生成AIが参考にするサイトもレベルの低いものが多くなるため回答エンジンの回答の質も大きく低下します。これはパブリッシャーだけでなく、ユーザーにも、そしてGoogleにとっても良いことではありません。

 もうひとつのGoogleの大きな変化は検索エンジンの評価基準と検索順位の決定のプロセスです。生成AIが導入されてから検索エンジンは多様な観点からより詳細で複雑な評価を行うことができるようになりました。

 現在のGoogle検索におけるページの評価基準は「ユーザーにとってどれだけ有益で信頼できるか」を軸に多様な観点から評価が行われいます。 特に重視されている主要な評価基準は以下の通りです。

1. コンテンツの品質:E-E-A-T

Experience(経験): 作成者がそのトピックについて実体験や個人的な経験を持っているか。

Expertise(専門性): 内容が専門知識に基づいているか。

Authoritativeness(権威性): その分野の知識人や公式サイトとして認知されているか。

Trust(信頼): 最も重要な要素であり、情報の正確さやサイトの安全性、誠実さが問われます。

2. ヘルプフルコンテンツ(有用性)

「検索エンジンの順位を上げるため」ではなく、「人間の読者に役立つため」に作成されているか。独自の調査や分析など、他にはない独自性のある情報が含まれているか。ユーザーの検索意図(知りたいこと)に対して、十分な回答を提供しているか。

3. ページエクスペリエンス(ユーザー体験)

 サイトの使い勝手が最適化されているか。

Core Web Vitals (コア ウェブ バイタル): 読み込み速度(LCP)、視覚的な安定性(CLS)、インタラクティブ性(INP)の3つの指標で、ページの快適さを測定します。

モバイルフレンドリー: スマートフォンで快適に閲覧・操作できること。

セキュリティ (HTTPS): サイトが暗号化され、安全に通信できること。

4. リンクと信頼のシグナル

 冒頭で紹介した「ページランク」の概念は今も生きています。

高品質な被リンク: 信頼性の高い外部サイトからリンクされていることは、そのページが「支持されている」証拠として高く評価されます。

ドメインの強さ: 長年の運用実績やブランド力があるドメインは、新しいサイトよりも信頼されやすい傾向にあります。

5. AI生成コンテンツへの姿勢

 AIを使って記事を作成すること自体は禁止されていませんが、「内容の薄いAI記事」は評価を下げられる可能性があります。AIを補助として使いつつ、人間ならではの視点や最新情報を加えることが求められています

 Google検索エンジンは以上のような評価基準でページを評価して検索順位を決めて表示していますが、これらの評価基準が公平性やバランスに欠けているという指摘があります。

 とりわけ大きな問題と指摘されているのは、権威のあるドメインの優遇です。現在は同じキーワードで検索しても、個人のブログや弱小サイトのページは評価されず、企業や大学などのサイトのページが優先されて検索結果の上位に表示される傾向があります。生成AIが回答で推奨するサイトも同じです。

 表示されてくる権威のあるドメインのページの内容が秀逸であれば良いのですが、集客目的で詳しいことが記載されていない場合も少なくありません。ドメインの権威が高いだけで、内容が希薄だったり、誤りがあったりするページも表示されます。その陰で秀逸な内容のページがドメインに権威性がないという理由で検索結果の圏外に押しやられているです。権威のあるドメインのページを内容をほとんど評価もせずに高く評価することはユーザーにとって良いことであるはずもありません。検索エンジンは権威のあるページを表示するのが無難であると判断し、表示結果に対する責任を回避しているという指摘もあります。

 結果としてGoogle創成期の世界中から秀逸なページを探してくるという理念が置き去りになっているように思えます。個人のページや弱小のサイトでも秀逸な情報を提供しているサイトはたくさんあります。

 Googleが登場したとき、それはまさに「知の革命」でした。それまでは図書館の奥深くに眠っていた専門知識や一部の権威だけが独占していた情報が、たった一行の検索窓から誰の手にも届くようになったのです。あの時の解放感とワクワク感こそが、インターネットの黄金時代で検索エンジンの醍醐味だったと思います。サイトの権威性には拘らず秀逸なページを照会するという情報の民主化が到来したのです。

 しかし、現在のGoogleが向かっている方向は少し様相が異なるようです。生成AIによる回答エンジンは、ユーザーが自分で複数のサイトを巡り、情報を比較・検討するプロセスを肩代わりします。これは一見便利そうですが、答えを一つに絞ってしまい、ユーザーか多様な視点に触れる機会を奪っていることにもなります。生成AIの回答エンジンはユーザーに対して思考のパートナーになるべきでしょう。

 権威のあるサイトを優遇する権威主義は情報の民主化に逆行します。これは過去にGoogleが破壊したイエローページなどのリンク集が陥っていたドメインによる階級社会の再来とも言えます。

 そして情報の民主化という考えのもと個人が一生懸命作り上げたコンテンツが、AIの回答を生成するための素材として吸い上げられています。発信者の努力が報われない世界ではコンテンツ文化は衰退し秀逸な情報が枯渇してしまいます。これを解決するには生成AIが学習したページに対して論文並みの参考資料を提示することが必須でしょう。Wikipediaはそうなっています。また参考にしたページに報酬を支払うなどの仕組みも有効でしょう。Googleの場合、広告表示サービスのAdsenseに登録してるベージを対象に報酬を支払うなどの試験運用は可能と思います。もちろんGoogleだけが報酬を支払うのはアンフェアですから、コンテンツ文化を守るためには世界共通のルールが必要となるでしょう。

 面白いのはGoogleの生成AI Gemini は上記の問題を全て把握しており、コンテンツ文化に及ぼす様々な問題点を指摘できるということです。Googleの設計者も現在の問題点を把握しているはずですから、情報に民主化の新しい道を模索することでしょう。これを乗り越えるとGoogleは創業の精神に基づいた真の検索エンジン・回答エンジンになることでしょう。そのためには結果にたどりつくまでのプロセスを重視したユーザーとの会話が必要です。マインドマップのような思考のプロセスを共有すると良いと思います。思考の枝葉がどう伸び、どの情報がどの結論に結びついたのかを可視化しながら対話が進めば、検索は単なる作業から知的体験となります。

現在、日本国内で主要な検索エンジンは以下の通りです。

Google: 世界・国内のシェアは圧倒的1位。

Bing: Microsoft社が運営。AI「Copilot」を搭載し、近年シェアを伸ばしている。

Yahoo!: 日本国内では特に知名度が高く、Googleの技術を採用している。

 過去のGoogleのように権威にとらわれず世界中のサイトから秀逸なページを探して表示する検索エンジンとして、現在自分が推奨するのはBrave Searchです。Google検索で期待するページが見つからない場合にはBrave Searchで検索してみると良いでしょう。生成AIによる回答も表示されますが、まったく権威主義的ではありません。

 Googleは企業として巨大化したため、様々な課題に直面し、いろいろ

 Googleは企業として巨大化したため、様々な課題に直面し、いろいろなリスクを抱えていると思いますが、自分がかつて初めてググったときの感動を取り戻して欲しいです。

 

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2026年2月23日 (月)

新選組総長 山南敬助の最期( 元治2年 1865年2月23日)

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 新選組の副長を経て総長を務めた山南敬助。出自はよくわかっていませんがの記録を読み解くと天保7年(1836年)に陸奥国仙台で生まれたと考えられます。姓名の読みは「やまなみ」として知られていますが、「三南」と記録されたものがあることから「さんなん」だった可能性が高いという指摘もあります。経歴もよくわかっていませんが、北辰一刀流の免許皆伝だったこと、天然理心流剣術道場の試衛場に他流試合を挑み近藤勇に負けたこと、近藤勇を慕うようになり活動の場を試衛場に移しことが伝えられています。試衛場ではとりわけ沖田総司と懇意となり兄弟のような関係だったようです。

 文久3年(1863年)2月、清河八郎が徳川家茂の上洛を警護する目的で結成した浪士組に近藤勇や土方歳三らと参加し上洛しました。壬生に到着後、清河八郎が尊皇攘夷のため浪士組を率いて江戸に帰還することを表明すると、水戸浪士の芹沢鴨と近藤勇はこれに反対し京都に残りました。山南敬助は試衛場の面々と京都に残りました。その後、主導権争いが起こり芹沢鴨と近藤勇が主流派となりました。彼らは京都守護職を務めていた会津藩藩主の松平容保の預かりとなり壬生浪士組と名乗りました。山南敬助は土方歳三とともに副長に就任しました。

 壬生浪士組における山南敬助の活躍の記録は岩城升屋事件など断片的に垣間見ることができますが、文久3年8月の八十八日の政変の警備に出動しています。壬生浪士隊はこのときの活躍で会津藩から新選組の隊名を拝命しましした。かねてからの芹沢鴨の度重なる狼藉が目に余るようになり、朝廷から召捕りの命令が下ると会津藩は近藤勇に芹沢鴨を処分するよう密命を出します。文久3年(1863年)9月に芹沢鴨は新選組隊士らによって暗殺されました。その中に山南敬助もいたと伝えられています。

 芹沢鴨の暗殺により新選組は近藤勇を中心としたメンバーで再編されることになり山南敬助は局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長となりますが、この頃から山南敬助の活躍は記録から消えます。元治元年(1864年)の池田屋事件には山南敬助の姿はありませんでした。長倉新八はこの頃、山南敬助が病気で屯所に引きこもっていたと記しています。同年11月、新選組は江戸で隊員の募集を行い、北辰一刀流の伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場の参謀として迎えます。

新選組隊旗
新選組隊旗(amazon.co.jp)

 山南敬助は元治2年(1865年)2月に「江戸に行く」という置き手紙を残して屯所を出ました。山南敬助のこの行動は脱走とみなされ、近藤勇と土方歳三は山南敬助と懇意だった沖田総司に後を追わせました。山南敬助は沖田総司におとなしく捕縛され屯所に戻りました。新選組では脱走は切腹とされていました。長倉新八と伊東甲子太郎は山南敬助に脱走するよう説得しましたが、死を覚悟していた山南敬助はこれを受け続けず、元治2年(1865年)2月23日に本人の希望で沖田総司の介錯により切腹して果てました。山南敬助の最期を見届けた近藤勇は山南敬助の覚悟の死を称賛して「浅野内匠頭でもこう見事にはあい果てまい」と述べたと伝えられています。

 最期の日を迎えるにあたり、長倉新八が山南敬助が馴染にしていた遊女の明里に会わせたと伝えられていますが、永倉新八の手記には明里の名は一切は登場していません。新選組始末記の著者の子母沢寛の創作とされています。山中敬助は京都の壬生屯所近くの光縁寺に眠っています。

 山南敬助が脱走した理由にはいくつかの説があります。ひとつは新選組が伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場で迎えたことです。しかし、伊東甲子太郎は山南敬助の死を悼んで和歌を詠んでいます。2人が対立していたとは考えられません。最も有力そうな理由は山南敬助が尊皇派だったことです。新選組はその活躍により幕臣となり尊皇派浪士の壊滅を進めます。新選組の隊士が増えて壬生村の屯所が手狭になったとき、近藤勇と土方歳三は屯所を京都の西本願寺に移しました。西本願寺は尊皇派と近い関係にあったのですが、近藤勇はあえて西本願寺を屯所とすることで尊皇派の動きを抑えようとしたのです。山南敬助は屯所の移動に反対しましたが、近藤勇や土方歳三は山南敬助の意見を受け入れませんでした。これによって特に土方歳三との対立が深まり、新選組を離脱する決心をしたと伝えられています。

 さてここからは私見になります。新選組が厳しい法度を制定したのは芹沢鴨を中心とした水戸浪士たちの狼藉を戒めるためでした。新選組は京都の治安維持活動を行う組織ですから、隊士が狼藉を働くことを許しませんでした。厳しい法度で組織を統制し、朝廷や幕府や京都の人々からの信頼を回復しようとしたのです。法度はすべての隊士を対象とするものでしたらか、近藤勇派の隊士といえども規則に反すれば処罰の対象になりました。

 先述の伊東甲子太郎は尊皇派で新選組から離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成しました。このとき試衛場時代からの生え抜きの同士で最年少の藤堂平助が伊東甲子太郎と行動をともにしています。慶応3年(1867年)11月18日夜、新選組は伊東甲子太郎の暗殺と御陵衛士の壊滅を目的とする油小路事件を起こしました。藤堂平助は仲間とともに伊東甲子太郎の遺体の回収に駆けつけたところを待ち伏せしていた新選組に斬られ19日未明に死亡しました。長倉新八の記録によると近藤勇は藤堂平助は殺さずに助けるように指示をしていたそうです。現場で藤堂平助を見逃す手立てとられましたが、事情を知らずに鉢合わせした隊士が藤堂平助を斬ってしまったのです。藤堂平助は新選組が自分を逃そうとする意図があることを知りつつ、あえて戦う道を選んだとも伝えられています。

 藤堂平助の例を考えると、もしかすると近藤勇は山南敬助を許そうと考えていたのかもしれません。土方歳三も懇意にしていた沖田総司に山南敬助の後を追わせています。他の隊士を派遣していたら斬り合いになっていたはずです。沖田総司が迎えに行けば、山南敬助は抵抗することなく戻ってくると考えたのでしょう。そして実際には山南敬助はおとなしく沖田総司に捕縛され戻ってきました。もし山南敬助が永倉新八らの説得を聞き入れ脱走していたら、近藤勇はあえて見逃していたかもしれません。もしかすると脱走を促すよう命じたのは近藤勇だったかもしれません。

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2026年2月17日 (火)

南極で金環日食が観測される(2026年2月17日)

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 世界標準時(UTC)2026年2月17日、南極大陸とその近海で金環日食が観測されます。残念ながら今回の日食は日本では観測できませんが、日食は9:56(UTC)に始まり、12:12(UTC)に食が最大となり2分20秒にわたって金環食を続きます。NASA などの機関が南極からのライブ配信を予定しています。

 日食は太陽と地球の間に月が入り太陽・月・地球が一直線に並ぶときに生じる現象です。このとき月の影が地球にできますが、この月の影に入る地域で太陽が欠けたように見えるのが日食です。太陽の平均直径は1,392,000 km、月の平均直径は3,474.8 kmです。直径で比較すると太陽は月の400倍にもなりますが、地球から太陽と月を見たときにはほとんど同じ大きさに見えます。地球から見たときに太陽と月が同じ大きさに見えるのは「地球から太陽の距離」と「地球から月までの距離」に関係しています。このため太陽の前を月が通り過ぎるととき、太陽が隠れるです。平均距離から求めた太陽の視直径は角度にして0.53度、月の視直径は角度にして0.52度です。地球から太陽と月までも距離は変動しますので視直径が変化します。地球と太陽と月の距離と視直径の関係の詳細については次の記事を参照してください。

【参考】太陽と月が同じ大きさに見える理由

 日食のうち金環日食は太陽の手前を月が通過するときに、太陽が月からわずかにはみ出して「炎の輪(Ring of Fire)」のように見える希な現象です。

2012年5月20日に日本で観測された金環日食
2012年5月20日に日本で観測された金環日食

 次回の日食は2026年8月12日でアイスランドやスペインなどで皆既日食が観測されます。日本国内では当面の間、皆既日食や金環日食は観測されません。金環日食は2030年6月1日に北海道などで見られます。全国では部分食が観測できます。皆既日食は2035年9月2日に中部・関東地方などで見られます。全国で部分食が観測できます。なお日本では2026年3月3日夜に全国で観測可能な皆既月食を見ることができます。

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2026年2月11日 (水)

江戸城評定における小栗忠順と榎本武揚のすれ違い|明日なき戦いの果てに番外編)

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 慶応4年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍は不利な戦況に追い込まれました。薩長軍は錦の御旗を掲げ我らこそが官軍であることを示しました。第十五代将軍・徳川慶喜は朝敵となることを避け、大阪城内の主戦派の収拾がつかなくなると考え、江戸へ退却することを決断した。慶喜は6日に大阪城を脱出し、側近とともに艦長の榎本武揚が不在の開陽丸で江戸に向かいました。慶喜の一行が江戸に到着したのは12日でした。

 慶喜が江戸城に帰還すると城内で評定が開かれました。この評定で徹底抗戦を主張したのが勘定奉行・陸軍奉行並の小栗忠順です。小栗は旧幕府軍には鳥羽・伏見の戦いに参戦していない多数の兵力が残っていることから、「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という作戦を提案しています。後に小栗の作戦を聞いた大村益次郎がこの作戦が実行されていたら官軍は壊滅していたと驚愕したという逸話が残っています。おそらく慶喜も小栗の作戦が自らの朝廷への恭順の意を覆すことになることは理解していたでしょう。

徳川慶喜と勝海舟 小栗忠順と榎本武揚
徳川慶喜と勝海舟
小栗忠順と榎本武揚

 江戸城での評定は数回に渡って執り行われたと考えられますが、小栗忠順は榎本武揚らと徹底抗戦を主張したと伝えられています。徹底抗戦を主張していた小栗忠順は1月15日に罷免されています。大阪に取り残された榎本武揚が富士山で大阪湾を出港したのは12日、江戸に帰還したのは15日と伝えられています。つまり榎本武揚が江戸に戻ったときには、自分を支持してくれるはずの小栗はすで罷免されていたか、あるいは罷免直前だったことになります。ですから評定の席で小栗と榎本が一緒に徹底抗戦を主張したのかという点においては疑問が残ります。小栗の罷免後も評定は行われ、榎本は小栗が罷免されたうえでさらに徹底抗戦を主張したのでしょう。主戦派の榎本が戻ると徹底抗戦の作戦が現実のものとなりかねないので小栗を罷免したとも考えられます。

 商人の三野村利左衛門は小栗に資金提供と米国への亡命をすすめましたが、小栗は丁重に断っています。また慶喜の家臣の渋沢成一郎が彰義隊の隊長の就任を打診していますが、小栗は「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」と拒否しています。2月28日、小栗は江戸を出発し上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ向かいました。

 同じく徹底抗戦を主張した榎本は罷免されず1月23日付けで幕府海軍海軍副総裁に任ぜられています。これは榎本の上司だった勝海舟の意向が働いた結果と考えられます。慶喜の恭順の意向を受けて新政府と平和裏に交渉を進めようとしていた勝は交渉を有利にするためには徹底抗戦の意向を持たずとも武力の保有は必要と考えていたようです。小栗を罷免して榎本を登用した慶喜と勝の判断は江戸を救ったとも、日本の近代化を支えた人物を切り捨てたとも言えます。

 小栗は権田村で農地開墾や水路の整備、塾を開くなど穏やかな日々を過ごし、新政府に敵対するような準備はしていませんでした。慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東善寺にいるところを新政府軍に捕縛され、6日午前中にろくに取り調べもされないまま家臣とともに斬首されました。これは新政府の意向ではなく手柄を取ろうとする現場の軽率な判断だったとも伝えられています。榎本は与えられた軍事力を背景に小栗の思いを蝦夷地まで運んだのでしょう。

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