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昭和20年(1945年)8月15日に第二次世界大戦が終結すると日本は連合国に占領されました。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は
同年9月20日に日本政府が受諾した「ポツダム宣言」に基づき日本における占領政策を開始しました。連合国軍最高司令官に任命されたダグラス・マッカーサー元帥が厚木に到着したのは昭和20年(1945年)8月30日です。日本の占領はGHQが直接統治する方式ではなく、GHQの指令を日本政府が実行する間接的な方式が採用されました。
日本の改革を進めるにあたり日本人の意識改革が必要と考えたGHQ上層部は大戦中にイギリスで放送された「Now It can be told(今だから話せる)」という番組を参考にしたラジオ番組を放送するようGHQ内部部局の民間情報教育局(CIE)に命じました。
CIEは昭和6年(1931年)の満州事変に始まる太平洋戦争開戦、日本への原爆投下、日本の降伏と終戦に至るまでに日本の軍国主義者が行ってきたことを日本人の登場人物が日本の国民に明かしていく「眞相はかうだ」というラジオ番組を企画しました。「眞相はかうだ」は音楽や音響を交えたドキュメンタリー形式のラジオドラマとして制作されました。
「眞相はかうだ」は社団法人日本放送協会(現・NHK)のラジオ第1放送・第2放送で毎週日曜の夜8時からの30分番組として昭和20年(1945年)12月9日から10回にわたる放送が始まりました。日本国民に「偽りのない事実」を伝えながら、日本の敗北と戦争に対する罪、軍国主義者たちの責任、GHQによる占領の必要性と目的を周知させることが目的で放送された「眞相はかうだ」はGHQのプロパガンダであり、多くの事実の捏造も織り込まれました。GHQは日本が目指していた大東亜共栄圏建設をかきけすため大東亜戦争を太平洋戦争と呼び変えて、太平洋戦争に対して日本が一方的に責任があるかのように伝えました。
「眞相はかうだ」の放送にあたりGHQは前面に出ていなかったこともあり、当時の国民はこの番組はNHKが制作したものと思い込んでいました。NHKには内容に関して多くの抗議や苦情が届いたそうです。GHQはその抗議や苦情を逆手に取り、日本の国民感情に寄り添いながら、日本の良いところ悪いところを織り交ぜた後番組「眞相箱」「質問箱」を制作し昭和23年(1948年)までラジオ番組を通じ巧妙なプロパガンダを続けました。これらの番組は戦後の日本人の歴史観を変え戦争責任に対する自虐的な思考を醸成させるきっかけを作ったという指摘があります。
連合軍総司令部民間情報教育局編 「眞相はかうだ」第1輯は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
【リンク】国立国会図書館デジタルコレクション「真相はかうだ」第1輯
【関連記事】
・日本海軍空母機動部隊が択捉島単冠湾から出港(1941年11月26日)
・戦争が終わった日はいつか(昭和20年 1945年8月15日)
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安政5年(1858年)の日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約により兵庫港が文久2年12月7日(1863年1月1日)に開港されることになりました。しかしながら、この条約は天皇の勅許を得ないままで締結したことから、朝廷がこれに反対しました。和親条約に理解を示していた孝明天皇も通商条約には反対の立場をとり京都に近い兵庫の開港を拒否しました。
安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていました。しかし、幕末の日本の政治と経済は混乱を極めており、期限内に安政五カ国条約を履行することは不可能と考えた江戸幕府は文久元年(1862年)に文久遣欧使節を欧州に派遣しました。使節はサー・ラザフォード・オールコック駐日英国公使の協力を得てイギリスと「ロンドン覚書」を調印したうえで諸外国と交渉し期限を5年間延長し慶応3年(1867年)12月7日(1868年1月1日)にすることができました。
【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)
幕府は朝廷と公武合体を進めましたが、その見返りに孝明天皇は幕府に対して攘夷を求めました。列強に対して武力で攘夷を実行するのは不可能と考えた幕府は外交交渉により開港していた横浜港を閉港することを決めました。文久3年(1863年)12月(1864年2月)に池田長発を正使、河津祐邦を副使、河田熙を目付とした横浜鎖港談判使節団をフランスに派遣しました。しかしながら交渉はまとまるはずもありませんでした。列強各国は日本の安政五カ国条約履行に疑いをもつようになりました。
攘夷を実行しない幕府に対してしびれを切らした長州藩は馬関海峡(下関海峡、関門海峡)を航行する米国商船を砲撃したことで馬関戦争(下関戦争)が起こりました。長州藩は列強の軍事力に太刀打ちできず敗戦、この戦争により幕政はますます混乱しました。
【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)
イギリスは幕府の混乱に乗じて兵庫港の開港の前倒しをはかり、列強各国と協力し兵庫港に艦隊を派遣し開港を求めました。これに対して孝明天皇も開港を認めざるを得なくなりました。交渉により開港の前倒しは撤回され従前の通り慶応3年(1867年)12月7日(1868年1月1日)に兵庫港が開港されました。
【参考】兵庫開港要求事件(1865年9月13日)
ところで江戸幕府は神戸港のことを兵庫港と呼んでいましたが、大輪田泊や兵庫津と呼ばれた兵庫港が神戸港に含まれるようになったのは明治25年(1892年)です。実は幕末の「兵庫港の開港」は「神戸港の開港」を意味していました。神戸港の開港後も兵庫港は長らく開港されていませんでした。神戸港の発展により兵庫港も神戸港の一部となりました。
【関連記事】
・文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)
・攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)
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箱館港(函館港)は北海道と本州とを結ぶ玄関口として古くから利用されていましたが、安政5年(1858年)に日米修好通商条約をはじめとする「安政五カ国条約」により安政6年6月2日(1859年7月1日)に外国との貿易のため開港されました。
当時の箱館港には大型船が停泊できる岸壁はありませんでした。箱館にやってきた大型船は函館港沖合に停泊し、そこから小型通船が人や貨物を桟橋や桟橋や船揚場まで運びました。当時、箱館に船でやってきた人々が初めて降り立つ場所が「東浜桟橋」(旧桟橋)でした。
東浜桟橋はJR箱館駅から函館山の方へ徒歩約15分の函館市末広町24にあります。この場所には金森赤レンガ倉庫のショッピングモールなどが存在し人気のウォーターフロント観光地となっています。ショッピングモールから西の方に歩いていくと「東浜桟橋」(旧桟橋)と「北海道第一歩の地碑」があります。
北海道函館市末広町24付近は慶応時代から明治初期にかけて埋め立てられた場所で海岸線沿いの道路が造成されました。この場所は東浜町と名付けられ明治4年に箱館港の旅客乗降地として利用されるようになり、やがて長さ9.1メートル、幅3.6メートルの木造の小さな桟橋が「東浜桟橋」が設置されました。箱館港にやってきた多くの旅客がこの小さな桟橋を利用しました。当時の箱館港は北海道の玄関口でしたから本州から北海道に上陸する場所でもありました。初期の青函連絡船の旅客もこの桟橋を利用しました。桟橋前には多数の旅館や商店が建てられ、この付近は昭和初期まで中心市街地でした。
明治43年(1910年)に函館駅に大型の桟橋が完成すると青函連絡船の乗客は新桟橋を利用するようになりました。東浜桟橋の利用者は激減し、いつの頃からか東浜桟橋は市民の間で旧桟橋と呼ばれるようになりました。旧桟橋はその後も青函連絡船以外の旅客や船員の乗降場所として利用されました。利用者は激減しましたが函館港は北洋漁業の基地港となり時期になると旧桟橋付近は大いに賑わいました。
昭和4年(1929年)、旧桟橋は北海道庁から函館市の管理となりました。このときに正式名称が「東浜桟橋」となりました。古い写真には「東濱町桟橋」と書いたものがありますから「東浜桟橋」も通称だったのでしょう。それでも多くの市民は馴染のある旧桟橋という名前で呼び続けました。
昭和40年代に函館港の岸壁が整理され大型船が埠頭などに着けられれるようになると通船が不要となり「東浜桟橋」はその役割を終えました。現在、「東浜桟橋」は観光地として整備されています。写真は最近の「東浜桟橋」です。観光用人力車が観光地巡りをしているところです。
現在の「東浜桟橋」は昭和34年(1934年)に架け替えられたコンクリート製のものです。平成3年(1991年)にガス灯が設置され夜になると「東浜桟橋」を照らし美しい夜景を見ることができます。
さて「東浜桟橋」の隣には「北海道第一歩の地碑」があります。昭和43年(1968年)に日本中央競馬会が明治以降に北海道に渡って来た人々が第一歩を踏んだ地を記すモニュメントとして寄贈したものです。モニュメントはヒグマと船のいかりを模したものです。
碑文には「明治百年を迎えるに当り 此地に記念碑をたてて 開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ」とあります。
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2024年の流行語大賞が発表されました。「ふてほど」が選ばれたようです。流行語ということですが自分は「ふてほど」という言葉は初めて知りました。ニュースの解説をみたところ今年1月から金曜日午後10時に放送されたTBS金曜日ドラマ「不適切にもほどがある!」のタイトルに由来する言葉だそうです。
自分はテレビはほとんど見ないし金曜日の夜は居酒屋あたりにいることが多いので「不適切にもほどがある!」というドラマも知りませんでした。しかし、流行語大賞となるからにはどこかで見かけたり聞いたりすることがあるはずだろうと思いますが「まったく記憶にございません」。以前、流行語大賞になった「倍返し」や「じぇじぇじぇ」はテレビを見ていなくても自然と目や耳に入ってきていました。
主演の阿部サダヲさんも「ふてほど」という言葉を自分たちで言った事は一度もないと会見で言われているぐらいですからドラマをまったく見ていない自分が知らないのも納得できます。さて「不適切にもほどがある!」のドラマの内容を調べてみるとバブル時代の1986年を生きるおじさんがコンプライアンスの厳しい2024年にタイムスリップして時代の変化に翻弄される話のようで確かに面白そうなドラマです。しかし、本当に「ふてほど」という言葉が流行したのでしょうか。
そんなときに便利なのが「Googleトレンド」です。現在や過去に検索されたキーワードを教えてくれます。さっそく「ふてほど」について過去12ヶ月の状況を調べてみたところ次のような結果となりました。番組放送当時には少しは検索されていたようですが、流行語大賞を取った後に激増していることがわかります。
一方、「不適切にもほどがある」で調べてみた結果が下記の通りです。流行語大賞「ふてほど」が発表された後よりも番組放送当時によく、「不適切にもほどがある」は検索されていたことがわかります。
この結果を鑑みると「ふてほど」が本当に流行していたのか疑問が残ります。しかし、流行語大賞は「現代用語の基礎知識」(自由国民社)の読者アンケートの結果から編集部が選出しその中から7名で構成される新語・流行語大賞選考委員会によってトップテンと大賞が選ばれます。査読者アンケートの結果の中に「ふてほど」が存在していたということになります。アンケートの回答者がテレビ世代なのかもしれませんが、もしそうであるならば流行語の募集は読者アンケートの他にSNSでも行った方が良いのかもしれません。
また今年はマイナスイメージの言葉をよく見たり聞いたりしたので流行語大賞の選定には苦労したのではないかと想像できます。
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