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長州藩士の吉田松陰は江戸で佐久間象山などから西洋の学問や技術の重要性を学び国内外の情勢に関心を持っていました。嘉永5年(1852年)、松陰は交流のあった肥後藩の宮部鼎蔵らと東北を見聞する旅に出ました。このとき松蔭は長州藩の通行手形を得る前に出発しました。この行為は脱藩と見なされました。翌年、旅行から戻った松蔭は罪に問われて士族の身分を剥奪され世禄を没収されました。
嘉永6年(1853年)、松蔭は学問を続けるため江戸に赴きました。同年6月、浦賀にマシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国の艦隊が来航しました。松陰は師の佐久間象山と望遠鏡で黒船を見物し西洋の文明が日本より遙かに進んでいることに感銘を受けると同時に日本の将来に危機感を持ちました。象山は松蔭に外国に留学することを勧めました。当時、日本人が海外に渡航することは禁止されていたため外国留学は密航にあたりました。
海外留学の機会を伺っていた松陰は同年7月にロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が艦隊を率いて長崎に来航していることを知り弟子の長州藩士の金子重之輔と長崎に向かいましたが、彼らが長崎に到着したのはロシア艦隊が長崎を出港した後でした。そのため松陰は海外留学を果たせませんでした。
【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)
嘉永7年(1854年)、ペリーの艦隊が再び来航し横浜で日米和親条約が締結されました。
【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)
その後、艦隊が下田に移動すると松陰は重之輔と下田に向かいました。同年3月25日夜、松陰と重之輔は下田の柿崎の稲生沢川口から小舟を漕ぎ出しましたが悪天候と高波により引き返しました。27日に上陸していた米国士官に渡航を嘆願する「投夷書」と「別啓」を渡しました。「投夷書」は漢文で書かれておりその内容は「外国渡航が禁じられているが世界を見たい。密航が知られると殺されるので人道的に乗船させて欲しい」という主旨のものでした。また「別啓」は「投夷書」の要約で「認めてくれるなら海岸に迎えにきて欲しい」と書かれていました。
松陰と重之輔はその日の夜に艦隊を訪れることを計画し翌28日午前2時頃、弁天島近くから小舟を漕ぎ出し沖合に停泊している艦隊へ向かいました。最初はミシシッピー号に漕ぎ着けましたが通訳がいなかったため旗艦ポータハン号に向かいました。
ポータハン号に乗り込んだ2人はは通訳官サミュエル・ウィリアムズと筆談し渡航を懇願しました。ウィリアムズは2人の海外渡航の強い要望を理解しましたが、日米和親条約を締結しているため海外密航を幇助することはできないと答えました。近い将来に海外渡航が許されるようになるはずだからそれまで待つようにと諭され2人は海外渡航を諦めました。
28日早朝、2人は小舟で福浦海岸まで送り届けられました。密航しようとしたことがばれると考えた松陰と重之輔は自首し下田奉行所で取り調べを受けた後に江戸小伝馬町の獄に送られました。江戸で裁きを受け身柄は萩藩へ引き渡され蟄居を命じれました。本来であれば海外密航は死罪に当たりますが、2人の処分が蟄居で済んだのはペリーが2人の思いを理解し幕府に寛大な処分を求めたからと伝えられています。
松陰は萩の野山獄に投獄されましたがまもなく実家の杉家預かりとなりました。安政4年(1857)、叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ杉家の敷地に松下村塾を開塾します。この松下村塾では、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など後に明治維新の立役者となる志士たちを教育しました。
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1827年3月26日、ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンがウィーンの自宅で亡くなりました。多くの交響曲を作曲したベートーヴェンは音楽史上において重要な作曲家の1人であり日本では「楽聖」とも呼ばれます。この偉大な作曲家の忌日を記念する日が「楽聖忌」(がくせいき)でベートーヴェンの作品を振り返りその功績が讃えられます。
ベートーヴェンは1770年12月16日頃に神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれました。父親は宮廷歌手で幼い頃からベートーヴェンに対して音楽を厳しく教え込みました。スパルタ教育とも言える厳しい父親の指導によりベートーヴェンの音楽の能力は育まれ、早くから才能が注目さえるようになりました。1782年、11歳のときドイツのオペラ作曲家・オルガン奏者のクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事しました。、1792年、オーストリアの作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンはベートーヴェンの才能を認め弟子入りを許可しウィーンに呼び寄せました。ウィーンに移住したベートーヴェンはボンに戻ることはありませんでした。
ベートーヴェンはウィーンでピアノの即興演奏者として有名になりました。1796年には同世代の音楽家の中で最も評価の高い作曲家として名声をあげました。ベートーヴェンは20代後半から耳が悪くなりました。40代で聴力を完全に失った後も精力的に作曲活動を続け交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏など、多くのジャンルで傑作を生み出しました。輝かしい音楽活動の裏では持病の神経性の腹痛や下痢に悩まされ、家庭環境で精神的に病んでいた甥のカール・ヴァン・ベートーヴェンの後見人として苦労しました。
カールは叔父のベートーヴェンと暮らしていましたが、ベートーヴェンは1826年12月肺炎と黄疸を併発し病床に伏すようになりました。1827年3月23日には死期を悟り遺書をしたため「諸君、拍手したまえ。喜劇は終ったのだ」という言葉を残しました。遺書には自身の財産を全てカールに委ねると記されていました。カールが従軍中の同年3月26日に、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは享年58(満56歳没)でこの世を去りました。病床で作曲してい第10番目となる交響曲は未完となりました。
同年3月29日に執り行われた葬儀には約2万人もの人々が参列しベートーヴェンの死を哀しみました。一方でベートーヴェンから作品を献呈された貴族たちは誰も出席しなかったと伝えられています。
【関連記事】
・ベートーヴェンの「運命」初演の日(1808年12月22日)
・ベートーヴェンの「皇帝」公開初演の日(1808年11月28日)
・ベートーヴェンの交響曲第8番の初演(1814年2月27日)
・ベートーヴェン「交響曲第9番」の初演(1824年5月7日)
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受胎告知とは「新約聖書」の「ルカによる福音書」(1章26–38節)に記されている出来事です。大天使ガブリエルは聖母マリアに「あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」と告げたとされています。
イエス・キリストの生年は紀元前6~4世紀頃とされています。イエス・キリストの降誕を祝うクリスマス12月25日から逆算して9ヶ月前の3月25日が「受胎告知の日」「受胎告知の祝日」とされています。日本では妊娠期間は10ヶ月とされていますが、欧米では文化や数え方の違いにより9ヶ月とされています。 「受胎告知の日」には多くの教会において特別な礼拝が行われたり、祈りを捧げたりします。
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ブログ記事を書いているときに、文章を引用したい場合などがあると思います。引用した文書を矩形(ボックス)で囲むと引用がわかりやすくなります。たとえば次のような感じです。
実際にこの記事中で実現してみると次のようになります
どのようなタグで実現しているかというと次の通りです。
<div>タグのスタイルのborder:1px dottedが矩形の枠を定義しているところです。1pxは線の太さを1ピクセルにする、dottedは線を点線にすることを意味しています。試しに boder:2px solidにしてみると、次のようになります。
同じ<div>タグのスタイルにpadding:10pxとありますが、これは矩形の中に上下左右10pxのマージンを取るという意味です。これを0にすると、次のような感じになってしまいます。
このようにタグを直接書けるブログでは<div>タグを使って矩形を描くことによって記事を見やすくすることができます。
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明治20年(1887年)3月23日、日本で初めて「所得税法」が公布されました。「所得税法」公布前の日本の税収は地租や酒造税などが中心でした。当時、政治に参加できるのは地租を納める大地主に限られていたことから自由民権運動を進める団体が選挙権のあり方を批判していました。政府も地租の納税義務者以外の資本家に対して選挙権を与えることにしました。また明治15年(1882年)に朝鮮で起きた壬午軍乱以降、清国に対する軍備の増強が必要となり税収を増やす必要がありました。このような背景のもと徴税に関する法整備が必要となり「所得税法」が公布されたのです。
当初の所得税は個人に対する課税ではなく世帯合算課税で戸主に納税義務が課せられました。すべての戸主が課税の対象となったわけではなく年間所得が300円以上の戸主に納税義務が発生しました。徴税は所得に対して1%(300円)から3%(3万円以上)までの5段階の累進課税方式が採用されました。
所得税法を承認し、ここに公布する。
天皇 睦仁
内閣総理大臣 伊藤博文
大蔵大臣 松方正義
勅令第五号 所得税法
第一条 すべての国民で、資産や営業などから生じる一年間の所得金額が三百円以上である者は、この税法に基づいて所得税を納めなければならない。ただし、同居の家族に属する者の所得は、すべて世帯主の所得に合算するものとする。
第二条 所得は、次の規定に基づいて算出する。
公債証書その他政府が発行する、または政府の特許を得て発行する証券の利子、営業によらない貸付金や預金の利子、株式の利益配当金、官民から受け取る俸給、手当金、年金、恩給金、割賦賞与金は、そのままその金額を所得とする。当時、所得が300円以上となる戸主は多くなく、納税義務は社会的地位を示すことにもなりました。そのため所得税は富裕税や名誉税とも呼ばれました。課税の対象とされたのは全戸数の1.5%の約12万人で納税額も税収の約0.8%に過ぎませんでした。つまり選挙権を新たに付与され国民はわずかでした。明治23年(1890年)に行われたた日本最初の国政選挙「第1回衆議院議員総選挙」では直接国税15円以上を納付している満25歳以上の男性に選挙権が与えられました。
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