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日本では戦国時代に多数の城郭が築城されました。関ヶ原の戦、大阪の陣を経て江戸幕府の幕藩体制を確立させた徳川家康は大名が反乱を起こしたときの拠点となる城の数を減らすことを考えました。城を削減することにより諸大名の軍事力を縮小させ、幕府への反乱や大名同士の争いを防ぐとともに幕藩体制をより強固にすることを図ったのです。
大坂夏の陣(1615年5月)の終結後の慶長20年(1615年)閏6月13日、徳川秀忠は家康の意向に従い諸大名に対し居城となる本城以外の支城をすべて破却することを命じる「一国一城令」を制定しました。1つの国に1つの城ですから、1つの国を所領する大名は本城を1つしかもてないことになります。この「一国一城令」により全国に約3千存在した城郭が次々と破却され約170となったと言われています。
ただし「一国一城令」は厳密かつ画一的に行われたものではなく例外もありました。例えば1つの国を複数の大名で分割して領有している場合には各大名ごとに一城が認めらました。また複数の国を領有している大名には国ごとに城が認められることもありました。一方で豊臣恩顧の大名には厳しい対応がなされ施行から数日以内に400の城郭が破却されました。
江戸幕府は「一国一城令」に続いて「武家諸法度」を制定しています。大名が城を新たに築城することや無断で修復することを禁止しています。これらの対策は幕藩体制を強化するとともに江戸幕府を安定させました。江戸幕府は慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍として幕府を開いてから慶応3年(1867年)の大政奉還で終焉するまで265年間続きました。
【参考記事】
・天下を勢力図を塗り替え奇襲作戦|桶狭間の戦い(1560年5月19日)
・松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)
・三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなった夏目廣次(吉信)(1572年12月22日)
・豊臣秀頼の自刃で大坂夏の陣が終結(慶長20年 1615年5月8日)
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船中八策(せんちゅうはっさく)は幕末の土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が幕末の慶応3年(1867年)6月12日に新たしい日本の国家体制の基本方針として8つの施策について起草したものと伝えられています。
慶応3年(1867年)6月9日、龍馬は京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に大政奉還を提起するため土佐帆船「夕顔」で長崎を出港しました。船中八策は同年6月12日に龍馬が船中で山内容堂の信頼を得て参政に就いていた土佐藩士の後藤象二郎に述べたものを海援隊隊士の長岡謙吉が書き記したものと伝えられています。この船中八策がもとになって五箇条の御誓文が作られたとされています。
船中八策の謙吉が書き記した原本は残っていません。資料によって若干の違いはありますが「坂本龍馬全集」には次のように記されています。
これを原題の言葉で意訳すると次のようになります。
船中八策の当時の資料は残っていませんが、龍馬は大政奉還後の慶応3年(1867年)11月に新政府綱領八策と呼ばれる書を何通か自筆しています。
この新政府綱領八策は船中八策と内容がよく似ていますが、この新政府綱領八策は上述の軍艦「夕顔」での船中八策の出来事が史実であった証拠にはなりません。後藤象二郎の回想や長岡謙吉の日記にも船中八策に関することは記されていません。ですから日付の6月12日の根拠もありあません。
龍馬が船中八策と同じような考えを持ち合わせていたのは間違いありませんが、船中八策の出来事は後年の創作と考えられています。後世に広く伝わったのは司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」などによるものでしょう。もともと大政奉還論も坂本龍馬のアイデアではありません。しかしながら坂本龍馬が大政奉還論を含む自分の考えを後藤象二郎などに伝えていたことは間違いないでしょう。
【関連記事】
・神戸海軍操練所が設置される(元治元年 1864年5月14日)
・坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)
・薩土討幕の密約|薩土密約(慶応3年 1867年5月21日)
・王政復古の大号令で明治政府樹立(1867年12月9日)
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ヨーロッパオオカミはネコ目イヌ科イヌ属の中型から大型の哺乳類でタイリクオウカミ(ハイイロオオカミ)の亜種です。ヨーロッパからロシアにかけてユーラシア大陸に広範囲に分布しています。ヨーロッパオオカミの身体は流線型をしています。全身に毛が密生しており、体色は背中の色が濃く腹部の色が薄く主に灰色ですが、白、黒、茶色の個体も存在します。体長は100~160センチメートル、肩高は60~90センチメートルでオスはメスに比べて大きく頭と首が広い特徴があります。
ヨーロッパオオカミは肉食動物で主にシカ、ヘラジカ、ノロジカ、イノシシ、シャモアなど偶蹄類の哺乳類を捕食します。生息域の獲物によって食性が変化し、前述の動物がいない場合は小型の哺乳類、鳥類、魚類、腐肉などを捕食し、果実なども食べます。冬になると食料が少なくなるため動物の死骸を食べることもあります。またヒツジ、ヤギ、ウシなどの家畜を襲うこともあります。
社会性の高い動物で家族単位の群れで生活します。群れの大きさは通常5〜10頭ですが20頭を超える場合もあります。知能が高く群れで協力して獲物を捕食し、遠吠えや表情などでコミュニケーションをとります。縄張り意識が強くマーキングや遠吠えで縄張りを示します。狩りは集団で行い、知能が高く、素早く音を立てずに動くことができます。寒冷な気候に適応しており、昼間は休息し、夜明けと夕暮れ時に活動が活発になります。
オオカミはかつては家畜を襲うことなどから害獣とされ駆除によって激減または絶命しました。しかし、近年では絶滅を免れたヨーロッパ狼は保護の対象となっており個体数が回復しています。オオカミは生態系において捕食者としてシカやイノシシなどの草食動物の個体数を調整し生態系のバランスを保つ重要な役割を果たしてています。しかし、家畜を襲う事例が再び増えていることから保護基準が見直され駆除が許される動きも出てきています。
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モスソガイ(裳裾貝)はエゾバイ科モスソガイ属の巻き貝です。モスソガイ(裳裾貝)の名前の由来は軟体部は殻からはみ出している様子が着物の裾を引きずっているように見えることに由来します。モスソガイは日本固有種で北海道から瀬戸内海にかけての浅瀬に生息しています。現在は、黄海、アラスカ沖、カナダのブリティッシュコロンビア沖にも生息しています。モスソガイの殻は大きさが3~6センチメートルで非常に薄くて容易に割れてしまいます。蓋は小さく消失している個体もいます。
モスソガイ(裳裾貝)の学名は Volutharpa perryi といいます。Volutharpaはモスソガイ属のことですが、perryiは黒船来航で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の名前に由来します。ペリーは日米修好通商条約の締結後の嘉永7年(1854年)4月21日に視察のため函館を訪れました。このときペリーの艦隊は北海道に生息する目新しい動植物をアメリカに持ち帰りました。モスソガイは新種の発見とされ学名にペリーの名前が付けられました。このときホタテガイも新種とされて「Patinopecten yessoensis」(北海道の櫛の模様のある皿)という学名が付けられています。
【関連記事】
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ゴイサギ(五位鷺、鵁鶄)はペリカン目サギ科ゴイサギ属の鳥です。世界に広く分布し河川、湖、池沼、湿原、水田、海岸などに単独または小規模な群れで生息しています。日本においては東北より南部では留鳥として生息していますが、東北の北部や北海道は夏鳥として見られますが冬になると南下します。ゴイサギは全長が約60センチメートルで翼開長は約1メートルです。背中が青みがかった暗灰色、翼は灰色、腹部は白色、目は赤色をしています。
繁殖期には後頭に白い冠羽が伸張し後脚がやや赤みがかります。
ゴイサギは他のサギと異なり首が短いのですが見た目よりは首が長く伸ばすとこのような感じになります。
五位鷺の名前は「平家物語」(巻第五 朝敵揃)に記されている平安時代の故事に由来しています。醍醐天皇が神泉苑(もしくは吉野)に行幸された折、池にサギがいることに気がつき家臣に捕らえるよう命じました。サギは家臣が近づいても逃げませんでした。家臣が(捕らえるのは)「宣旨である」と告げると、サギは素直に捕らえられました。醍醐天皇は「命令に逆らわず神妙である」と感心し、そのサギに「五位」の官位を授けました。これによってこのサギは「五位鷺」と呼ばれるようになりました。
ゴイサギには異名としてヨガラス(夜ガラス)、ホシゴイ(星五位)、セグロゴイ(背黒五位)とも呼ばれます。ヨガラスはゴイサギは夜行性でカラスのような鳴き声をすることに由来します。ホシゴイがゴイサギの幼鳥が全身に白い斑点があることに由来します。セグロゴイはゴイサギの成鳥の背中が暗灰色であることに由来します。
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