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ココログピックアップで紹介されました(2020年10月23日)


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2021年4月10日 (土)

瀬戸大橋が開通(昭和63年 1988年4月10日)

 瀬戸大橋は岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ本州と四国を結ぶ橋です。瀬戸大橋は大小10からなる橋の総称です。昭和53年(1978年)に着工し、9年6カ月後の昭和63年(1988年)4月10日に開通しました。瀬戸大橋には道路と鉄道が設置されており、橋の上部が道路、下部が鉄道になっています。鉄道は新幹線を通らせることができるようになっていますが、現在は在来線のみ運行されています。

 瀬戸大橋は鉄道と道路を併用する橋としては世界最長を誇り、2015年にギネス世界記録の認定されました。2017年に日本の20世紀遺産に選定されました。

 次の写真は2005年5月21日に福岡ー羽田フライトで上空から撮影したものです。雲が出ていなかったので全景を撮影することができました。全長9,368メートルですから、橋を縦に立てると飛行機に届いてしまいます。

瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)
瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)

 橋を過ぎたとろでもう1枚撮影しました。吊り橋の様子がよくわかります。上の写真の真ん中から上の部分です。 

瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)
瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)

瀬戸大橋の建造は大変だったようで、NHKのプロジェクトXでも取り上げられました。

プロジェクトX 挑戦者たち 男たち不屈のドラマ 瀬戸大橋 ~世紀の難工事に挑む~ [DVD]

【内容】
本州と四国を結ぶ本四架橋は、その規模も難易度も前例のない工事である。急な海流と複雑な海底地形、地元漁師との交渉、オイルショックによる着工凍結、多くの困難の末、海中基礎工事は成功し、昭和63年、「瀬戸大橋」は完成した。四国市民400万人と、自らの家族のために力を尽くした男たちの物語。

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2021年4月 9日 (金)

純国産飛行機「神風号」がロンドンに到着(1937年4月9日)

 1937年の元旦の朝日新聞の朝刊に「国産機で再度訪欧の壮挙・英国皇帝戴冠式を奉祝」という記事が掲載されました。朝日新聞社が純国産の飛行機を使って、東京からロンドンまでの1万5千キロを飛行し、イギリスの新国王ジョージ六世の戴冠式を祝賀しに行くという大計画を発表したのです。

 この計画に用いられた飛行機は陸軍が三菱に開発を進めさせていた九七式司令部偵察機「キ15」の試作機でした。軍事機密上、軍用機が民間に引き渡されるということは考えられませんでしたが、陸軍がこの飛行機にほとんど興味をもっていなかったため、試作2号機が朝日新聞社の計画に提供されることになりました。朝日新聞社は飛行機の名前を一般から募集し「神風号」と名付けました。

神風号
神風号

 「キ15」試作2号機が完成したのが1937年3月19日でした。飛行テストを経て3月25日に朝日新聞社に引き渡されました。4月1日に命名式・出発式がとり行われました。翌2日に飯沼飛行士と塚越機関士を乗せた「神風号」は大歓声で送られる中、立川飛行場からロンドンに向けて飛び立ちました。ところが、悪天候に見舞われ、飯沼・越塚両名はいったん帰還することを決意しました。

 天候の回復を待った4月6日午前2時12分、「神風号」は再び立川飛行場を出発しました。「神風号」は途中、台北、ハノイ、カルカッタ、バグダット、アテネ、ローマ、パリ などを経由し、ついに現地時間4月9日午後3時30(日本時間4月10日午前0時30分)にロンドンに到着しました。

 総所用時間94時間17分56秒、飛行時間51時間19分23秒という15,357キロメートルの飛行記録は、東京-パリ-ロンドン間の世界記録となり、日本で初めて国際航空連盟(FAI)公認の国際記録を樹立しました。日本の航空技術が世界で認められたのです。

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2021年4月 8日 (木)

続・あの人と焼き肉を食べるときの注意事項

 先日「あの人と焼肉を食べるときの注意事項」の記事を投稿したが、あの話には続編があったのである。

焼肉の兵法
焼肉の兵法

 前回の記事は他人が大事に育てた肉をあっという間にかっさらっていく人との攻防を綴ったものですが、もう1人すごい人がいるので紹介しましょう。

 彼は最初は普通に焼き肉を食べているのだが、ある時点から「さーてっと」とか言いながら食べ方を変えてくる。

 すると焼き加減は肉で網をなぜる程度に留めて、そのままタレをつけてご飯の上におきガブガブっと食べる。

 ステーキで言えば超レアである。もう少し焼こうよという話は通じない。

 こういう食べ方だから、彼は箸でいったんつかんだ肉を口に入れるまで放すことはないのだ。

 そういう意味では、彼は、領空侵犯はしないし、他人が育てた肉もかっさらうことはない。

 だから、彼には鶏肉デゴイはいらない。

 前回紹介した他人の肉をかっさらっていくあの人に比べれば極めて紳士的といえよう。

 しかし、彼と焼き肉を食べる場合の大きな問題は1枚の肉を焼いて食べるまでの時間だ。

 大きな問題はこのプロセスが超高速で繰り返されることなのである。

 これはある意味で自分との戦いである。

 負けるな俺!

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2021年4月 7日 (水)

ベートーヴェンの英雄は誰か(1805年4月7日)

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」。エロイカ」と呼ばれることも多々ありますが、これは原題のイタリア語「Sinfonia eroica, composta per festeggiare il sovvenire d'un grand'uomo」に由来します。

 「英雄」はベートーヴェンが1804年に完成させた交響曲で1805年4月7日にオーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演されました。

 原題の日本語訳は「英雄交響曲、ある偉大なる人の思い出に捧ぐ」ですが、実は「英雄」が誰のことであるかがよくわかっていません。ベートーヴェンはナポレオン・ボナパルトを尊敬していることから、「英雄」はナポレオンのことであるとされています。

 この曲の完成後にナポレオンが皇帝に即位したことからベートーヴェンがナポレオンの野心に怒り「奴もまた俗物に過ぎなかったか」と言ってナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てたという有名な逸話があります。これはベートーヴェンの弟子によって伝えられたものですが、現存する浄書には表紙を破り捨てた形跡はなく、表紙に書かれたナポレオンへの献辞がペンで書き消されて、題名が「ボナパルト」から「シンフォニア・エロイカ」と改題され、さらに「ある英雄の思い出のために」との一文が加えられています。

交響曲第3番 浄書総譜表紙(ウィーン楽友協会)
交響曲第3番 浄書総譜表紙(ウィーン楽友協会)

 「英雄」の最終的な献呈先はロブコヴィツ侯爵(フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ)となり、ナポレオンへの献呈は取りやめになっています。

 「英雄」の第2楽章Marcia funebre: Adagio assaiは英雄の死をテーマにしているため、ナポレオンを尊敬していたベートーヴェンがナポレオンに対して無礼であると考えて題名を改題して献呈は取りやめたという説もあります。

 また「英雄」は1804年12月にロブコヴィツ邸で非公開で演奏されていることがわかっています。このとき、プロイセン王国のルイ・フェルディナント王子が立ち会っていました。フェルディナント王子は1806年7月9日にイエナ・アウエルシュタットの戦いで戦士しており、このルイ・フェルディナント王子が英雄であるという説もあります。

 「英雄」の第4楽章 Finale: Allegro moltoはベートーヴェンのバレエ曲「プロメテウスの創造物」の終曲から転用しています。プロメテウスはギリシア神話に登場する神で天界の火を盗んで人類に与えたとされています。

 「英雄」の英雄は誰だったのでしょうか。

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エリーゼのためには誰のために?

ベートーヴェンの「運命」初演の日(1808年12月22日)

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2021年4月 6日 (火)

北極の日(1909年年4月6日)

 1909年4月6日はアメリカの探検家ロバート・ピアリーが西洋人としては世界で初めて北極点に到達しました。このことを記念して4月6日は「北極の日」とされています。

  ロバート・ピアリーは 1856年5月6日にペンシルベニア州クレソンで生まれました。幼い頃に父親を亡くしメイン州ポートランドで育った。ボウドイン大学を卒業後、国家測地学研究所に入社しましたが、1881年に土木技師として海軍に入隊した。

 1885年にニカラグア運河の測量主任となり、1888年までニカラグアの調査を行いました。ニカラグア運河は建設されませんでしたが、この期間中の1886年にピアリーは初めて北極圏を訪れる機会を得て、犬ぞりでグリーンランドを横断しようとしましたが食料不足で引き返しました。このことがきっかけになって北極圏の探検に興味を持つようになりました。

 1891年、ピアリーは準備を整えてグリーンランドに向かいインディペンデンス・フィヨルド(現在のピアリーランド)が半島であることを確かめ、グリーンランドがひとつの島であることを証明しました。1897年までに4回のグリーンランド探検を経て、1898年に北極点到達に挑戦しましたが失敗に終わり、凍傷で足の指を8本失いました。1906年までに4回挑戦、4回目は北極点まで280キロメートルの地点に到達しました。この成果に対してナショナル・ジオグラフィック協会がピアリーをハバード・メダルを贈り、探検の資金を援助しました。 

 探検の支援を受けたピアリーは1909年4月6日、ついに念願の北極点の到達に成功しました。ピアリーと従者マシュー・ヘンソンを含む総勢24名の探検隊が出発しましたが、途中で体調不良となった隊員が引き返し、最終的にピアリーとヘンソンおよび4名のエスキモーが北極点に到達しました。

ロバート・ピアリーとマシュー・ヘンソン
ロバート・ピアリーとマシュー・ヘンソ

 ピアリーの北極点到達はアメリカで大きな話題となりましたが、かつてピアリーとグリーンランド探検をともにしたフレデリック・クックが1908年4月8日に北極点に到達していたと発表しました。これに対して調査委員会が設置され、クックが北極点の数百キロメートル手前までしか到達していなかったことがわかり、ピアリーが最初の北極点に到達したと結論づけました。

 現在ではピアリーが到達した地点は北極点から6キロメートル離れた北緯89度57分の位置だったことがわかっています。また、その後の調査の中にはピアリーの北極点到達を疑問視する報告もあるようです。

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