今日は何の日

2008年12月23日 (火)

東京タワー50周年

東京タワーが営業を開始してから50年を迎えました。

東京タワーは1957年6月29日着工、1958年12月23日完工式&営業開始です。

自分が東京タワーに行ったのは、おそらく数回です。1回目は子どもの頃で1970年代と思います。確かおじさんとおばさんに連れていってもらったと思います。2回目は友人と行ったのですがおそらく1980年代の終わり頃だと思います。大学生だった頃です。そして3回目は今から5年ほど前、姪を連れていきました。時代の流れを感じてしまいます。

映画三丁目の夕日では、東京タワーが作られてできあがっていく様子が描かれています。


50年という時代が流れても、そこにずっと佇んでいる東京タワー。地上デジタル放送が始まると、電波塔として役割はどんどん少なくなっていきます。観光収入だけでは賄えないので、撤去もあり得るということなのですが、戦後の日本復興のシンボルでもあるのですから、是非とも未来に残して欲しい施設です。

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2008年10月 1日 (水)

新幹線開業の日

 1964年(昭和39年)の10月1日、東京-新大阪を結ぶ東海道新幹線が開業しました。

 1950年代、東海道線本線は日本でもっとも重要な路線でしたが、その輸送能力は限界に達しており、輸送力を増強する必要に迫られていました。

 1957年に国鉄に新幹線調査会が設けられ、当時の国鉄総裁・十河信二と国鉄技師長・島秀雄は東京と大阪に超高速列車を走らせる計画を立案しました。

 十河信二と島秀雄は新幹線計画を実行に移すべく尽力し、1958年に新幹線建設計画が承認されました。

 1959年4月に静岡県の新丹那トンネルで起工式が行われ、1964年に開催される東京オリンピックに間に合わせるべく建設が急ピッチで進められました。総工費は3800億円もかかりました。

  東海道新幹線は1963年に試験運転を行われました。当時の列車の最高速度の世界記録255Km/hを超える時速256Km/hを記録しました。

 翌1964年10月1日に営業を開始、東京オリンピック開催のわずか10日前のことでした。

新幹線の建設工事は1959年の起工式からわずか5年で完了しました。最初の年は安全性を考慮して180Km/hで運転を行い、ひかり号は東京-新大阪を4時間で結びました。翌年には210Km/hで3時間10分となりました。1985年以降は車体の開発も進み、速度が向上していきました。現在、最も速いのぞみ号は東京-新大阪間を2時間30分で結んでいます。

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2008年8月25日 (月)

鉄砲伝来の日

 1543年8月25日、鹿児島県南方の種子島に1隻の中国船が暴雨風のため漂着しました。その船にはポルトガル人が乗っていました。

 そのポルトガル人は、日本人が今までに見たことのない鉄砲という武器をもっていました。種子島の島主である種子島時堯はそのポルトガル人から鉄砲を2挺購入しました。

 鉄砲の威力に驚いた時堯は、さっそく鉄砲を製造を命じました。ところが、弾丸はできたものの、ポルトガル人の鉄砲にはネジが使われていたため、鉄砲を造ることができませんでした。当時の日本にはネジがなかったのです。日本に初めてネジが伝来したのもこの時です。

 1544年、別の外国船にのってきた技術者に鉄砲の造り方を学んだ八板金兵衛清定が、日本製の鉄砲を初めて造りました。

 種子島時堯は鉄砲を鹿児島県の島津義久に献上しました。義久はさらに足利将軍に献上しました。このことがきっかけで滋賀県の国友村で鉄砲鍛冶が行われるようになりました。また、別のルートでも鉄砲は全国に広まっていったのです。

 ちょうどこの頃、室町幕府と朝廷の力が衰えた日本の社会は、群雄割拠の戦国時代へと入っていました。戦国武将の中でも、いち早く鉄砲に目を付けたのは織田信長でした。織田信長は1575年長篠の戦いで3000挺の鉄砲隊を編成し、武田信玄の子、勝頼が率いる武田軍の騎馬隊を撃破しました。鉄砲は天下統一をめざす戦国武将にとって有力な武器となりました。

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2008年8月21日 (木)

函館と天気予報の話

8月21日は日本の新聞に初めて予想天気図が掲載された日だそうです。1924年に国民新聞(1942年に東京新聞の前身である都新聞と合併)という日刊新聞に掲載されたそうです。

日本で初めて天気図が刊行されたのは1883年だそうですが、日本の気象観測の歴史は1871年7月に明治政府が工部省が東京の三角測量を始めたところから始まります。

工部省とは、鉄道、電信、灯台、造船、鉱山、製鉄などの事業を行っていた中央官庁組織です。このとき測量を任されたのはイギリス人のマクビーンという測量技師長と、ジョイネルという測量技師でした。ジョイネルは工部省に気象観測の重要性を主張し、工部省は1873年5月に日本で初めての気象台を設立することを決めました。

日本政府はイギリスのロンドン気象台に気象観測に必要な機材の調達を依頼するため、河野通信とマクビーンをロンドンに派遣しました。彼らはフランス人のシャーボーに機材調達を依頼、シャーボーは1年3ヶ月をかけて測量機材を調達し、1874年7月に日本にやってきました。

1875年5月に調達した気象機材の据え付けが完了しました。気象台は現在の東京都京都港区虎ノ門にありました。 そして、1875年6月1日、東京気象台で気象観測を開したのです。そして、6月1日が気象記念日と制定されました。

そうか、そうか、ということになるわけですが、函館出身者としては、ちょっと待って!ということになるのです。

日本で最初に気象観測所として気象観測が行っていたのは函館気候測量所、現在の函館海洋気象台です。このあたりの話については、函館海洋気象台の「日本で最初の気象台」というサイトに詳しく説明が出ていますが、観測が始まったのは1872年8月26日だそうです。これが日本で初めての気象観測所による気象観測なのです。

気象記念日は8月26日にするべきだ!と言ってみる・・・なぜ3年後の東京気象台の方が気象記念日なのだろう。

工部省が気象台を設立すると決めたのが1873年。その1年前にできている函館気候測量所。おそらく、気象台という位置づけではなかったのかな。北方開拓のために作られた開拓使という官庁が作ったのが函館気候測量所のようで、函館海洋気象台という名前になったのは1942年になってからのようです。

でも、日本で初めての観測所での気象観測ということであればやはり8.月26日ですね。

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2008年3月13日 (木)

青函トンネル営業開始

 青函トンネルは本州と北海道を結ぶ世界最長の海底トンネルです。トンネルの全長は53.85Kmで、始点の青森県東津軽郡今別町浜名から終点の北海道上磯郡知内町湯の里を結んでいます。トンネルの海底部分は長さ23.3Km、海面下140mの海底からさらに100m下を通り抜けています。

 青函トンネルの構想は第二次世界大戦前からありました。古くは1923年に阿部覺治という函館の海産物商人が函館市民に向けて函館の未来の姿を説いた「大函館論」の中に、そのアイデアが書かれています。その頃、すでに「日本全国縦貫弾丸列車構想」という日本列島4島を鉄道で結ぶ計画がありました。その計画のひとつであった関門トンネルは第二次世界大戦中に完成しています。

 青函トンネルの計画が具体的に進められるようになったのは第二次世界大戦後です。まず1946年に本州側と北海道側で地質調査が開始されました。しかし、終戦から間もない日本の社会では、このような巨大プロジェクトの実現はたいへん難しく、さらに詳しい調査は進めることができませんでした。

 1954年9月に青函連絡船「洞爺丸」が台風15号で沈没しました。タイタニック号の沈没につぐ大規模な海難事故になりました。この事故をきっかけに、青函トンネルの必要性が世論として高まり、調査が再開されました。そして、ついに1971年9月に起工式が行われ青函トンネルの本工事が開始されました。幾多の困難を乗り越えて、1985年3月に本坑が貫通、その3年後の1988年3月13日にJR津軽海峡線が営業を開始しました。青函トンネルが開通すると、それまで北海道と本州を結んでいた青函連絡船が廃止され、80年の長きにわたる青函連絡船の歴史の幕が閉じられました。

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2008年3月 3日 (月)

ロバート・フックのMicrographia

今日はフックの法則で有名なロバート・フックの命日です。彼は1653年7月18日生まれ、1703年3月3日が命日です。

ロバート・フックはレンズを2枚用いた複式顕微鏡でいろいろなものを観察しています。詳しくはロバート・フックの顕微鏡という記事を読んでください。

彼の顕微鏡の観察はMicrographiaという本にまとめられています。amazonでいろいろなタイプの本(ペーパーバック、ハードカバーなど)を購入することができます。

Micrographia

どんな本なのかざっと見たい人はGoogle Bookの検索で参照することができます。

Micrographiaの検索結果

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2008年2月 6日 (水)

消しゴムと酸素と炭酸水

 現在、私たちが使っている消しゴムは合成樹脂でできていますが、名前がそうであるように昔は天然ゴムから作られていました。

 天然ゴムはブラジル原産のゴムの木の樹液を固めたものです。古くは紀元前から使われていました。マヤ文明やアステカ文明では、天然ゴムで作ったボールを使って「トラチトリ」というフットボールに似たボール競技が行われていたそうです。

 1493年にコロンブスが第2回目の航海でジャマイカに立ち寄った際に、原住民が天然ゴムで作ったボールで遊んでいるところを発見したことで、天然ゴムがヨーロッパに伝わりました。

 しかし、その後約300年の間、天然ゴムは特に利用価値も見出されず、希少品として扱われるのみでした。天然ゴムが初めて道具として使われたのは1770年です。その頃、すでに鉛筆が発明されていましたが、鉛筆を消すのにパンが使われていたそうです。

 イギリスの科学者ジョゼフ・プリーストリーは天然ゴムを使うと鉛筆で書いたものを消せることに気がつき、1772年に消しゴムを作りました。この天然ゴムを使った消しゴムはあっという間に世界中に広まりました。ゴムのことを英語でRubberといいますが、これはrub out(文字を消す)という言葉が語源になっているそうです。

 プリーストリーは1774年(つまり消しゴムを作った2年後)に、酸化第二水銀(HgO)という物質を加熱したときに出てくる気体を使うと、ものをよく燃やすことができることに気がつきました。また、その気体の中でネズミを飼うと長生きすることにも気がつきました。プリーストリーはこのことをフランスの科学者ラヴォアジエに報告し、ラヴォアジエはこの気体を使ってものが燃える仕組みを解き明かし、この気体のことを酸素と名付けました。

 プリーストリーは1733年に生まれ、1804年の今日2月6日に亡くなりました。ということで、今日はプリーストリーの命日です。プリーストリーは酸素の発見で有名ですが、消しゴムの発明者でもあったわけです。また彼は炭酸水の発明もしています。

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2007年10月11日 (木)

HONDA CVCCエンジンを開発

 1970年、アメリカでひとつの法案が制定されました。その法案とは通称マスキー法と言われるもので、アメリカの民主党のマスキー上院議員が提案した大気清浄法でした。

 この法律は1975年からガソリン自動車が排出する一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を当時の排出量の10分の1までに削減することという当時の自動車メーカーにとっては厳しい内容でした。そのような自動車を実現するのは非常に難しいと考えられたからです。実際、この法案によって、当時の米国の有名なスポーツカーが法律をクリアすることができず姿を消すことになりました。日本でも同じ法律が施行され、国産のスポーツカーが姿を消していきました。

 この厳しいマスキー法を世界で先駆けてクリアしたのは本田技研工業でした。ホンダは1969年に自社が販売している自動車に欠陥が見つかり、経営的に非常に厳しい状況にありましたが、F1レース参戦の経験で得た技術を駆使し、マスキー法をクリアする低公害エンジンの開発に取り組みました。

 ホンダの創始者であり当時の社長でもあった本田宗一郎は空冷エンジンでの実現に拘りましたが、空冷エンジンでマスキー法をクリアするのには無理がありました。若手の技術陣は水冷エンジンの採用を主張しましたが、本田宗一郎は頑として首を縦に振りませんでした。技術陣は副社長の藤澤武夫に直談判し、藤澤武夫が本田宗一郎を説得し、水冷エンジンを採用することになりました。

 技術陣の努力はついに実を結び、ホンダは1972年10月11日に世界に先駆けてマスキー法をクリアすることができる「CVCCエンジン」を発表しました。

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2007年10月 6日 (土)

宇宙戦艦ヤマト映開始

 時に西暦2199年、地球はガミラス星から遊星爆弾の攻撃を受け、人類は放射能汚染による滅亡の危機にさらされていた。

 そのような中、地球から遙か14万8千光年彼方にあるイスカンダル星から、放射能除去装置コスモクリーナーDを提供するので取りに来るようにという救いのメッセージが届けられる。

 人類に残された時間はわずか1年間、往復29万6千光年の旅を1年間で成し遂げるのは不可能である。しかし、イスカンダルからはメッセージと一緒にワープ航法が可能となる波動エンジンの設計図が届いていた。

 人類はその設計図をもとに、九州沖に沈んでいた旧日本海軍の戦艦大和を改造、戦艦大和は約250年の時を経て宇宙戦艦ヤマトとして生まれ変わる。

 沖田十三艦長が率いるヤマトはガミラス星人の攻撃を受けながら幾多の苦難を乗り越えて任務を遂行、西暦2200年、ついに人類はもとの青い地球を取り戻したのである。

 この壮大なSFアニメ、松本零士原作の宇宙戦艦ヤマトのテレビ放映が始まったのが1974年の今日でした。

 戦艦大和が宇宙に繰り出すという斬新なアイデア、ワープ航法・波動エンジンといったSF的な単語が子どもたちの心をつかみました。

 スターウォーズが公開されたのが1977年ですから当時としてはそれまでにはない本格的なSFアニメ番組だったのです。

 物理学的に考えれば間違った設定もたくさんありましたが、宇宙戦艦ヤマトを見てアインシュタインや相対性理論を知った子どもたちもたくさんいたでしょう。 

 子どもたちは毎週番組の最後に流れる「地球滅亡まであと○日」というカウントダウンを見てハラハラしながら、宇宙戦艦ヤマトの放映を楽しみにしていたのです。

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2007年9月11日 (火)

911

9月11日はアメリカ同時多発テロ事件が起きた日です(2001年)。

労働組合関係の仕事を終えて、知人の車で家まで送ってもらっている途中に、ラジオからWTCに航空機が激突したらしいというニュースが入ってきました。このニュースではどんな種類の航空機が激突したのかなど詳細は報告されませんでした。小型ジェットかプロペラ機が激突したのではないかと思っていました。家に着いてNHKのニュースを見てみると、いきなりもう一機の航空機がWTCに激突している映像が流れました。それが生放送だったのかどうかはもう覚えていませんが、これは事故ではないということがすぐにわかりました。

9月30日までUSENのGyaoでマイケル・ムーア監督の氏911を無料で見ることができます。ニュースでは知ることができないいろいろな事実を知ることができます。まだ見ていない人にはお勧めです(自分も最近見ました)。

911で多くの犠牲が出ました。未だに解決していないことがたくさんあります。現在、同監督のSiCKOが上映中ですが、この映画でも911が取り上げられています。

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2007年9月 6日 (木)

黒の日

9月6日は「黒の日」だそうです。1989年に京都黒染工業協同組合が9(く)6(ろ)の語呂合わせで制定したそうです。語呂で9月6日を「黒の日」というのはわかりますが、なぜ「黒の日」を作ったのかというと、「黒染め」の衣服を買ってもらおうということのようです。黒染めは、普通の洋服の黒とは違って、伝統的な技術なのでしょう。

さて、黒というと色のひとつですが、黒い色を作るにはどうしますか。

色光で色を作る場合、混ぜる光の色の種類(波長)が増えると、次第に明るくなっていきます。たとえば、光の3原色(RGB=赤・緑・青)をすべて混ぜると白色光になります。

W=R+G+B

GとBを混ぜると青緑(C、シアン)になり、RとBを混ぜると赤紫(M、マゼンタ)になり、RとGを混ぜると黄(Y、イエロー)になります。

C=G+B
M=R+B
Y=R+G

ということになります。このように光の色を加えていき色を作ることを加法混色といいます。加法混色で黒というのは光が存在しないということです。

一方、絵の具でいろを作る場合、混ぜる絵の具の色の種類が増えていくと、黒ずんでいきます。これは絵の具が光の吸収体だからです。特定の色の絵の具を混ぜて、別の色を作るというのは、吸収される光が増えていき、絵の具で反射して私たちの目に届く光の波長の種類が減っていくということです。

色の三原色(CMY=青緑・赤紫・黄=シアン、マゼンタ、イエロー)の絵の具を混ぜると黒い色を作ることができます。これは青緑の絵の具が赤色系の光を吸収し、赤紫の絵の具が緑系の光を吸収し、黄色の絵の具が青色系の光を吸収するからです。

C=W-R
M=W-G
Y=W-B

それぞれの色の絵の具に吸収される、赤・緑・青は光の三原色と一致します。光の三原色がすべて吸収されることになりますから、

W-R-G-B

ということになり、黒になるということになります。

光が何もない世界も黒、鮮やかな絵の具をたくさん混ぜても黒。黒というのは面白いです。

ところで4月6日はどうやら「白の日」のようです。

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2007年8月20日 (月)

交通信号の日

8月20日は交通信号の日だそうです。1931(昭和6)年8月20日、東京の銀座付近の34カ所の交差点に日本初の3色交通信号が設置されたそうです。

信号の色は緑・黄・赤ですが、この3色は世界で共通で、国際照明委員会(CIE)で定められた色です。航空関係などでは白や青の信号もありますが、CIEでは信号に使う光は赤・黄・緑・青・白の5色としており、それぞれの光の波長範囲や光の強さを定めています。

日本では緑信号は青信号です。昔は緑色の信号でしたが、最近の信号では青色が使われるようになりました。日本人は昔から青と緑を明確に区別する文化をもっておらず、緑のことも青と呼ぶことが多かったそうです。そういえば、ずいぶん前に亡くなった祖父も緑なのに青だと言っていたように思います。そんな感じですから、緑信号なのに、日本人は青信号と呼んだわけです。

近年は日本人も青と緑を区別していますから、緑色なのに青信号と呼ぶのに違和感が出てきました。緑信号が青色でないことはわかっていても、慣習で青信号と呼んでいたわけです。そこで最近の緑信号はCIEが規定している緑色信号の光の波長範囲の中で、なるべく青色に近い波長の光を採用しているそうです。それから色弱というのがありますが、一番多いのは赤と緑を区別することができない赤緑色覚異常です。そのことを考えても、より青に近い光を採用するというのは理にかなっているのではと思います。

下の写真はLEDではない信号機の青信号です。青か緑か・・・微妙です。

Fi1643102_1e

@niftyの語ろ具の8/20に信号の色の順番、左側通行と右側通行で違う?(交通信号の日 08/20) という記事が掲載されていますが、冒頭の「基本的な日本の交通信号機は「赤・黄・青」の3色ですが、これは光の波長が長く、見やすい色だからとのこと」という説明はちょっと適切ではないように思います。見やすい色は良いのですが、波長が長いからがよくありません。

赤・黄・青は波長の違いはありますがどれも可視光線です。可視光線の波長範囲は380 nm~780 nmで、おおざっぱに言えば、赤色は波長の長い方、青色は短い方、黄色は真ん中あたりなので、3色が波長が長いから採用されたという説明はちょっと変です。

よく言われるのは赤色光は波長が長いので散乱しにくく遠くまで届く(夕焼けと同じ現象)というところでしょうか。

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2007年8月19日 (日)

カメラ発明の日

カメラの語源は、ラテン語のカメラ・オブスキュラで、カメラは部屋、オブスキュラは暗いという意味です。大昔のカメラは内部が真っ暗な箱に小さい孔を開けた簡単な構造のものでした。レンズもついていなければ、フィルムもありません。小孔から差し込む光が、反対側の壁に物体の像を映し出すという、光のピンホール現象を利用したものです。

 カメラ・オブスキュラは天体の観測や絵を描く道具として使われていましたが、像を綺麗に映そうとすると像が暗くなるという問題がありました。この問題はピンホールに凸レンズをつけることで解決されました。レンズの利用によって、カメラ・オブスキュラはさらに実用的になりました。しかし、当時のカメラ・オブスキュラでは、映った像を写真として残すことはできませんでした。カメラ・オブスキュラの像をそのまま写真として残すことは人類の長年の夢だったのです。

 1826年、フランスのニエプスは天然アスファルトを感光材に使って写真の撮影に成功しました。写真を1枚撮るのに8時間もかかりましたが、カメラ・オブスキュラの像を写真として残すことに成功したのです。ニエプスは同じフランスのダゲールと研究を進め、銀メッキした銅板の表面にヨウ化銀を付着させた板を使う方法を考えました。エニプスは途中で死んでしまいましたが、ダゲールはこの研究を進め、1839年に銀板写真を発明しました。この銀板写真法をダゲレオタイプといい、そのカメラをダゲレオタイプのカメラといいます。1回の撮影で一枚の写真しか撮れませんでしたが、非常に鮮明な写真を撮ることができ、しかも撮影時間は30分と大幅に短縮されました。

 このダゲレオタイプのカメラは1839年8月19日にパリで開催された科学アカデミーで紹介され公式にその発明が認められました。ところで、多くのサイトで3月19日がカメラ発明の日と書いてあります。しかし、これは8月19日の間違いではないかと思います。

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2007年8月16日 (木)

国内最高気温の日

岐阜県の多治見市と埼玉県の熊谷市で、国内の最高気温となる40.9℃を記録しました。これまでの記録は今から74年前の1933年(昭和8年)7月25日に山形県で記録された40.8℃だそうです(注)

ここ数日ものすごく暑い日が続いています。自分の部屋は寝室のエアコンが故障しているのが7月中頃にわかり使えない状態で、げっそりしています(><)。

しょうがないのでベランダの窓を開けています。ベランダの水道をちょろちょろ流し、扇風機で室内の空気を循環させています。何もしないよりはだいぶ楽です。昔はエアコンのない部屋に住んでいましたが、そのときより数段暑いように思います。いずれにしろ、この夏は寝室のエアコンはなしです。

(注)これらの数字はいわゆる公式記録であって、東京都環境局のページには2004年7月20日に東京都足立区で42.7℃が記録されたと書いてあります。都区内の小学校に設置されている百葉箱の温湿度ロガーで記録されたデータということで、このデータは参考値ということらしいです。

(参考)世界の最高気温は1921年7月8日にイラクのバスラで記録された58.8℃です。

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2007年8月 6日 (月)

広島原爆忌

1945年8月6日、原子爆弾リトルボーイを搭載したB-29型爆撃機が広島に原爆を投下しました。今日はあの日から62回目の「広島の原爆忌」です。

この日を迎えて改めて考えたのはやはり久間前防衛相の「原爆しょうがない」の発言です。この発言で「戦争を終わらせるために原爆を投下した」「ソ連の参戦を防いだ」などの歴史的な解釈にも異論があるのですが、一番気になるのはやはり「しょうがない」という言葉でした。

過去に起こったことは取り返しがつかないのは事実ですが、それを「しょうがない」としてしまうと、この先、過ちを再び繰り返してもやむを得ないということにもなってしまいます。世の中、しょうがないで済ませられることはたくさんありますし、日常的にもよく出てくる言葉ですが、絶対に繰り返してはいけないことに対して簡単に使う言葉じゃないなと思っています。

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2007年8月 4日 (土)

科学 今日は何の日

科学技術振興機構のサイトに「科学 今日は何の日」というページがあります。

なかなか面白く、役に立つサイトなのですが、どうも誤りが多いように思います。たとえば、本日8月4日のページに【(1846)ドイツの天文学者ヨハン・ガレ「海王星」を発見】という項目があるのですが、一般的に知られているのは1846年9月23日です。8月4日というのはどこから出てきたのでしょうか。

さらに同日【(1890)明治23年 中央気象台管制公布 】とあるのですが、気象庁の気象庁の歴史を見る限りではそのようなことは記載されていません。これもよくわからないです。

それで、よく間違いの記載が多い「カメラ発明の日」を調べてみました。カメラ発明の日は8月19日のはずなのですが、日本では誰かが8を3に読み間違えたのか3月19日と書いているサイトがたいへん多いです。調べてみたら、このサイトも3月19日と記載されていました。ということで、このサイトはあまり信用できないなというのが感想です。

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2007年7月11日 (水)

ジョン万次郎が帰郷した日

 ジョン万次郎こと中濱万次郎は土佐の国中濱村の貧しい漁村の家に生まれました。

 1841年、14歳のときに手伝いで出漁したときに嵐で遭難し、太平洋の無人島(現在の鳥島)に漂着しました。仲間とともに5ヶ月近く無人島暮らしをしていましたが、アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に発見されました。

 当時、日本は鎖国状態でした。仲間たちはジョン・ハウランド号の寄港先であったハワイのホノルルで降ろされましたが、万次郎は船長のホィットフィールドに気に入られ、また本人が希望したこともあってアメリカに一緒に行くことになりました。ホィットフィールド船長は船の名前にちなんで万次郎にジョン・マンという名前をつけました。

 万次郎はアメリカで英語や航海術などをはじめとする知識を身につけ、同時に民主主義社会を経験しました。その後、別の捕鯨船に副船長として乗り込み世界の各地を航海しました。

約3年の航海を終えて、万次郎は日本に帰国することを決意しました。万次郎はカリフォルニアで金鉱を探す仕事で作った金で船を購入し、ホノルルに残した仲間を迎えに行きました。そして1851年1月、日本に帰国したのです。鎖国時にアメリカから帰国した万次郎は幕府の取り調べを受けることになりました。

故郷の土佐に帰ることができたのは帰国から約1年半も経った1852年7月11日でした。ジョン万次郎が14歳のときに遭難してから11年も経っていました。

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2007年5月29日 (火)

一般相対性理論が証明された日

 ボールを投げると放物線状に曲がりながら落下するように、私たちの身の回りにある質量をもつものはすべて地球の重力に引かれて地面に落下します。

 アインシュタインはエネルギーと質量は等価であり、相互に交換可能であることを示しました。エネルギーと質量が等価であるならば、エネルギーをもっている光も重力の影響で曲がるのではないでしょうか。

 アインシュタインは自ら導き出した結果から、光も重力で曲がると考えました。彼は大きな重力が働いているとろころでは空間が歪むため、光の道筋も曲がると考えました。光は歪んだ空間の中を直進するが、空間が曲がっているのだから、外から見ると光が曲がって進んでいるように見えると説明したのです。

Photo_18

 

 これがアインシュタインの一般相対性理論です。この理論は長らく証明されませんでしたが、1911年5月29日の皆既日食のときに、太陽の陰に隠れて見えないはずの星が見えたことによって確かめられました。

 この確認をしたのは、イギリスの天文学者アーサー・エディントです。彼は、皆既日食によって、太陽の光が遮断されたわずかな時間を利用して、太陽周辺に見える星を観察し、アインシュタインの一般相対性理論が正しいことを証明したのです。

 エネルギーと質量が同等で、光が重力によって曲がるならば、光に質量があると言っても良いのしょうか。私たちが物体の質量を考えるとき、物体は静止しています。この静止した物体の質量を静止質量といいます。光のような素粒子の質量も静止質量で表します。計算で導かれた光の静止質量はゼロでした。ただし、光は静止することなく常に一定の速度で動いていますから、光の静止質量がゼロであるというのは便宜的な意味でしかありません。逆に言うと、静止質量がゼロの光は常に動いていなければならないのです。

 エネルギーと質量が同等であるということについては、重力は質量だけでなくエネルギーを持ったものと相互作用するので、光も重力の影響を受けると考えてると良いでしょう。

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2007年5月25日 (金)

ケネディ大統領が月面着陸の声明を出す

 1961年5月25日、当時のアメリカの大統領であったジョン・F・ケネディはアメリカ連邦議会特別両院合同会議において、「10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という声明をだしました。ケネディ大統領の声明によって、当初は有人ロケットを月軌道にのせるというアポロ計画の目標が月面着陸に変更されたのです。

John F. Kennedy 's speech (Apollo program)

 アメリカが宇宙開発に力を入れた背景には、第二次世界大戦後のソビエト連邦との冷戦状態がありました。1957年10月、ソビエトは人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しました。翌11月には犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げにも成功します。

 アメリカもこれに追従するべく、人工衛星の打ち上げを試みますが、同年12月に打ち上げたバンガード1号は発射台を離れた直後に爆発してしまいました。1958年1月にようやくエクスプローラ1号の打ち上げに成功したのです。

 ソビエトは1959年に月探査目的でルナ1号を打ち上げました。また、1961年には人類初の有人宇宙船ボストーク1号の打ち上げに成功しています。「地球は青かった」のユーリ・A・ガガーリンの言葉はたいへん有名です。

 宇宙開発において、アメリカはソビエトに大きく遅れをとっていたのです。こうした状況に危機感をもったケネディ大統領は、月着陸を目標とした宇宙開発計画を実行する演説を行ったのです。

 アポロ計画で最初につくられたアポロ1号は打ち上げの演習中に爆発し、パイロット3人が死亡してしまいました。しかし、アポロ計画は中止することなく進められました。

 そしてついに、1969年7月20日、アームストロング船長とエドウィン・オルドリン飛行士がアポロ11号から切り離された月着陸船イーグルで月面の「静かの海」に着陸しました。

Kennedy Moon Landing

人類で初めて地球以外の天体へ降り立った瞬間でした。

Photo_170

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2007年4月20日 (金)

函館と郵政記念日の関係

4月20日は郵政記念日です。日本の国営の郵便制度は1871年4月20日に始まりました。そのことを記念する日が郵政記念日です。

郵便制度が導入される前は、飛脚が手紙や荷物を運んでいました。飛脚は国営ではなく民間で行われていましたが、飛脚の料金が高い、配達に時間がかかるなどの問題がありました。そこで明治政府は国の交通や通信を管理する責任者である駅逓権正の前島密(まえじまひそか)にヨーロッパですでに運用されていた郵便制度を日本で導入できないか調査を命じました。

駅逓権正は水陸の運輸と通信を管理する業務の責任者です。前島密は水陸運輸の改革を進めながら、当時不便であった通信業務の改革を進めなければならない考えました。全国規模の通信網を確立する必要性を考え、新しい郵便制度を提案しました。その後、前島密は鉄道の仕事で駅逓権正の任を解かれ、イギリスに渡りました。当時のイギリスは産業革命の真っ最中で、交通や通信がどんどん発展していました。鉄道の仕事で赴いたイギリスで、郵便のことも学んでいました。

日本では、1871年4月20日から前島密が作った案をもとに郵便制度が導入されました。前島密はその数ヶ月後に日本に帰ってきました。そして、自ら郵便の仕事に志願し、郵便業務の改革の仕事につきました。イギリスで実際に郵便のことを学んだ前島密はイギリスのやり方を参向に日本の郵便をどんどん改革してき、現在の郵便の基礎を作り上げました。

前島密は日本の郵便の父と呼ばれています。1円切手のデザインは前島密の肖像画になっています。

さて、この前島密は1835年に新潟県上越市の農家で生まれました。名前は上野房五郎と名付けらました。12歳のときに勉強するため江戸にやってきました。1835年にペリー提督が黒船を率いて神奈川県の浦賀にやってきたとき、18歳になった前島密はペリーと接見する役人の従者として浦賀を訪れました。前島密は黒船の出来ばえと、しっかりと統率された海軍にびっくりし、日本も国防をしっかりしないといけないと考えました。国防に関する上申書を国へ提出するために、全国の港湾を見て回ることを決意しました。ところが、全国の港湾を見て回るうちに自分が勉強不足であることに気がつき、ただ港湾を見て回るだけでは駄目なことに気がつきました。英語、数学、造船学などを学びました。そして、四方を海に囲まれた日本の将来のことを考え、海運に興味をもつようになり、勉強の対象は商船へと変わりました。

23歳になった前島密は、函館で蘭学者の武田斐三郎が商船学を教えていることを知り、どうしても武田斐三郎のもとで勉強したくて函館にやってきました。武田斐三郎は航海、築城、造兵などを専門に学んでおり、幕末に函館に建造された五稜郭を設計した学者です。前島密が函館にやってきたのは1858年です。そのときの名前は巻退蔵といいました。前島密は武田斐三郎の諸術調所で2年間、航海について学び、実際に航海実習を経験しました。

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2007年4月19日 (木)

人類初の宇宙ステーション打ち上げ

1971年4月19日、旧ソ連によって、人類初の宇宙ステーション「サリュート1号」が打ち上げられました。

当時、宇宙開発は米国と旧ソ連の間で熾烈な競争が行われていました。旧ソ連がガガーリン宇宙飛行士を乗せた人類初の有人宇宙船を成し遂げると(1961年4月12日)、米国は旧ソ連に遅れを取るなとアポロ11号で人類初の月面着陸を成功させました(1969年7月20)。人類初の月面着陸を米国に譲った旧ソ連は宇宙開発のミッションを宇宙空間での長期滞在に変更します。その計画がサリュートでした。旧ソ連は人類初の宇宙ステーションの計画を成功させたのです。サリュートは1971年から1982年の間に1号から7号まで打ち上げられ、最後の7号は1986年まで運用されました。

1986年には新しい宇宙ステーション「ミール」が打ち上げられます。1990年12月2日にソユーズで宇宙へと旅だった日本人初の宇宙飛行士、秋山豊寛さんもミールに滞在しています。

旧ソ連のサリュートの打ち上げの成功後、米国も宇宙ステーション計画を進め、1973年に「スカイラブ」という宇宙ステーションを打ち上げています。

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2007年4月18日 (水)

アルベルト・アインシュタイン没

相対性理論で有名なアルベルト・アインシュタインは1879年3月14日に生まれ、1955年4月18日に亡くなりました。アインシュタインの業績で一番有名なのは相対性理論に間違いありませんが、ノーベル物理学賞の受賞テーマは相対性理論ではなく、光電効果でした。

 光電効果は真空中で金属に紫外線などの短い波長の光を当てると、その一部が反射されずに吸収されて、金属内の電子が外へ飛び出してくる現象です。このとき、電子は光からエネルギーをもらい金属の外へと飛び出してくるのですが、電子が金属の外へ飛び出すには、ある大きさのエネルギーが必要になります。光電効果の現象をさらに詳しく調べてみると、以下のような面白い現象が見つかりました。

(1)電子は光があたったとたんに金属から飛び出してくる。
(2)電子のエネルギーは、あてる光の波長が短いほど大きくなる。
(3)ある波長より長い波長の光では光の明るさをいくら強くしても電子は飛び出してこない。
(4)電子が飛び出す波長の光では光の明るさを変えても電子のエネルギーは変わらない。
(5)電子が飛び出す波長の光では光の明るさを変えると飛び出してくる電子の個数が増加する。

 これらの現象は、それまで主流であった光の波動説では説明することができませんでした。波動説の立場では、いかなる波長の光でも、明るさを強くするか、あるいは十分に時間をかければ、電子はエネルギーを蓄積して、金属の外へ飛び出してこなければなりません。ところが、現実は予想に反して(1)や(3)の現象を示しました。また、波動説では、電子が飛び出す波長の光でも、光の明るさを強くすれば、光全体としてのエネルギーは大きくなるはずですから、飛び出す電子のエネルギーも大きくなるはずです。しかし、現象は(4)や(5)のようになりました。波の性質を示す光が、このような現象を起こす理由はなぜか、多くの物理学者が頭を悩ませました。光電効果は光が粒子でなければ説明できない現象だったのです。

この光電効果の不思議な現象を正しく説明したのがアインシュタインです。アインシュタインは1905年に「光は振動数(波長)に比例したエネルギーをもつ粒子(光量子または光子)である」という光量子論説を発表し、光の正体を解き明かしました。

もし、光が弾丸のような粒子だったら、光がぶつかったとたんに電子が飛び出るという(1)の現象が成り立つと考えました。また、光は振動数に応じたエネルギーをもつ粒子であるため、光の明るさを強くしても光子1個のエネルギーは変わらないと考え、(2)、(3)、(4)の現象を説明しました。さらに光の明るさが強くなるということは、光子の数が増えることであると考え(5)の現象を説明したのです。アインシュタインが、光が粒子の性質と波の性質をあわせ持った光子であるとを結論づけたことによって、光の波動説と粒子説の論争に終止符が打たれることになったのです。

相対性理論がノーベル賞の受賞の対象とならなかったのは、当時相対性理論を正しいと判断できなかったというのもありますが、彼がユダヤ人であり相対性理論がユダヤ人的考えであるという批判が少なくなかったからだと言われています。

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2007年4月17日 (火)

ベンジャミン・フランクリン没

雷が電気現象であることは1740年代にすでに何人かの科学者が指摘していましたが、雷の正体を初めて実験で確かめたのはアメリカの政治家でもあり、科学者でもあるベンジャミン・フランクリンです。

フランクリンはガラスびんの内側と底にスズ箔を張った「ライデンびん」という蓄電装置を作り、「ライデンびん」に電気を蓄電していくと電気火花が発生することを知っていました。フランクリンはこの電気火花が雷の稲妻と同じものであると考えたのです。

フランクリンは1752年6月15日、雷雲をめがけて凧を上げました。 フランクリンの凧の糸は絹でできていました。雷が鳴る空で、絹糸は雷の中で帯電し、糸に取り付けられた地上のライデンびんに蓄電されていきました。この実験で雷が静電気であることが確かめられたのです。

フランクリンは電気にはプラスとマイナスの極性があることを発見したり、避雷針を発明しています。

ベンジャミン・フランクリンは1790年4月17日に永眠しました。

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2007年4月16日 (月)

チャーリー・チャップリン生まれる

今日4月16日はチャップリンの日です。チャーリー・チャップリンは1889年4月16日に生まれました。

チャップリンの映画で好きなのは、「街の灯」と「独裁者」です。他のも好きですが、この2つが印象に残っています。

ということで、今日は久しぶりに独裁者を見ました。

この映画は第2次世界大戦中のナチスドイツをパロディにした映画ですが、単にパロディというだけでなく、チャップリンの戦争反対という考えが伝わってきます。

この映画で、チャップリンは一人二役を演じています。一人は戦争に兵隊として駆り出され記憶を失って町に戻ってきたユダヤ人の床屋、もうひとりはナチス政権下のドイツに相当するトメニアという国のヒンケルという総統の役です(ヒトラーに相当する)。

ヒンケルはユダヤ人を迫害し、ユダヤ人の町に襲いかかりますが、ある事件をきっかけに、ヒンケルにそっくりな床屋が、ヒンケルに間違われて、トメニアの総統ヒンケルの立場になってしまいます。

ヒンケルは富国強兵を進め、民主主義に反対する演説を繰り返していますが、この床屋が国民の前で演説をしなければならい状態になります。

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演説などしたことのない床屋は困ったような顔をしますが、意を決した彼は、このように演説します。

「申し訳なかった。私は皇帝なんかにはなりたくない。支配もしたくない。できれば皆を援助したい。ユダヤ人も、黒人も、白人も。人類はお互いに助け合うべきなのである。他人の幸福を願って、お互いに憎しみあうべきではない。世界には、全ての人類を養っていくことができる富がある。人の人生は自由であり、楽しいものであるはずなのに、貧困と欲が人類の心を毒して、憎悪を作り出し、悲劇と流血を招いたのだ。スピードも意思を通じさせず、機械は貧富の差を作り、知識を得て人類は懐疑的になった。思想だけがあって感情がなく人間性が失われた。知識より思いやりが必要である。思いやりがないと暴力だけが残るのである。航空機とラジオは我々を接近させ、人類の良心に呼びかけて、世界をひとつにする力がある。私の声は全世界に伝わり、失意の人々にも届いている。これらの人々は罪なくして苦しんでいる。人々よ、失望してはならない。やがて貧欲は姿を消す、恐怖も消え去り、独裁者は死にたえる。大衆は権力を再び取り戻し、自由は決して失われない。兵士たちよ、犠牲になってはいけない。独裁者の奴隷になってもいけない。独裁者たちは諸君たちをあざむく、諸君に犠牲を強いて、家畜のように追い回す。独裁者たちは人間ではない。心も頭も機械と同じだ。諸君は機械ではない、人間なんだ。心に愛を抱いている。愛を知らぬ者だけが憎しみ合う。独裁をしりぞけ、自由の為に戦うべきだ。神の王国は人間の中にあるんだ。1人の人間の中だけではなく、すべての人間の中に、諸君の中に。諸君は幸せを生み出す力をもっている。人生は美しく、自由で、すばらしいものなのだ。諸君の力を民主主義のために集結しよう。よき世界を作るために戦おう。若者には希望を与え、老人には保障を与えよう。独裁者も同じ約束をしたが、奴らは約束なんて守らない。奴らは野心を満たし、大衆を奴隷にしたのだ。戦おう、約束を果たすために。世界に自由をもたらすんだ。国境をなくして、貧欲と憎悪を追放しよう。良識のために戦っていこう。文化の進歩が人類すべてを幸せに導いていくように。兵士たちよ、民主主義のために団結しようじゃないか」

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2007年4月15日 (日)

タイタニック号が氷山に衝突

 タイタニック号はイギリスの豪華客船です。総重量4万6329トン、長さ269m、幅26m、高さ53m、二重船底、水密隔壁といった構造の巨大な客船は不沈船と思えるほど立派なものでした。4万6000馬力、最大速度24ノットのタイタニック号は海上を滑るように走る宮殿のようでした。

 タイタニック号は1911年5月に進水式を行い、翌1912年4月に試運転を行いました。その後、処女航海の出発となるサウサンプトン港に向かい、4月10日午後12時にニューヨークをめざして出発しました。

 タイタニック号は順調な航海を続けていましたが、航海開始5日目にあたる14日、付近を航行する船から氷山に関する警告が無線で何度か入ってきました。無線を受けたタイタニック号はわずかに航路をずらしましたが、航行速度は落とさずに航海を続けました。

 14日の夜は月齢26で海上は真っ暗でした。さらに波もほとんどなく、あたりに氷山があっても気がつきにくい状態でした。そして、処女航海でバタバタしていたせいか見張台に望遠鏡が設置されていなかったという不幸が重なりました。午後11時40分、北大西洋のニューファウンドランド沖で、見張台から前方450mに高さ約20mの氷山を発見したという報告が入ってきました。タイタニック号は直ちに氷山を回避しようと左に舵を取りました。かろうじて正面衝突は免れましたが、氷山が右舷をかすめ、右舷船首に長さ数十メートルにわたる深い傷を負ってしまいました。タイタニック号は直ちに停船しましたが、浸水が始まりました。排水などを試みましたが、ついに衝突から2時間40分後の15日午前2時20分に真ん中から折れるように割れて沈没してしまったのです。

 タイタニック号は救難信号を出したり、信号弾を発射したりしましたが、タイタニック号の危機は他の船には伝わりませんでした。唯一、90Km離れたところにいた客船が現場に急行しましたが、到着したのは午前4時を過ぎてのことでした。タイタニック号には乗員乗客がすべて乗り込めるだけの救難ボートが搭載されておらず、多くの人が船から脱出できませんでした。犠牲者の数は1500名を超える大惨事となりました。

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2007年4月12日 (木)

地球は青かった

1961年4月12日、人類初の有人宇宙ロケットボストーク1号が旧ソ連によって打ち上げられました。このロケットに乗っていたのは、ユーリー・ガガーリン宇宙飛行士です。ガガーリンをのせたボストーク1号は高度327 kmで地球の周回軌道にのり、時速2万7400 kmで地球を一周しました。その飛行時間はわずか1時間48分でしたが、人類初の宇宙旅行を成し遂げました。

ガガーリンの言葉として有名なのが「地球は青かった」です。この言葉は飛行中に言ったわけではないそうです。また、飛行中に「神はいなかった」と言ったことが伝えられていますが、この言葉は更新記録にもなく、その出典も明らかではないそうです。

宇宙から生還したガガーリンは親善のため世界各国を訪問し、その後は宇宙飛行士の養成の仕事をしました。1968年3月27日、ジェット戦闘機で飛行訓練中に墜落、34歳の若さで他界しました。

さて、このガガーリンによる有人宇宙飛行は、宇宙開発で旧ソ連に大きな遅れをとっていたアメリカをおおいに刺激しました。1961年5月に、J・F・ケネディ大統領は「10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球
に帰還させる」と宣言しました。これがアポロ計画です。

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