カテゴリー「函館の話」の12件の記事

2009年9月18日 (金)

函館市が「最も魅力的な街」に選ばれる

ブランド総合研究所が7月に行ったインターネットアンケート調査で北海道函館市が「魅力度」で1位となりました。

詳しい情報は下記に記載されています。

http://www.tiiki.jp/corp_new/pressrelease/2009/20090910.html

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月21日 (木)

函館と天気予報の話

8月21日は日本の新聞に初めて予想天気図が掲載された日だそうです。1924年に国民新聞(1942年に東京新聞の前身である都新聞と合併)という日刊新聞に掲載されたそうです。

日本で初めて天気図が刊行されたのは1883年だそうですが、日本の気象観測の歴史は1871年7月に明治政府が工部省が東京の三角測量を始めたところから始まります。

工部省とは、鉄道、電信、灯台、造船、鉱山、製鉄などの事業を行っていた中央官庁組織です。このとき測量を任されたのはイギリス人のマクビーンという測量技師長と、ジョイネルという測量技師でした。ジョイネルは工部省に気象観測の重要性を主張し、工部省は1873年5月に日本で初めての気象台を設立することを決めました。

日本政府はイギリスのロンドン気象台に気象観測に必要な機材の調達を依頼するため、河野通信とマクビーンをロンドンに派遣しました。彼らはフランス人のシャーボーに機材調達を依頼、シャーボーは1年3ヶ月をかけて測量機材を調達し、1874年7月に日本にやってきました。

1875年5月に調達した気象機材の据え付けが完了しました。気象台は現在の東京都京都港区虎ノ門にありました。 そして、1875年6月1日、東京気象台で気象観測を開したのです。そして、6月1日が気象記念日と制定されました。

そうか、そうか、ということになるわけですが、函館出身者としては、ちょっと待って!ということになるのです。

日本で最初に気象観測所として気象観測が行っていたのは函館気候測量所、現在の函館海洋気象台です。このあたりの話については、函館海洋気象台の「日本で最初の気象台」というサイトに詳しく説明が出ていますが、観測が始まったのは1872年8月26日だそうです。これが日本で初めての気象観測所による気象観測なのです。

気象記念日は8月26日にするべきだ!と言ってみる・・・なぜ3年後の東京気象台の方が気象記念日なのだろう。

工部省が気象台を設立すると決めたのが1873年。その1年前にできている函館気候測量所。おそらく、気象台という位置づけではなかったのかな。北方開拓のために作られた開拓使という官庁が作ったのが函館気候測量所のようで、函館海洋気象台という名前になったのは1942年になってからのようです。

でも、日本で初めての観測所での気象観測ということであればやはり8.月26日ですね。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 6日 (木)

函館と禁酒の関係

どうも最近、犯罪もしくは犯罪に近いことをやっておきながら「酔っぱらって覚えない」と言う人が増えているような気がします。「そのとき自分は正常な判断ができる状態になかった」ということを言っているのでしょうが、聞いていて呆れてしまいます。あまりにも醜い言い訳のように思います。

犯罪などとはほど遠くても、仲間うちの飲み会などで泥水し、絡むなどの行為で他人に迷惑をかける人がよくいます。そして次の日は覚えてないことにして平気でいます。いい年のおじさんが酒を飲んで他人に迷惑をかけて「覚えてない」と平気で言うのです。こういう人には禁酒法を適用したいところです。

さて、ニュースを見ながらそんなことを考えながら「禁酒」でGoogle検索をしてみたら、日本禁酒同盟という組織のサイトがトップに出てきました。なるほど禁酒の運動をしている人たちもいるわけです。

このサイトに同盟のあゆみというページがあるのですが、安藤太郎という人の話が出てきます。安藤太郎氏はどうやら日本禁酒同盟会という組織が明治31年(1899)年に発足されたときに中心となって動いた人物のようです。この安藤太郎氏の経歴を見てみると、幕末に海軍の副総裁の榎本武揚とともに幕府軍として箱館戦争に従軍したようです。その後は明治政府の大蔵省、外務省に勤め、明治19年(1886年)には初代のハワイ総領事になったほどの人のようです。

東京都港区には安藤記念教会というのがあります。こちらのようです。

拡大地図を表示

自分は禁酒はまったく平気ですし平日はほとんど飲みません。でも、禁酒はしたくありません。

健全にお酒を飲むよう心がけております(^^;)>

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 2日 (土)

東北・北海道新幹線で函館まで

先日、函館に戻ったときに、北海道新幹線の話を随所で耳にしました。

もとJR北海道職員の叔父さんが「北海道新幹線が函館まで開通したら利用するか?」と聞くので、気軽に乗れる新幹線と、時間のかからない飛行機、自分にとっては、どちらが便利なのか考えてみました。

東北新幹線の路線は東京駅から八戸駅まで 593.1 kmです。建設が予定されている新青森駅まで開通すると、東京駅から総延長 674.9 kmということになります(新幹線の線路の実際のキロ数)。

北海道新幹線は新青森駅から建設が予定されている新函館駅まで 148.9 km、札幌駅まで 360.2 kmです(推定営業キロ数)。

実キロ数と営業キロ数が混在していますが、東北新幹線と北海道新幹線をあわせた東京駅から新函館駅までの距離は823.8 km、札幌までの距離は1035.1 km ということになります。

東京駅から札幌駅までの所用時間は3時間57分です。新函館から札幌駅までの所要時間は50分だそうですから、東京駅を出た新幹線は3時間7分で新函館駅に到着することになります。

航空機で羽田から函館空港までの所要時間は1時間20分です。飛行機の場合は、搭乗手続やらセキュリティチェックなどがありますから、空港で30分ぐらいの余裕が必要です。

自分が住んでいるところは東京駅まで1時間ちょっとかかります。新幹線に乗る場合は2時間ぐらい前に家を出ます。羽田空港だと1時間半以上かかるので、2時間半ぐらい前には家を出ます。

函館空港から実家まではタクシーで20分ほどです。

新函館駅から函館駅までは20 kmほど離れています。乗り継ぎで30分くらいはかかるでしょうか。函館駅から実家までやはり20分ほどですから、あわせて50分です。五稜郭駅で降りると、家までタクシーで15分ぐらい、五稜郭から函館駅までは10分かかりません。そう考えると、どんぶり勘定ですが、新函館駅から実家までは40分ぐらいでしょう。

そうすると所要時間は、

飛行機の場合:

自宅から羽田空港(2時間30分)+羽田空港から函館空港(1時間20分)+羽田空港から実家(20分)ですから、所要時間は4時間10分です。

新幹線の場合:

自宅から東京駅(2時間)+東京駅から新函館駅(3時間7分)+新函館駅から実家(40分)ですから、所要時間は5時間47分です。

新幹線の方が約1時間40分ほど時間がかかることになります。これぐらいの差なら新幹線を使っても、飛行機を使っても、どちらでもいいかなと思います。

あとは料金がどれぐらいの差になるかというところだと思いますが、飛行機でも新幹線でも、どちらでもそれなりの時間でいけるようになるのは嬉しい限りです。どちらを選ぶかはそのときの気分次第ということになりそうです。JRがグループで共通な特急もしくは新幹線利用でつくマイレージでもやり始めると、新幹線に積極的に乗るのですが。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月20日 (金)

函館と郵政記念日の関係

4月20日は郵政記念日です。日本の国営の郵便制度は1871年4月20日に始まりました。そのことを記念する日が郵政記念日です。

郵便制度が導入される前は、飛脚が手紙や荷物を運んでいました。飛脚は国営ではなく民間で行われていましたが、飛脚の料金が高い、配達に時間がかかるなどの問題がありました。そこで明治政府は国の交通や通信を管理する責任者である駅逓権正の前島密(まえじまひそか)にヨーロッパですでに運用されていた郵便制度を日本で導入できないか調査を命じました。

駅逓権正は水陸の運輸と通信を管理する業務の責任者です。前島密は水陸運輸の改革を進めながら、当時不便であった通信業務の改革を進めなければならない考えました。全国規模の通信網を確立する必要性を考え、新しい郵便制度を提案しました。その後、前島密は鉄道の仕事で駅逓権正の任を解かれ、イギリスに渡りました。当時のイギリスは産業革命の真っ最中で、交通や通信がどんどん発展していました。鉄道の仕事で赴いたイギリスで、郵便のことも学んでいました。

日本では、1871年4月20日から前島密が作った案をもとに郵便制度が導入されました。前島密はその数ヶ月後に日本に帰ってきました。そして、自ら郵便の仕事に志願し、郵便業務の改革の仕事につきました。イギリスで実際に郵便のことを学んだ前島密はイギリスのやり方を参向に日本の郵便をどんどん改革してき、現在の郵便の基礎を作り上げました。

前島密は日本の郵便の父と呼ばれています。1円切手のデザインは前島密の肖像画になっています。

さて、この前島密は1835年に新潟県上越市の農家で生まれました。名前は上野房五郎と名付けらました。12歳のときに勉強するため江戸にやってきました。1835年にペリー提督が黒船を率いて神奈川県の浦賀にやってきたとき、18歳になった前島密はペリーと接見する役人の従者として浦賀を訪れました。前島密は黒船の出来ばえと、しっかりと統率された海軍にびっくりし、日本も国防をしっかりしないといけないと考えました。国防に関する上申書を国へ提出するために、全国の港湾を見て回ることを決意しました。ところが、全国の港湾を見て回るうちに自分が勉強不足であることに気がつき、ただ港湾を見て回るだけでは駄目なことに気がつきました。英語、数学、造船学などを学びました。そして、四方を海に囲まれた日本の将来のことを考え、海運に興味をもつようになり、勉強の対象は商船へと変わりました。

23歳になった前島密は、函館で蘭学者の武田斐三郎が商船学を教えていることを知り、どうしても武田斐三郎のもとで勉強したくて函館にやってきました。武田斐三郎は航海、築城、造兵などを専門に学んでおり、幕末に函館に建造された五稜郭を設計した学者です。前島密が函館にやってきたのは1858年です。そのときの名前は巻退蔵といいました。前島密は武田斐三郎の諸術調所で2年間、航海について学び、実際に航海実習を経験しました。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月15日 (日)

箱館ハイカラ號-運行開始

函館の街は路面電車が走っています。今から25年ほど前は、「路面電車は遅い」「バスの方が便利だ」「車で走っていると邪魔だ」「架線が邪魔だ」などと言われ、路面電車廃止の声も聞かれました。やがて、路線の一部が撤去されたのですが、守る会などの市民運動もあって、函館の路面電車はその歴史を閉ざすことなく、今でも市民の足として函館市内の端から端までを走っています。

函館の路面電車の歴史は古く、今から110年前の1987年(明治28年)にさかのぼります。このとき開通したのは、もちろん電車ではなく馬車鉄道でした。北海道で初めて走った馬車鉄道だそうです。馬車が電車になったのは1913年(大正2年)のことです。北海道で初めて走った路面電車でした。

その函館の路面電車の歴史を背負って市内を走るのが「箱館ハイカラ號」です。

5c551

この電車は1910年(明治43年)から千葉県で使われていたそうですが、1918年に函館へやってきたそうです。約20年間客車として働き、1937年(昭和12年)からは改造されて除雪車として活躍していたそうですが、1993年に昔の姿に復元されました。冬期をのぞく期間だけですが、「箱館ハイカラ號」として函館の街中を走っています。今年度は、この函館ハイカラ號は今日から運行開始です。

不便だとか言われていて電車も、時を経て観光の人気の的になっています。また、近頃の環境問題で、二酸化炭素排出量削減で見直されています。函館の市電の歴は末永く続くでしょう。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月16日 (金)

函館とハーバー(ノーベル化学賞)の関係

フリッツ・ハーバー(1868/12/9-1934/1/29)は1918年にノーベル化学賞を受賞したポーランド(当時はドイツ)の化学者(専門は物理化学)です。

ハーバーの業績は何と言っても空気中の窒素からアンモニアを合成する方法を開発したことです。化学を学んだことのある人であればハーバー法(ハーバー・ボッシュ法)と言えばピンと来ると思います。彼は1904年にこの研究に着手しました。7年後の1912年には、ドイツのBASF社でアンモニアの合成が実用化されました。

植物の生長には窒素が不可欠なのですが、昔は窒素を含む肥料が不足していたため農産物を大量生産することができませんでした。ハーバー法が実用化されたことによって、合成窒素肥料を工業的に大量に生産することができるようになり、農産物をたくさん生産することができるようになったわけです。

植物は食物連鎖では下層の生産者の立場ですから、植物がたくさんできるようになると、動物も増えることになります。私たち人間は植物も動物も食べます。植物を増やしたことによって人口を増やしてきたとも言えるでしょう。

Photo_46

私たちの体を作るタンパク質を構成するアミノ酸には窒素が含まれています。考えてみたら、人類はものすごい量の窒素を固定化してきたとも言えそうです。

さて、話を元に戻します。函館で1874年(明治7年)に殺人事件が起きました。殺されたのはドイツの代弁領事でした。ちょうどこの頃、旧秋田藩の士族であった士田崎秀親は外国の思想を日本から排除しようとして外国人の暗殺をするために函館に来ていました。田崎秀親が函館市中を外国人を捜しまわっていたところに、不幸にも出くわしてしまったのが、このドイツ領事です。ドイツとの外交問題にも発展するほどの事件でしたが、田崎秀親が直ちに自首し、死刑となったこと、事件が田崎秀親の単独犯であったことなどにより、外交問題には発展しませんでした。ドイツ領事は翌日に函館の外人墓地に葬られました。

ドイツ領事が殺された事件現場(函館公園)には下の写真の記念碑が建てられています。

Photo_44

この記念碑は1924年(大正13年)に領事の没後50年ということで建てられたものです。そのときには、ドイツ領事の甥が記念祭に出席していました。この甥がノーベル化学賞受賞者のフリッツ・ハーバーだったのです。 殺されたドイツ代弁領事の名前はルードヴィッヒ・ハーバー、フリッツ・ハーバーのおじさんだったというわけです。この記念碑はハーバー遭難記念碑といいます。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月12日 (月)

函館とホタテ貝の関係

ホタテは帆立と漢字で書きます。なぜ、帆立と呼ばれるようになったのかは、ホタテの貝殻の形が帆船の帆に似ていたからといいます。しかし、生きているホタテは貝を船の帆のように立てているわけではありませんから、口を開いたホタテの形を見て帆立と名付けたそうです。1712年に出版されたされた日本初の図解百科辞典和漢三才図会にホタテ貝の名前が出てきます。

さて、このこのホタテには、Patinopecten yessoensisという学名がつけれています。その意味は「北海道の櫛の模様のある皿」です。この学名がつけられた背景には、函館と江戸時代鎖国をしていた日本の外交政策を大きく変えることになったアメリカ人が関係しています。

その外国人とは1853年に江戸湾浦賀沖に姿を現した黒船を率いていたペリー提督です。ペリー提督は日米和親条約に調印した後、日本のいくつかの都市に黒船で寄港していますが、函館には1854年5月12日にやってきました。函館の町は大騒ぎになったそうですが、日米和親条約を結んだ後ですから、この寄港は友好的なものでした。函館の弁天町にあった豪商・山田屋寿兵衛の屋敷で松前藩の役人と会見を行いました。その屋敷跡に建てられたのがこの標柱です。

Photo_34

元町の基坂(もといざか)にペリー提督来港150周年を記念する銅像が建てられました。

Photo_35

ペリー提督の艦隊は江戸幕府に鎖国を解除するよう求めただけではなく、各地で学術調査も行いました。日本各地のことが「ペリー日本遠征記」にまとめられています。

ペリー提督の艦隊は函館にやってきたとき、ホタテを見てこれはめずらしい貝とアメリカに持ち帰ったそうです。ホタテは新種の貝として紹介され、Patinopecten yessoensisという学名がつけられました。Patinopectenは、櫛のような模様のある皿、yessoensisは蝦夷地(北海道)のことだそうです。

かくして、ホタテの学名は「北海道の櫛のような模様のある皿」となったわけです。ホタテがいるのは日本だけではないはずなのに、学名に蝦夷が入っているのは上述のような歴史があったからです

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月10日 (土)

函館と電柱の関係

タイトルだけでは何のことだかわからないと思いますが、函館には日本最古のコンクリート製の電柱があります。

ふだん見かけるコンクリート製の電柱は円筒形をしていますが、日本最古のコンクリートは四角形です。一目瞭然ですので次の写真をご覧ください。

Photo_27

この電柱は1923年(大正12)に当時函館にあった電力会社(現在は北海道電力)が建てたものです。国内で現存するコンクリート製の電柱としては最古のものだそうです。

電柱の高さは10メートル、底面は47センチメートル四方の四角形、上面が19.5センチメートル四方の四角形となっています。角錐体ということになります。コンクリートの内部には鉄筋が入っています。

電柱は木製のものがほとんどでしたが、函館は1907年(明治40年)に大火事があり、その後も火事が続いてため、耐火性に優れた建物が造られるようになりました。その頃に作られたのがこの電柱です。この電柱のすぐ側にもう一本同じ形の電柱があり、夫婦電柱と呼ばれていたのですが、その電柱は1971年(昭和46年)に道路工事のために撤去されてしまいました。

1923年から80年以上たった今でも、この電柱は現役として電柱の役割を果たしています。

Google Mapでいうと、ちょうどこのあたりになります(15という数字のあるところ)。赤煉瓦倉庫からすぐですので、函館に観光に来たときには是非日本最古のコンクリートをご覧ください。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 7日 (水)

函館と赤とんぼの関係

夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのは、いつの日か

有名な童謡「赤とんぼ」の歌詞です。子どもの頃、「負われて見たのは」を「こわれて見たのは」と思っていた頃があります。何が壊れたのかさっぱりわかりませんが、そう思っていたのです。

しばらくして、「負われて見たのは」が正しいということを知りました。そして次に出てきた疑問。「負われて見たのは」って、負われたってどういうことなの?ということでした。これも、そのうち「背負われて見たのは」ということがわかりました。なるほどねぇ。

Photo_16

ミヤマアカネ

さて、この童謡の歌詞の解釈には論争があったそうです。主人公は、赤とんぼを背負われて見たわけですが、その主人公を背負っていたのは誰か?ということです。

「赤とんぼ」の三番目の歌詞はこうです。

十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた

この歌詞から想像すると、主人公はこの姐やに背負われていたのではないかと考えるのが自然です。この「赤とんぼ」は1921年大正10年に発表された歌です。この時代を考えると、少女が幼児を背負って子守をしているのはよくある光景だったでしょう。

これに対して、いや主人公を背負っていたのは母親だという考えもあります。歌詞には母親と思えるような人物は出てきませんが、子どもを背負っているのは母親というイメージが強かったのでしょう。

さて、「赤とんぼ」の歌詞は三木露風(みき ろふう 1989-1964)という兵庫県出身の詩人によるものです。1920年(大正9年)に、函館のトラピスト修道院の講師に就任します。トラピスト修道院の初代院長であるジェラール・プーリエ院長(のちに、帰化が認められ、岡田晋理衛と名乗る)が、三木露風に講師を依頼したからです。同年、三木露風は婦人とともに函館にやってきて、函館トラピスト修道院講師に着任しました。翌1921年(大正10年)に、2人は洗礼を受け、この年に三木露風は「赤とんぼ」の詞を書いています。

Photo_17

函館トラピスト修道院(実際は当別町)

この頃の三木露風の自筆のメモが見つかっています。「赤とんぼ」は函館トラピスト修道院でアカトンボを見て、幼い頃を思い出して書いた詩であることが記載されています。「赤とんぼ」の主人公は三木露風自身であり、幼い彼を背負ったのは子守役の娘だそうです。ということですから、詞に出てくる「姐さん」は母親ではなかったということになります。

人気blogランキングへ

| | コメント (2) | トラックバック (1)

より以前の記事一覧